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日本軍による占領がフィリピン社会に与えた根深い問題

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悪い意味で何も変えなかった日本軍のフィリピン占領

太平洋戦争とその影響が語られる時、日本の社会や政治体制、人々の心の面がどう変わったか、あるいは変わっていないか、という面にフォーカスが当たる傾向が多いように思います。

それはそれで大事なのですが、日本がおっぱじめた戦争が、他の国々にどれくらい大きな影響を与えたかという視点で語られることはあまり無いように思います。

 あっても、「アジア解放に多大な貢献した」とか「住民を殺したり強姦しまくった」みたいな物事を単純化した見方ばかりです。

さて、日本軍のフィリピン占領は、実際のところフィリピン社会の土台を揺るがすような変化を何も起こすことはありませんでした。一方で戦後フィリピンの国の選択肢を狭め、国の有り様を決定づける結果になりました。

 

 

1. 仮想敵国・日本

フィリピンは1901年からアメリカの植民地になっており、当然アメリカの影響力が最も大きかったのですが、フィリピン内の日本の影響力も無視できないものがありました。

在留邦人は約3万人と中国人の次に多く、貿易でも1940年の数字はアメリカ(34.4%)に次いで18.4%のシェアを占めるなど、人的・経済的な結びつき非常に強いものがありました。

このような強い日本との結びつきは、もしフィリピンがアメリカから独立したら、日本の経済圏に取り込まれてしまい、国を丸ごと奪われるか、あるいは満州のように国土の一部を切り取られてしまうのではないか、という懸念を生じさせました。

 

実際、アメリカへの抵抗を続ける反対勢力はカウンターとして日本の武力に期待し、元独立軍司令官でフィリピン人の間でも尊敬されるアルテミオ・リカルテ将軍は横浜に亡命していたし、強烈な反米主義者で蜂起事件を起こしたこともあるガナップ党党首ベニグノ・ラモスも、日本に亡命し右翼団体・大亜細亜協会の保護を受けていました。

▽アルテミオ・リカルテ将軍

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▽ガナップ党党首ベニグノ・ラモス

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1935年、将来の独立を見据えた自治政府フィリピン・コモンウェルス政府が発足。

早速政府はアメリカ本国からダグラス・マッカーサー前陸軍参謀長を招聘し、日本が侵攻してきた際の防衛戦略の立案や要塞の強化、さらには予備役訓練の実施など、日本を仮想敵国とする防衛体制の強化をスタートしました。

一方でコモンウェルス政府大統領のマヌエル・ケソンは、日本政府ともたびたび連絡を取り合いお互い領土的野心がないことを確認しあった上で、日本を刺激しないように防衛予算の削減を実施するなど、日本との友好関係の維持に努めました。

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しかしケソン大統領の外交政策も、日本軍の仏印進駐に対するアメリカの制裁に歩調を合わさざるを得ず、対日貿易の停止やフィリピン陸軍のアメリカ軍への統合など対決姿勢を強くしていきました。

 

 

2. 「新比島建設」計画

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「米国依存から脱却しアジアに復帰せよ」

1941年12月8日の開戦直後から、日本軍はフィリピン各地に攻撃を開始。

23日にはルソン島リンガエン湾に日本軍が上陸し、マッカーサーは水際防衛を断念し軍主力をバターン半島に退却させ、自らもコレヒドール要塞に脱出しました。

ケソン大統領は側近のバルガスをマニラ市長に任命し

「日本に忠誠を誓う以外のあらゆる方法で国民の苦労を和らげよ」

と述べアメリカに亡命しました。

日本軍は1942年1月2日にマニラを占領。その後バターン半島の戦いが終わるまで戦闘は長引くものの、各地の占領が滞りなく進んでいきました。

 

このアメリカの敗北と日本の勝利はフィリピン人に大きな衝撃を与え、「結局アメリカはヨーロッパを優先して自分たちを助けてくれなかった」という思いを抱く者が現れてきます。日本はそのような心理状態を突き、「アメリカ依存から脱却をし、アジアへ復帰を果たす」ための「新比島建設」のプロパガンダを喧伝しました。

1943年5月にマニラを訪問した東条英機は「誤れる米国主義を速やかに一掃して大東亜民族の真の姿」に立ち帰り「大東亜戦争の完遂に協力し、一日も速やかに独立の栄冠を獲得する」ことを望むと述べました。 

 

日本軍の占領政策

一方で、日本軍政はフィリピン・コモンウェルスの体制をそっくりそのまま温存しました。

「新比島建設」など大層なことを言うのであれば、既得権益層の破壊や政治体制の刷新など考えてもいいものですが、1943年10月に発足したホセ・ラウレル大統領の「フィリピン第二共和国」の発足以降も、議員や地方の代議士も旧体制のまま何も変化がありませんでした。 

▽ホセ・ラウレル

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なぜ日本軍がフィリピンの体制を温存しようとしたかというと、「特にめぼしい物資がなかったから」です。

インドネシアの石油やすずなどは、既得権益層や抵抗勢力をぶっ潰してでも手に入れたかったに違いありませんが、フィリピンで産するものといえば椰子油や砂糖、コプラ程度であったため、日本軍にとってフィリピンは「特に問題を起こさずに従順な存在でいてくれればそれでいい」くらいに思っていたようです。

そのため、積極的な経済投資や戦災によってストップした物流の復帰は放棄され、日本軍政はフィリピン経済の「自給自足」を奨励しました。しかし、フィリピンは既にアメリカとの強い経済的結びつきによって成り立っており、アメリカとの貿易が断ち切られ極度の物資不足や経済混乱に陥ることになり、さらには日本軍は軍事物資の現地徴収を強化したため、フィリピン人は「新比島建設」などといったプロパガンダは信用しなくなり、人心の離反を招いたのです。

