歴ログ -世界史専門ブログ-

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有名なWW1のエースパイロット10名

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航空機初期時代の空のエースたち 

エースドライバーやエースパイロットはいつの時代でもモテるものですが、

航空機が発明され始めて大規模に戦争に投入された第一次世界大戦でもそれは同じでした。戦線で活躍したパイロットたちはマスコミに取り上げられて祖国でスターになり、帰国後はセレブリティの仲間入りができました。

欧州戦線で活躍し母国のスターになった、エースパイロットを紹介します。

 

 

1.マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(ドイツ)

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「レッド・バロン」 の異名を持つ最も有名なエースパイロット

レッド・バロンと言えばオートバイの販売店を想起される方も多いと思いますが、これは第一次世界大戦で最も有名なドイツのエースパイロット、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの異名です。

彼はプロシア貴族の出身で、1916年9月から1918年4月までに79機を撃墜した記録を持ちます。レッド・バロンとは、彼の愛機フォッカーを赤く塗っていたことに由来しています。

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機団を緊密な編成に保ちながら敵に近づき、圧倒的な機数で上空から急襲し殲滅する戦法を得意としました。また、彼は敵機を撃墜するたびに、友人の銀職人に撃墜の日付を記した銀杯を発注していました。かなり自信たっぷりの男ですね。

1918年4月、ソンム川上空で敵機に撃墜され戦死しました。25歳でした。

 

 

2. ウィリアム・ビショップ(カナダ)

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 無謀な戦闘スタイルを好んだ「地獄の女中さん」

第一次世界大戦では、大英帝国軍の一翼として参加したカナダ軍の活躍は目覚ましいものがありました。空軍もしかりで、カナダ軍のエースパイロットとして名を馳せたのはウィリアム・ビショップ。

元々彼は騎兵隊員として従軍しましたが、派手で展開が早い戦闘スタイルを好んだため、塹壕戦にうんざりしてすぐに空軍の航空機乗りに鞍替え。

すぐに才能を発揮してドイツの航空機を追い詰める活躍を見せました。だんだんと彼の撃墜記録が増えていくのを見るにつれ、ドイツの航空機乗りはビショップを「地獄の女中さん(Hell's Handmaiden)」と呼びました。

根っからの目立ちたがり屋だったようで、単独で乗り出し複数の敵機に戦いを挑んで返ってくるような危ない戦闘スタイルを好んだため、彼の死による士気低下の恐れから、1918年6月にとうとう上司は彼を職務から外してしまいました。

 

▽愛機ニューポール17

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3. アルバート・ボール(イギリス)

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 静かで大人しいイギリスの撃墜王

第一次世界大戦のイギリス軍のエースパイロットはアルバート・ボールという青年。

18歳でパイロットになり20歳で戦死する2年間の間の撃墜記録は44機。

得意な戦法は低空位置から急上昇しながら発砲し敵機を撃墜するというもので、その攻撃的な戦法は人々の目を引き、イギリスのメディアは彼を「撃墜王」ともてはやしました。

しかし素顔の彼は休日は黙々と庭いじりをするような内気で大人しい性格だったし、時には戦闘の激しさにうつ病になり、頭痛や悪夢に悩まされていたそうです。

1917年5月フランス北部ドゥエーにて、「レッド・バロン」マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの弟が操縦する飛行機と戦っている際にマシントラブルで墜落死。わずか20歳でした。

 

▽愛機ニューポール17

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4. ワーナー・ボス(ドイツ)

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 レッド・バロンの最大のライバル

第一次世界大戦中にドイツ軍は多くのエースパイロットを輩出しますが、ワーナー・ボスもレッド・バロンと同じく活躍しドイツの英雄になった人物。

17歳で従軍し最初は騎兵連隊に所属しますが空軍に転籍し、レッド・バロンと同じ隊の所属になりました。アクロバティックな航空と激しい戦闘スタイルで人気になり、最終的に48回の勝利を積み、当時のドイツ軍の最高栄誉賞「プール・ル・メリット勲章(Pour Le Merite)」を獲得しました。

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Attibution:De pour le mérite van Christian Nielebock, Image from wikipedia

ボスは紳士的な人物で、彼が撃墜したパイロットが生存し捕虜になっていた場合、わざわざ訪れて葉巻やサイン入りの写真を差し入れたそうです。

彼の最期は壮絶で、単独で7機の英国機を相手に戦い、10分間フルスピードで飛んで打ち続け、3機の英国機を撃ち落としますがとうとう被弾し墜落死しました。

 

▽愛機フォッカーDr.I

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5.アンドリュー・ボーチャンプ・プロトコル(南アフリカ)

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ヴィクトリア十字章を授与された南アフリカのエースパイロット

大英帝国の一翼南アフリカからも多くの空軍パイロットが第一次世界大戦に参戦しました。

ボーチャンプ・プロトコルのスキルは1914年の開戦当時から英国王立空軍に所属し、戦争終結まで54回の勝利を獲得し、名実ともに南アフリカのエースパイロットでした。

ボーチャンプ・プロトコルは通算3回も航空機事故を起こしていたことから、航空スキルは優れていたとはいえないというのが通説らしいですが、継続的な出撃と運により確実に撃墜数を増やしていき、1917年6月22日に英国軍最高の栄誉であるヴィクトリア十字章を授与されました。

祖国の英雄となって南アフリカに帰国しますが、1921年に飛行訓練の事故で死亡しました。

 

