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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

ブルガリアの歴史(1) - 古代トラキア人の王国から第一次帝国

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 あまり馴染みのないブルガリアの通史

ブルガリアと聞いて何を思い浮かべますか?

ヨーグルトか、琴欧州関くらいじゃないでしょうか。

こと歴史になると、ほとんど何もしらない人が多いのではないかと思います。

 ブルガリアはかつて、西はイオニア海、東は黒海、北はモラヴィアまでを支配する一大帝国を築き、ビザンティンとも台頭に渡り合った誇り高き歴史を持ちます。

全4回でブルガリアの通史をまとめていきたいと思います。

 

 

1. トラキア人の王国

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Work by  Пакко

トラキア人とは

ブルガリアの土地で活躍した民族で、文献に残る古い民族がトラキア人です。

トラキア人は単一の民族ではなく複数の部族の連合体で、セルディ、メディ、オドリュサイ、ダキア、ゲタイ、フリュギアなど50以上の部族に分かれていました。

ギリシアの歴史家ヘロドトスは「トラキア人がインド人についで世界最大の民族であり、彼らが統一されれば最強の民族になるが、それが不可能なため弱い」と記しています。

トラキア人は紀元前12世紀ごろから鉄器の使用を始め、温暖な気候と肥沃な大地に恵まれた南東バルカンで農業生産力を拡大させ、南のギリシア植民市との交易を通じて、紀元前6世紀ごろから国家形成が始まりました。

オデリュサイ、フリュギア、ダキア、ゲタイといった部族は国家を建て、ギリシアやペルシア、ローマと覇権を巡って戦っていくことになります。

 

オデリュサイ王国

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Work by Alexikoua

紀元前5世紀に勃興したオデリュサイ王国は、王による専制君主制を採り強力な騎馬軍団を持ち、周辺のトラキア諸部族を征服。国王テレス一世とその息子スパラドコスは、スキタイやギリシア植民市と交易関係や貢納関係を結び、国力を充実させました。

 

▽テレス一世の黄金のマスク 

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Photo by Ann Wuyts

ペロポネソス戦争ではオデリュサイ王国はアテネの同盟者として参戦。混乱に乗じて西方への拡大を目指すも、マケドニア遠征に失敗し、さらにトリバッリ人との戦いに敗れ国王シータルケースは殺害されてしまいました。

次の国王セウテス一世の時代に王国はエーゲ海沿岸のアブデラからドナウ川にまで拡大し最盛期を迎えますが、この時代から王国は権力抗争によって分裂し、紀元前341年にマケドニア王フィリッポス2世によって征服されました。

その後、フィリッポス2世の息子アレクサンドロス大王の時代にトラキアの全領土はマケドニアに征服されます。

このマケドニアによる支配に抵抗し、セウテス三世やゲタイ人の首長ドロミカイテスらによってトラキア部族大同盟が作られマケドニアに抵抗するも、同時期にケルト人のトラキア侵入が発生。ケルト人はトラキア南部にティレを首都とする王国を築くも、トラキア人の抵抗によって紀元前212年〜紀元前211年ごろに滅亡しました。

その後トラキア人は部族間の抗争が相次ぎ、ローマ帝国の支配に入ることになります。

 

▽セウテス三世の銅像

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Photo by Ann Wuyts

 

ローマ支配下のトラキア

ローマはアドリア海沿岸のイリュリア人海賊征伐に端を発し、断続的なバルカンへの軍事遠征で領土を拡大していきました。

紀元前148年にマケドニア王国は敗れ「マケドニア属州」として領土に組み込まれ、トラキア諸部族も紀元後44年〜46年に「モエシア」と「トラキア」の2つの属州に組み込まれました。

モエシアの北に位置するダキア(現在のルーマニア)は帝国のドナウ国境に位置し、北方異民族との戦いの最前線で、不安定な支配が続いていたため、101年にトラヤヌス帝によるダキア遠征が実施され、106年にダキア属州を成立させます。しかし、3世紀後半からゲルマン諸部族の侵入が激しくなり、271年にはローマはダキアから撤退することになります。

 

さて、ローマ支配下の都市建設や大規模植民、ローマ市民権付与などで、トラキア諸部族は急速にローマ化していきました。4世紀になると首都ローマは内乱や異民族侵入により機能を果たさなくなり、皇帝コンスタンティヌスはビザンティウムへの遷都を実施。ここにおいて、トラキアを含むバルカンは帝国の首都の後背地として食料供給地としての重要性が増し、穀物や果実の大規模な増産が求められました。

しかし異民族の侵入は進み、後にこの地方の支配者となるブルガール族もこの時期に東よりやってくることになります。

 

 

2. ブルガールの襲来

 最初にバルカン半島に侵入したのは、テオドリック王率いる東ゴート族でした。

東ゴートは食料と戦利品を求めてバルカンを略奪して周りますが、488年にイタリア半島方面に向かっていきました。

次にやってきたのが、チュルク系の遊牧民族ブルガール族。

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ブルガール族は現在の西シベリア周辺を故郷とし、493年にバルカンに侵入して以来、たびたび国境を侵犯し略奪を行っています。