 

 

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3. レジスタンスの拡大

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抗日武装闘争の激化 

日本はフィリピンを「従順な非征服地域」であることを望みましたが、翻ってこの地は東南アジアで最も激しい現地住民の抗日武装闘争が発生しました。

旧コモンウェルス正規軍の残党や、地方の名望家が組織するゲリラの大半はオーストラリアに退避したマッカーサーとコンタクトを取り、その指揮下で抗日武装闘争を展開しました。

一方で、戦前から農村地帯に強い影響力を持っていた社会党・共産党は中部ルソン地方でフクバラハップというゲリラ組織を結成し、日本支配打倒の後に共産主義革命を起こすべく激しい武装闘争を開始しました。

地方のエリート層は、支配者である日本と抗日組織の両方に通じ、日本によって自分の特権が奪われないようにしつつも、農民層とのコンタクトを通じて日本側の横暴を防ぐ役割を果たしました。

中には、特権を守るために積極的な対日協力を行う地主層もおり、フクバラハップ支持層である農民層と激しく衝突する地域もありました。

 

ラウレル政権の苦難

1943年10月以降、日本は物資確保が困難になりよりフィリピン国内からの食料調達を強化するようになります。ラウレル政権は、なるべく日本軍との距離を保とうとし、対米宣戦布告を1年以上にも渡って拒否し続けました。日本軍による再三の圧力に末にようやく宣戦布告に踏み切るも、実際にはその文言は「非常事態宣言」を発するのみで戦闘行為には言及しておらず、日本軍部を大変イラつかせるものでした。

1944年10月、アメリカ軍がレイテ島に上陸すると、日本は親日派ラモスのガナップ党を主体とした武装組織「マカピリ(フィリピン愛国者同士会)」を組織し郷土防衛に当たらせようとします。

ラウレルはこれに反対するも、顧問の浜本正勝らの説得によって同意し、抵抗を続けながら1944年12月にバギオにまで撤退。それからラウレルは台湾経由で日本に亡命しました。一方で、マヌエル・ロハスを始めとしたラウレル政権の主だった連中はアメリカ軍の占領地域に脱出し、戦後のフィリピン政治を担うことになります。

フィリピンの指導者層は、支配者である日本と妥協しつつも、状況を冷徹に見据えて、現実的に次に打つべき手を考慮して行動していたことがわかります。

なお、大統領に担ぎ上げられたラウレルは、1945年8月17日、終戦の2日後に奈良ホテルにてフィリピン第二共和国の消滅を宣言しました。

 

4. 日本軍政の終了・戦後フィリピン社会に与えた影響

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1944年10月のアメリカ軍レイテ島上陸以降、フィリピン解放戦は民間人10万人を含む多大な犠牲を払いつつも、日本軍の抵抗は8月15日に日本が無条件降伏をするまで激しく続きました。

8月25日、すぐにマッカーサーは戦前のコモンウェルスの復活を宣言し、その後1946年7月4日に、1934年の独立法に定められた通りに共和国として独立を果たしました。

フィリピンの独立は、日本軍が侵入してこようがしまいが既に1934年の時点で決定されたものだったので、「日本がフィリピンをアメリカの支配から解放した」などという主張は大ウソです。そういう意味だと、日本軍のフィリピン支配は、結果的には何も変えなかったということになるかもしれません。

ただし、日本軍の占領に伴う社会的な階層の対立は戦後フィリピンの治安問題の悪化を招き、また経済的なアメリカ依存体質を生むことになります。

 

まず治安悪化ですが、ルソン島を中心に抗日武装闘争を展開したフクバラハップは、闘争を通じて圧倒的な農民層の支持を得ました。独立後は「民主同盟」の党名で国政に打って出ますが、マヌエル・ロハスのリベラル党と鋭く対立し議席を剥奪されてしまいます。フクバラハップは中央政府に対し共産革命を目指す武装闘争を開始し、ルソン島は内戦状態に突入していきました。

 

次に経済問題ですが、もともとアメリカとフィリピン間の無関税貿易は、1946年の独立をもって撤廃することが定められていましたが、戦禍によるインフラの破壊からの復興を優先するため、しばらく免税割当貿易が継続されることになりました。そのため、フィリピン経済はますますアメリカへの依存度を増すことになり、アジアの国としての自立を妨げる結果となりました

また、多大なアメリカからの支援金や投資はエグゼクティブの懐に消えて適切な民間投資に回らず、でも名目上はGDPが増加していったため、極めて不均衡な階級対立の一要因となっていったのでした。 

 

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まとめ

日本軍の占領は、現代のフィリピンが抱える問題の遠因となっている部分がいくつもあります。

すなはち、農村問題、利権問題、アメリカへの経済依存、貧富の格差など。

もちろん全部が日本軍政から生み出された代物ではありませんが、もし日本軍の占領がなく、1934年の法律のままフィリピンが独立していたとしたら、その後のフィリピンは採るべき選択肢が増えたはずで、社会のあり方は現在と違っていたものになっていのではないかと思います。

なので、太平洋戦争はアジア解放戦争などと言いきってしまうのは東南アジア諸国の国々に対する侮辱であり、日本が起こした戦争により多大な人的・経済的被害が生じたこと、またそれに乗じて逞しく政治的・経済的に成功を治めた人物もいたことを、良識がある人は常識として理解すべきと思います。

 

参考文献

 東南アジア史<8> 国民国家形成の時代 - 1939年-1950年代 2. 日本占領の歴史的衝撃とフィリピン社会 中野聡

岩波講座 東南アジア史〈8〉国民国家形成の時代―1939年?1950年代

岩波講座 東南アジア史〈8〉国民国家形成の時代―1939年?1950年代

 

 

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