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近現代ラテン・アメリカの国家間戦争(後編)

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アメリカの影が濃い20世紀のラテン・アメリカの戦争 

 近現代のラテン・アメリカの国家間戦争のまとめの後編です。
19世紀の戦争は、スペインとポルトガルの植民地時代に種がまかれたものが独立後にも受け継がれ、時の有力者や党の争いと混じって先鋭化し衝突に至ったケースが目立ちます。前編はこちら
今回は主に20世紀の戦争をまとめていきます。

 

9. 太平洋戦争(ペルー&ボリビア vs チリ)

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 軍事強国チリがボリビアとペルーを圧倒した戦争

チリとボリビアの国境近くにあるアントファガスタ県は、硝石や銅などの鉱物が大量に眠る地域で、長年両国間の係争地でした。1866年に国境協定が結ばれ、南緯24度を国境として北をボリビア、南をチリが折半すると決められましたが、チリ・イギリス系の採掘会社がこの地域に進出し、ボリビアは警戒感を強めました。
一方でペルーのタクナ県、アリカ県、タラパカ県の硝石地帯にもチリ・イギリス系の採掘会社が進出。この脅威に対し、ペルーとボリビアはチリから硝石地帯を守る秘密同盟条約を結びました。
同盟を結んだ両国はチリの採掘会社に対し強硬な対応をとり始めます。1875年、ペルーのパルド大統領はペルー国内で活動するチリ・イギリス系会社を有償で買収。ボリビアは1878年チリ・イギリス会社が国内から硝石を輸出する際に新たな関税をかけました。チリがこれを拒否すると、ボリビア政府は硝石採掘会社を強制接収し、競売で国内企業に売り払ってしまいました。怒ったチリ政府は1879年4月に両国に宣戦布告。太平洋戦争が勃発しました。
戦闘は、タラパカの会戦とイキケ、アリカ港沖の海戦でチリ軍が圧勝。翌年6月にタクナ県とアリカ県を占領。さらにチリ軍はピスコに上陸し、イカの町を占領。準備を整えたチリ軍は1981年1月に2万5,000の軍勢でペルーの首都リマを攻撃して占領し、ペルーは降伏しました。これによりチリはタラパカ県を手入れ、アリカ県とタクナ県の10年間の占領も認められました。
ボリビアも1884年4月に休戦協定を結び、アントファガスタ県のチリへの割譲が合意され、これによりボリビアは海に面した土地を失って内陸国となってしまいました。

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10. バナナ戦争(アメリカが複数の国に軍事介入)

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 アメリカが経済的・軍事的目的で介入しまくった事件の総称

「バナナ戦争」とは、1898年から1934年までのアメリカの中米・カリブ海地域への軍事介入と占領を総称したもので、米西戦争でのキューバとプエルトリコの占領、1903年のパナマの保護国化、その後のニカラグアとハイチの保護国化、ドミニカ共和国の軍事占領が含まれています。

「アメリカの裏庭」への軍事介入は、アメリカ資本の中米・カリブ海地域への進出とアメリカ資本の外国への投資を援助するという経済的目的と、第一次世界大戦でパナマ運河周辺の諸国に対しヨーロッパ諸国(特にドイツ)が影響力を及ぼす可能性を除去するという軍事的目的の両面の意味がありました。

「バナナ戦争」という名称は、中米に進出していたユナイテッド・フルーツ社をアメリカの経済進出の象徴として、もろもろの目的を総称するため後世に作られた造語です。

1934年、フランクリン・ルーズベルトが善隣外交政策へ転換したことにより、中米・カリブ海地域に物理介入するタフトの「ドル外交」戦略は放逐され、キューバは独立を認められ、ハイチからもアメリカ軍を撤退させました。大恐慌後の経済危機で反米感情が高まっており、これらの地域が共産化するのを防ぐことを目的としたもので、この政策は功を奏し、第二次世界大戦終了までは中米・カリブ海は親米勢力が維持されました。