▽愛機S.E.5

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6. エディー・リッケンバッカー(アメリカ)

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 48日間で18機を撃墜したアメリカの撃墜王

エディ・リッケンバッカーはレースドライバー出身で、軍に入隊する以前はトップ選手でした。

1918年にアメリカ陸軍航空部隊に所属した時は27歳で、パイロットになるには2歳も年上でしたが、プロのドライバーだったので認可されたのかもしれません。

実際、戦場に出た彼は他の誰よりも活躍しました。1918年9月には、ドイツ機十数機に襲われ絶体絶命のピンチに陥りますが、反転攻勢で7機を撃墜、2機をあと少しまで追い詰め、奇跡的に逃げ延びました。

第一次世界大戦中は26回の戦闘で勝利。そのうちの18回はわずか48日間の間で達成されました。

 

▽愛機スパッド S.XIII

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7. ジェームス・マカデン(イギリス)

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ビクトリア十字章を授与されたイギリス空軍で最高のパイロットの一人

ジャームズ・マカデンは中流階級に生まれ、1910年に王立空軍の整備しとして入隊。

その後1913年にパイロットに加わり、戦闘に加わる前は補欠でした。

しかし1916年9月に始めての勝利をつかむと、その後はトントン拍子に勝利を獲得していき、合計で57回の勝利を記録しました。1918年には英デイリー・メール紙のキャンペーンにより一躍国民の英雄となり、「大戦で最も活躍したパイロット」の7位のランクインしました。

1918年7月9日に登場していた愛機がエンジントラブルを起こし、墜落死しました

 

▽愛機S.E.5 

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8. エドワード・マンコック(イギリス)

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第一次世界大戦中のイギリス軍で最高のパイロット

エドワード・マンコックはイギリス系の父とアイルランド系の母の元に生まれ、アイルランドの独立運動に参加していました。1914年にはオスマン帝国で電気技師として働いていましたが、帰国して王立空軍に加わり、西部戦線で大活躍。第一次世界大戦のイギリス空軍で最も活躍したエースパイロットとなりました。

彼は1918年7月に死亡するまで合計で61回の勝利を記録し、空中戦におけるパイオニア的存在でした。英国軍事勲章を2回獲得し、ビクトリア章も授与されています。

 

▽愛機ニューポール17

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9. ジョージ・ギンヌメール(フランス)

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フランス空軍最高のエースパイロット

ジョージ・ギンヌメールは第一次世界大戦が始まる直前に操縦士の免許を取得。翌年には既にエースになっていた天才的なパイロットでした。

彼はテクニックも優れていましたが、自分の手で航空機を改造していたことで有名。37mm単発砲という強力な火砲を戦闘機に搭載しており、これは暴発の可能性もある大変危険な代物でしたが、彼はこれを使って2回の勝利を治めています。パイロットが自分でマシンをいじるなんてDIY的な発想、今では考えられませんね。

彼は騎士道精神を持った男でもありました。1917年6月、ドイツのエースパイロット、エルンスト・ウデットとのドッグファイトの際、ウデットの銃が故障し弾が撃てなくなってしまった。ウデットは死を覚悟しますが、ギンヌメールは異変に気づき、敵の銃が故障したことに感づくと、トドメをさすでなく、手で「アディオス」の合図をして飛び去ってしまいました。超かっこいい。

1917年9月11日にベルギー上空で撃墜されて死亡。合計で54機を撃墜しました。

 

▽愛機スパッドS.XIII

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10. マックス・インメルマン(ドイツ)

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 「インメルマンターン」の生みの親

マックス・インメルマンは第一次世界大戦初期のドイツ空軍のエースパイロット。

彼の撃墜数は15〜17機と総量は多くありませんが、大戦初期のドイツ軍の勝利と士気高揚に大きく貢献しました。1916年1月12日に、空軍パイロットとして始めて「プール・ル・メリット勲章」を授与されています。

彼が有名なのは、「インメルマンターン」と呼ばれる航空機運動を始めて発明したこと。

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これはすれ違う敵機の背後に周り後ろから攻撃を可能にする運動で、現在では当たり前ですが当時としては画期的なものでした。

1916年6月18日に墜落死するのですが彼の死には謎が多く、プロペラが故障したとか、味方の対空火砲に当たったとか、イギリス軍のマックビン少尉に撃墜されたとか、色々な説があります。

 

▽愛機フォッカーEL

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まとめ

第一次世界大戦当時はまだ航空機の技術は未熟であり、エンジンや銃の故障も多かったですが、一方で人間と機械の立場で言うと圧倒的に人間の方が優位であり、機械は人間がメンテをしてあげないとどうしようもないのが当時でした。

第一次世界大戦時代の航空機の好事家は多いですが、このような未熟でよく分からない機械らしい機械を愛する故なのだと思います。

全てがオートメーション化され、パーフェクトな挙動をする機械に「人間味」を感じないという感覚も何となく分かります。

今回挙げた人物は概して紳士的で、おおよそ当時は騎士道精神みたいなものが残っていた時代であるように思いますが、人が生きる上での余裕というものと、技術の発達により人間個人の成すことの限界が相対的に増えていくことは何らか関係があるようにも思えてきます。

 

 

参考サイト

"6 Famous WWI Fighter Aces" HISTORY.com

 "8 Celebrity Air Aces Of The First World War" IMPERIAL WAR MUSEUM

 

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