この時期は東方の遊牧民族のバルカン侵入が相次いだ時代で、その他にもクトリグール族やウティグール族の侵入(両方共ブルガールの一派の説あり)や、アヴァール族の侵入も発生します。アヴァールはビザンツ帝国と同盟し、クトリグールやウティグールといった遊牧諸部族を征服し、ゲルマン系ランゴバルド族をハンガリー盆地から排除し、アヴァール・カガン国を成立させました。

バルカンがアヴァール・カガン国によって支配される中で、バルカンへのスラブ人の侵入が進んでいきます。スラブ人はアヴァールの配下、または単独で南部のマケドニア、パンノニア、バルカン西部、サヴァ川上流などに住み着き、現在のセルビア、モンテネグロ、スロヴェニア、クロアチア、マケドニアなどのバルカンのスラブ諸国の大本になっていきます。

一方、先住のトラキア人やイリュリア人などは山岳地帯に逃げ、ルーマニア人(ヴラフ人)やアルバニア人となっていきます。

 

 

3. ブルガリア帝国の成立

ブルガール族は長い間アヴァール・カガン国に服属していましたが、アヴァールは西方のフランク王国のカール大帝の遠征によって弱体化していきます。

 

・関連記事

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アヴァールの弱体化に乗じて、ブルガールは7世紀前半に独立して、黒海北岸に部族連合国家「大ブルガリア」を建国しました。

その土地は現在のウクライナ南部付近で、今のブルガリアの領土とは全然違います。

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Work by  Briangotts

 初代君主にはドゥロ氏族の王クブラトが擁立され、遊牧民族の君主「汗」を名乗り、635年にビザンツ帝国に使者を送り同盟を結びました。

しかし、クブラトの死後ハザール・カガン国によって大ブルガリアは征服されてしまいます。その後ハザール・カガンの支配を逃れた一派によって、バルカン半島とヴォルガ川中流域を領土とする新たな国家ドナウ・ブルガール・カン国とヴォルガ・ブルガール国、通称「第一次ブルガリア帝国」が建国されました。

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Work by Kandi

クブラトの次男コトラグは、大ブルガリア崩壊後に北東に逃げ、ヴォルガ川中流域にヴォルガ・ブルガール国を建てました。(上記図の②)ヴォルガ・ブルガールはアッバース朝と通商関係を結びヴォルガ川の交易を支配して栄えますが、13世紀前半にモンゴル軍によって征服されました。

 

一方、三男のアスパルフはドナウ河口付近に拠点を拓き(上記図の①)、先住のスラブ人を従えてたびたびビザンツ帝国に侵入。度重なるブルガールの侵入に業を煮やしたビザンツは、680年にコンスタンティヌス4世率いるブルガール征伐軍を組織しますが、皇帝が戦場で病に倒れ指揮が乱れ、アスパルフの軍はビザンツ軍を散々打ち破って南下し、一気に黒海沿岸の港町ヴァルナにまで進出。681年にビザンツ帝国はブルガールと領土割譲と貢納金の支払いを約束する和平条約を結びました

 

▽アスパルフの銅像

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Photo by kosigrim

 

ここにおいて、アスパルフはドナウ・ブルガール・カン国(ブルガリア)を建国。

現在のブルガリア、ルーマニア東部の広大な領土を支配下に置き、現在のブルガリアの礎となる領土を獲得しました。

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支配者であるブルガールは国の上層部を占め、被支配者であるスラブ人は農業に従事していましたが、次第に数で優るスラブ人によってブルガールは同化されていき、スラブの国になっていきます。

なお、大ブルガリア崩壊時に一部のブルガールの一派は、パンノニア(ハンガリー平原)やマケドニアに流れ着き、これが後のブルガリアの征服戦争につながっていきます(上記図の③④)。

 

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4. 帝国の発展と没落

アスパルフの後継者テルヴェルは、ビザンツ皇帝ユスティニアヌスの帝位簒奪に協力したことで「カエサル」の爵位を賜るなど、ビザンツとの関係は揺るぎないものになっていました。

しかしテルヴェルの死後、内紛が起きこれまで王族だったドゥロ氏が排除され、代わりに8世紀後半からクルム氏が王族に就くようになります。クルム一世はブルガールの兄弟たちが住むアヴァール・カガン国やビザンツ領マケドニアに遠征し領土を拡大させました。

強大化するブルガリアを挫くべく、811年にビザンツ皇帝ニキフォロス一世はブルガリアの首都プリスカに遠征し占領。略奪や焼き討ちを行いブルガリア王クルム一世を動転させますが、帰途スタラ・プルニナでブルガリア軍の夜襲を受け軍は壊滅。皇帝も戦死し、遠征は無残な失敗に終わりました

 

▽ニキフォロス一世

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なお、この時クルム一世は皇帝ニキフォロス一世の頭蓋骨に銀を張って「髑髏盃」にし、支配下にあるスラブの部族長たちに酒を振る舞ったとされています。

敵将の頭蓋骨を髑髏盃にするのは遊牧民族の伝統で、それを受けて飲むことは盟約を交わすことを意味しました。

 