 

11. チャコ戦争(ボリビア vs パラグアイ&アルゼンチン)

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 パラグアイ戦争と太平洋戦争の敗戦国同士の争い

チャコ地方はブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビアの国境沿いにある地帯で、スペイン植民地時代からチャルカスのアウディエンシア(大審問院)とパラグアイ総督の間で帰属が争われた地域でした。独立後もボリビアとパラグアイによって争われ、明確な国境線が引かれていない状態が長く続きました。

太平洋戦争で敗れ海へのアクセスを失ったボリビアは、チャコ地方を確保しパラグアイ川経由で大西洋に出るルートを目指していました。一方でパラグアイ戦争に敗れたパラグアイも、これ以上の領土喪失を防ごうとし、一触即発ムードが高まっていました。
1907年にアルゼンチンの仲介で国境線は定まったものの、第一次世界大戦が終わり、使われなくなった武器が大量に売りに出され、両国はこれを必死になって買い集めたこと、ボリビアがチャコ地方に要塞を築いたことで緊張はますます高まっていきました。
そして1932年6月、ボリビア大統領ダニエル・サラマンカは国内世論の突き上げもあり、チャコ地方のパラグアイ領への侵攻を命令。チャコ戦争が始まりました。

準備周到のボリビア軍の攻撃に対し、パラグアイ軍は初めは守勢に回りましたが、1933年の半ばごろから攻勢に転じて逆にボリビア領に攻め入り、1934年12月にボリビア領の町イレンダグエを陥落させました。あせったボリビアは和平を模索し、周辺諸国の仲介もあって1935年6月に講和が成立。これによりパラグアイはチャコの大部分の領有を認められましたが、ボリビアの川へのアクセスへの要求も認められ、パラグアイ川に面する地域の領有が認められました。

この戦争ではパラグアイ軍は3万5,000から5万、ボリビア軍は5万から8万もの死者を出し、この犠牲の多さの割に得られたものが少なすぎとしてパラグアイでは不満軍人のクーデターが勃発。ファシストであるフランコ大佐が政権に就きました。

なお、パラグアイが獲得したチャコ地方は資源があまり出ず、逆にボリビアが確保した地域は天然ガスが産出することが後にわかり、これは南米で2番目に大きな天然ガス田であるそうです。

 

12. コロンビア・ペルー戦争

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アマゾン川流域の町レティシアをめぐる紛争

アマゾン川の流域にあり、ペルー、コロンビア、ブラジルの国境の町レティシアは、1922年にロサーノ・ソロモン協定でコロンビア領とされましたが、それを不満に思うペルー人は多く、奪還を望む声は多くありました。

1932年、ペルー国内で暴動が発生。国境の町イキトス市でも多数の市民が暴動に加わり、興奮した市民がレティシアに流れ込んで占領してしまいます。ペルー大統領サンチェス・セロも、こうした状況を受け、またコロンビア軍の反撃はないと踏んでペルー軍を進駐させ軍事占領しました。

確かにコロンビア軍は水軍も空軍もなく脆弱でしたが、エンリケ・オラヤ・エレーラ大統領はコロンビア市民の反ペルーデモを受けて反撃体制を整え、3ヶ月後にレティシア奪還のための軍を進めました。1933年2月にペルー空軍はコロンビア水軍に空爆を実施。これがきっかけで両国の外交関係は破棄されますが、ペルー大統領セロが暗殺され新大統領が国際連盟の介入を受け入れたことで事態が好転。

国連の仲介でレティシアは正式にコロンビア領として確定しました。

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13. サッカー戦争(ニカラグア vs ホンジュラス)

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サッカーW杯予選がきっかけで戦争に発展

この戦争はサッカーがきっかけとなって起こった変わった戦争としてとても有名です。1970年のサッカーW杯メキシコ大会本戦を賭けた北中米・カリブ海予選、準決勝で対戦したホンジュラスとエルサルバドルですが、6月27日の第3戦で延長の末3-2でエルサルバドルが勝利した6日後、ホンジュラス空軍がエルサルバドルを空爆し開戦しました。

