読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

馴染みのない国々の「建国の父たち」

サハラ以南アフリカ 南アジア諸国 中南米・カリブ海 オセアニア バルカン半島

f:id:titioya:20160814183517p:plain

世界の国々で「建国の父」として尊敬されている人たち 

そういえば、日本の「建国の父」って誰なんでしょうね。

人によって意見が違う気がします。

「聖徳太子!」って言う人もいるでしょうし、「伊藤博文!」だって言う人もいるかもしれない。

ひねくれものであれば、「マッカーサー!」なんて言うかもしれません。

ナショナリストだったら「神武天皇!」とか言うでしょうね。

日本はそこが左右とかイデオロギーに直接関連してくるのでスッキリした答えがないのですが、特に外国からの侵略や植民地支配から闘争を経て独立した国々は、誰も否定しようがない明確な「建国の父」が存在します。

中国の孫文、トルコのケマル・アタチュルク、インドのガンジー、アメリカのジョージ・ワシントン、韓国の李承晩…等々。

日本でも非常に有名な人たちはいますが、ではあまり馴染みのない国々の「建国の父」を大量に見てみよう、というのが本記事の趣旨でございます。

 

 

1. ドン・ステファン・セナナヤケ 1883-1952(スリランカ)

f:id:titioya:20160814174710j:plain

 独立運動家でスリランカ初代大統領

スリランカ独立の父と言われているのが、初代大統領ドン・ステファン・セナナヤケ。

仏教国スリランカらしく、彼の出身の村の祖先は初期の頃の仏教僧侶でスリランカに仏教を伝えた人物にあたるらしく、由緒正しい血統にあたります。

イギリスの支配下で開かれたスリランカ国家評議会の中で、1931年に農業大臣に選出され深刻なコメ問題に積極的に取り組んで増産化に成功し、一躍国民の尊敬を集める政治家となりました。

イギリスからの独立の声が高まる中、1946年に閣僚を辞任。独立を目指すスリランカ人政党・統一国民党を設立しイギリスと交渉にあたりました。

1947年8月15日インドがイギリスから独立。セナナヤケはイギリス植民地相アーサー・クリート・ジョーンズと交渉し独立への道筋を得、イギリス本国からも承認されて1948年2月に独立を果たしました。

 

 

2. ジャン=ジャック・デサリーヌ 1758-1806(ハイチ)

f:id:titioya:20160814182659j:plain

 ハイチの皇帝にのし上がった元奴隷

カリブ海の島国・ハイチの建国の父は、ジャン=ジャック・デサリーヌという元黒人奴隷。出身ははっきりせず、伝説では西アフリカ出身でフランスの奴隷商人に連れてこられたとされていますが、ハイチの農園で生まれたのではないかと考えられています。いずれにしても、奴隷身分でありました。

フランス革命に乗じてハイチ全土で奴隷が蜂起すると彼は農園から逃げ出し、「黒いジャコバン」トゥサン・ルヴェルチュールの元でフランス反乱軍の一員として活躍。ルヴェルチュールが拘束された後、ハイチ軍の指導者となりフランス軍を打ち破って独立を果たし、ナポレオンに倣って自ら初代皇帝ジャック1世と名乗りました

 

 

3. ホセ・ヘルバシオ・アルティガス 1764-1850(ウルグアイ)

f:id:titioya:20160814182632j:plain

 「東方共和国の創始者」

 ウルグアイは元々、スペイン領ラ・プラタ連合州の一つ、パンダ・オリエンタル州と呼ばれ、首都モンテビデオは屈指の港町として栄えていました。

フランス革命後イギリスはラ・プラタ地方の領有を狙って侵攻してきますが、モンテビデオの有力一家出身のホセ・アルティガスが民兵を組織して抵抗。モンテビデオからイギリス軍を駆逐してしまいます。

その後、ナポレオンが兄ジョゼフをスペイン王として擁立すると南米各地で抵抗運動が起き、ラ・プラタ地方でも1811年から連邦派のホセ・アルティガスが独立闘争を開始。

 一時は中央集権派のブエノスアイレスの軍に打ち勝つも、最終的にはブラジルから遠征してきたポルトガル軍に敗れてパラグアイに亡命しました。

 パンダ・オリエンタル州はその後、ブラジルとアルゼンチンによって領有権の争奪戦が繰り広げられますが、1828年イギリスの介入で「ウルグアイ東方共和国」として独立を果たすことになりました。

1856年、ウルグアイ政府はホセ・アルティガスを「東方共和国の創始者(fundador de la nacionalidad oriental)」と宣言しました。

 

 

4. ジョモ・ケニヤッタ 1893 - 1978(ケニア)

f:id:titioya:20160814182001j:plain

Source:  Dutch National Archives, The Hague, Fotocollectie Algemeen Nederlands Persbureau (ANeFo), 1945-1989