▽クルム一世(左端)とニキフォロス一世の髑髏盃を持つ男(右端)

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クルム一世はその後、トラキアに侵入し略奪を重ねながらビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの城壁に達しますが、この時は城壁を突破できずに撤退。クルム一世はその後、次なるコンスタンティノープル遠征の準備中に死亡しました。

 

キリスト教の国教化

クルム一世の死後に王位についたオムルタグは、ビザンツ帝国との和平条約を締結し、国境線の確定などを行い、先代が拡大した王国の内政の安定化を図りました。

伝統的にブルガリア国家機構は国王である「汗」が、政治と軍事の指導者となり同時に神タングラ(シャーマニズムの神テングリ)の神官でもありました。重要事項はクリルタイ(会議)によって決定されました。

オムルタグはこのような遊牧民族の伝統的な統治方法や文化を重視し、王国のビザンツ化につながるキリスト教を禁止しましたが、実際にブルガリアの宮廷内にもキリスト教徒は多数存在していました。

オムルタグの長男エンラヴォタもキリスト教に帰依したため後に処刑されています。

しかしフランク王国とビザンツ帝国という二大キリスト教国家に挟まれ、しかも領土が拡がったブルガリア国内に於いて、キリスト教を禁じながら中央集権化を目指すというこれまでの方策だと無理が出てくるようになってきました。

852年に王位についたボリス一世は、東フランク王国ルートヴィヒ二世に接触し、フランク教会からキリスト教を受容しようとしました。

しかし、その後にビザンツ帝国のブルガリア侵攻によって敗れたボリス一世は、「フランク王国との関係解消と、ビザンツの手によるキリスト教の受容」を飲まされることになってしまいました。

 

864年、ボリス一世はビザンツ皇帝ミカイル三世の手によってキリスト教徒となり、洗礼名ミカイルを賜りました。

この結果、建前上ブルガリア王はビザンツ皇帝の子ということになったのです。

 

▽洗礼を受けるボリス一世

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しかしボリス一世は無条件でビザンツの軍門に降ったわけではなく、直ちに独立教会の設立とスラブ語典礼の導入を定め、コンスタンティノープルからもローマからも独立した「ブルガリア教会」を設立。宗教面でもブルガリアの独立を維持したのでした。

 

ブルガリア帝国の滅亡

ボリス一世の死後、ブルガリアはビザンツ帝国に対する強硬策に転じ、以降30年以上続く戦争の時代に突入します。

ボリス一世の息子シメオンは、894年にビザンツに先制攻撃を加え、ビザンツ軍に圧勝。マケドニアにまで侵攻し、領土をアドリア海にまで広げました。

 

▽ビザンツ軍を圧倒するシメオン率いるブルガリア軍

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シメオンはその後、コンスタンティノープルを何度も攻め、征服に次ぐ征服を重ね死亡しました。彼の治世でブルガリアの領土は最大になりますが、ビザンツとの交易が閉じられたため国庫は火の車でした。

 

次の国王ペタル一世は、逼迫する国庫を立て直すべくビザンツ帝国との関係改善に乗り出し、ロマネス一世の孫娘マリアと結婚しビザンツ皇帝の親族となりました。

この国王の親ビザンツ政策に地方の貴族層は反発し独立志向を高め、また国の保護を受けた教会勢力が力を付け、国家の土台が揺らぎ始めていきます。

ブルガリアの弱体化を見たビザンツ帝国は、キエフ大公国のスヴャトスラフ一世(ウラジミール一世の父)と同盟を結び、キエフ・ルーシに北からブルガリアを攻めさせました。

 

▽スヴャトスラフ一世

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キエフ・ルーシ軍はブルガリア軍を圧倒。スヴャトスラフ一世はブルガリアを征服し、ドナウ下流の町ペレヤスラヴェツに居を構え、本格的なバルカン進出を試みていたそうです。

キエフ・ルーシの勢力拡大を警戒するビザンツ軍は、一転してキエフ・ルーシと対決。971年にプレスラフを占領してブルガリア皇帝ボリス二世と弟のロマンを捕らえ、東ブルガリアを占領してしまいます。

残った西ブルガリアもしばらくは独立を維持するも、「ブルガリア人殺し(ブルガロクトノス)」の異名を持つヴァシリオス二世の時代に征服され、1018年までにブルガリア帝国は滅亡。ビザンツ帝国に併合されてしまいました。

 

▽「ブルガリア人殺し」ヴァシリオス二世

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つなぎ

 なかなかドラスティックな戦闘の歴史ですね。

南のビザンツ帝国との愛憎劇はすさまじく、現代までギリシャ人とブルガリア人がいがみ合うのも最もに思えてきます。

次回は第二次ブルガリア帝国で再興する帝国、そしてオスマン支配下でのブルガリアと、独立への兆しまでをまとめていきます。

 

次記事

reki.hatenablog.com

 

参考文献

 バルカン史 柴宜弘 山川出版社

バルカン史 (世界各国史)

バルカン史 (世界各国史)

 

 

 ・ブルガリア旅行にはこちらをどうぞ

A28 地球の歩き方 ブルガリア ルーマニア 2015~2016

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