もともと両国は移民問題や経済問題、領土問題で対立し、険悪な状態にありました。経済的に優位なホンジュラスへエルサルバドルから移民が押し寄せていて、土地や仕事をめぐってホンジュラス人とコンフクリクトを起こすようになり、社会問題化していた状況下で起こりました。
戦いは終始エルサルバドル軍優位に進み、ホンジュラス領の町を占領しますが、決定的な勝利をつかむことができずに兵站の問題もあって戦線は停滞。開戦から26日後、米州機構(OAS)の介入でエルサルバドルに撤収命令が出されたことで和平となりました。

戦後も両国の関係は険悪な状態が続き、ホンジュラスがエルサルバドル移民を追放し貿易を停止したことで、エルサルバドルは一気に経済と治安が悪化。のちに極左ゲリラが台頭し1980年に内戦に突入しました。

 

14. グレナダ侵攻(アメリカ&カリブ平和軍 vs グレナダ&ソ連&キューバ)

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アメリカの介入で崩れた革命の夢

1974年にイギリスより独立したカリブ海の小国グレナダは、外国資本と癒着した首相エリック・ゲーリーとその一族によって国が支配され格差が拡大していました。政府への反対運動は秘密警察によって監視され、独裁・恐怖政治によって島が支配されていました。

1979年、野党だったニュー・ジュエル運動のリーダー、モーリス・ビショップはクーデーターで国会を掌握し、国外にいたゲーリーを罷免。首相に就任し、グレナダ人民革命政府(PRG)の成立を宣言しました。

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Work by Häßler, Ulrich

PRGは憲法を停止し議会を解散させる一方で、福祉や教育、医療の充実に力を入れ、農場を国有化し集団農業を取り入れました。国の経済は停滞しましたが、ビショップの政策は国民に幅広く支持されたそうです。対外的には、ソ連やキューバなどの東側諸国に接近し、近隣の大国アメリカと敵対しました。

ドナルド・レーガンは「強いアメリカ」を掲げ1981年に大統領に当選しましたが、「裏庭」のカリブ海にキューバ以外に親ソ政権が存在することに反対し、あからさまに対決姿勢を強めました。対するグレナダもキューバから軍事顧問を受け入れたりなど対立を深め、同じカリブ海諸国の警戒感を強めることになりました。

そんな中、1983年10月14日にビショップは副首相バーナード・コードと彼を支持する軍によって軟禁され処刑されてしまいます。コードは革命軍事評議会政府(RMC)を成立させ、PRGの支持者と戦闘状態に突入。事態が緊迫する中、10月25日にアメリカ軍とカリブ諸国軍がグレナダに侵攻しました

アメリカは特殊部隊を中心に約7000名、カリブ諸国からは約350名が参加。一方のグレナダ側はグレナダ兵約1500名に加え、キューバ兵約700名、ソ連・北朝鮮などからの軍事顧問団が駐在していました。戦闘は数日続きましたが、アメリカ軍の圧倒的な軍事力にグレナダ側はあちこちで圧倒され共産グレナダは崩壊。その後アメリカ軍とカリブ諸国軍により監視のもと、親米のハーバード・ブレイズ政権が成立しました。これに反発したソ連を始めとした東側諸国は、翌年にロサンゼルス・オリンピックをボイコットしました。

 

15. フォークランド紛争(アルゼンチン vs イギリス)

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Photo by  Ken Griffiths

失政の軍事政権の起死回生の一手

1976年、アルゼンチン軍はイザベル・ペロン(フアン・ペロンの妻。1974年のペロン死後に大統領に就く)をクーデターで逮捕し、長年権力に居座ったペロンの支配を打破。治安の改善と官僚主導の経済政策を図って停滞するアルゼンチンの刷新を目指しました。

軍事政権はペロン時代の保護貿易政策から開放政策に転換し、国内産業を国際競争にさらして質の向上を図るとともに、物価スライド制を導入して漸次物価上昇率を抑えていくことを目指しました。確かに物価上昇率は下がっていったものの、ただでさえ脆弱な国内産業は打撃を受け倒産企業が相次ぎ失業率が激増。これに対応するため通貨のペソの切り下げを実施しますがインフレが加速する結果となり、インフレ、経済不振、 失業率増大、累積債務の増大というトリプルどころかフォース・パンチに襲われました。

軍政の失政に怒った市民が大規模な大統領の弾劾デモを起こすと、ガルティエリ大統領は起死回生を狙い、突如としてイギリス領フォークランド(マルビナス)諸島の軍事奪回をぶち上げました。

ガルティエリ大統領はイギリスはさほど強めに出ないだろうという読みがあったようですが、予想に反しイギリスのサッチャー政権は大量の軍を投入し奪回を図り、4月末に始まった衝突は6月14日のアルゼンチンの敗北によって幕を閉じました。

あまりにも恥ずかしい敗戦により軍政は求心力を失い、1983年10月の大統領選挙でアルゼンチンは民生に移管しました。

 

16. パナマ侵攻(アメリカ vs パナマ)

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反米政権打倒のためにアメリカが介入

1977年、アメリカとパナマ間で締結された新運河条約により、パナマ運河は1999年にパナマ政府に委譲されることが定められましたが、委譲以降もアメリカが介入できる余地を残した条文になっていたため、パナマ政府やパナマ国民はアメリカに対する反感をつのらせていました。また時の大統領レーガンによるエルサルバドルやニカラグアに対する強硬策も、パナマ国民の反感を買っていました。

1987年、国防軍参謀本部帳を務めていたロベルト・エレラが退任する際に、軍の実力者マヌエル・ノリエガが不正をしていたこを暴露。政治危機が発生します。デバルジェ大統領はノリエガを退任させようとしますがノリエガはこれに応じず、うしろ1989年の大統領選挙で親米のデバルジェを批判し、反米・民族主義を訴えて左翼とナショナリストの支持を得て選挙に圧勝。大統領に就任し翼賛体制を敷きました。ノリエガは反米イデオロギーを先鋭化させ攻撃的な言説を展開したため、アメリカはパナマ運河の安全が守れないとして1989年12月にアメリカ軍5万7,384人を送り込みました。1ヶ月あまりでアメリカ軍はパナマの中枢を制圧しました。ノリエガはアメリカ軍に逮捕され、その後親米のノンダラが大統領に就きました。

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まとめ

20世紀の戦争は、19世紀までのスペインやポルトガルの影は薄れ、アメリカの影響力が相当に強くなっていることが分かります。一方で伝統的な国境沿いの土地をめぐる争いも先鋭化し、チャコやレティシアのような武力衝突地域を生んでいます。

 ラテン・アメリカは先住民の帝国がスペインによって倒され、まったく新しい秩序が導入されたことで権益をめぐるややこしい争いは少なく、逆に非常にシンプルで分かりやすい「ここは俺のものだ」的な争いが多い印象です。それが故にネチネチと続く争いはないですが、一回爆発してしまうと派手な衝突になるし、大国が介入すると相当エゲツない悲劇をもたらしています。

国家間紛争は起こりにくい時代になっていますが、戦争が複雑で込み入った問題をシンプルに収斂させて解決を図るソリューションの一つであり、今でも有効な手段ではあるので、危ない火はすぐ消すこと、消せない場合でもできるだけ大勢で監視をすることで、大炎上を防ぐ枠組みを維持していくことに尽きる気がします。

 

参考文献・サイト

 ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史) 増田義郎 山川出版

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史)

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史)

 

アメリカ外交政策とパナマ運河返還の意義 米・パ関係の歴史的考察を中心に 若松孝司・高橋啓介 2000年

"The banana wars explained" The Gurdian 

Banana Wars - Wikipedia