独立の父ともなったケニア最高の知識人

ケニア独立の父は、初代大統領でケニア最高の知識人で独立運動家でもあった、ジョモ・ケニヤッタ。ケニヤッタとは「ケニアの光」という意味のアダ名です。

若いころケニヤッタは貿易業で財を成してキクユ族の名望家となり、キクユ人の政治や文化についての新聞を発行したり、キクユ人の政治団体の一員になったりなど、次第に政治活動にも参加するようになり、イギリスでガンジーと会談したり、汎アフリカ会議に出席するなど国際的な知名度も高まっていきました。

第二次世界大戦中はイギリスに滞在していましたが、1946年に帰国し本格的な政治活動を開始。1947年にケニア・アフリカ同盟(KAU)に参加しました。

1952年、キクユ人の秘密結社団体・マウマウ団が植民地政府に対し反乱を起こし、すぐに鎮圧されてしまいましたが、KAUの一部がマウマウ団に加担していかたことを理由にケニヤッタもこの乱に加担した疑いで投獄されてしまった。

9年間の投獄後、ケニヤッタは1961年に出獄してケニヤ・アフリカ民族同盟のリーダーとなりイギリス相手に独立交渉を行いました。そして1963年12月に独立を達成。ケニヤッタは初代大統領に就任しました。

 

 

5. マイケル・ソマレ 1936 -(パプアニューギニア)

f:id:titioya:20080814093701j:plain

 平和裏に独立を成し遂げたパプアニューギニアの英雄

パプアニューギニアの初代大統領マイケル・ソマレは、大統領職を5期20年務めた人物。

ラバウルの生まれで、カラウの村で家族と共に育ちましたが、太平洋戦争中に日本軍が侵攻してきて父親は恐れて逃げてしまいましたが、ソマレ少年は日本軍の柴田中尉が開いた学校で学び、ここで日本語や英語の読み書きを学び、また植民地独立の教えを説かれたそうです。

戦後パプアニューギニア東部はオーストラリアの委任統治領となりました。

ソマレは青年になった後、ラジオ局に勤めながら徐々に政治の世界に関わるようになり、1968年にパング党を設立。1963年には自治政府首相となった後、1975年9月の独立で初代大統領に就任しました。

 大統領に就任して初めて訪問した外国は日本で、存命だった柴田中尉に再会して感謝の思いを伝えたのだそうです。

f:id:titioya:20160911134519j:plain

 

 

6. リンデン・ピンドリング 1930-2000(バハマ)

f:id:titioya:20160814181817j:plain

 白人勢力と対決した穏健派黒人指導者

 バハマ初代大統領リンデン・ピンデリングの父は、バハマの黒人の上流階級の生まれで、キングス・カレッジ・ロンドンで教育を受けたエリート。

  イギリスの植民地だったバハマは第二次世界大戦後に自治要求が高まり、1953年にピンデリングは23歳にして進歩自由党(PLP)に入党。政治の世界に参画し始めました。

1956年には代表戦でヘンリー・タイラーを破って党首に就任。憲法制定、男女普通選挙を訴え選挙を戦い人気政治家となりました。

当時のバハマでは政財界のエグゼクティブは少数派の白人が牛耳っており、1962年の選挙でもPLPは高い得票率を獲得しましたが、選挙で勝利したのは白人政党である統一バハマ党(UBP)でした。多数派の黒人の不満は高まり、PLPを中心に自治要求が噴出しました。そこでイギリス政府は1964年にバハマに自治権を付与するなど懐柔策を取り、あくまで主導権を白人で握ろうとしました。

ところが1967年の選挙では、急進的な社会主義を掲げるネグロ労働党(NLP)が第一党に踊り出た。UBPと白人エグゼクティブ層は恐怖し、自分たちの財産を守るために穏健派のPLPと一層妥協せざるを得なくなりました。

ピンデリングは独自憲法の策定を主張し、イギリスと白人勢力の理解を得ると、独立準備を進め5年後の1973年に英連邦王国の一国「バハマ国」として独立を果たしました。

 

 

7. ベルナルド・オイギンス(チリ)

f:id:titioya:20160814175301j:plain

 チリ独立戦争の英雄

ベルナルド・オイギンスはスペイン帝国ペルー副王領の一部のチジャンで生まれました。父アンブローシオ・オイギンスはスペイン政府の官僚で、後にペルー総督になった男。母は現地生まれの白人で、イサベル・リケルメという女性。

しばらくは母の元で過ごしますが、父に呼び寄せられロンドンに留学。そこでラテンアメリカの独立運動を知り、フリーメイソンにも入会し自由主義思想を信奉するようになりました。

父の死後、遺産である広大な土地を引き継ぎ安泰の生活を手に入れますが、時あたかもナポレオン戦争。本国スペインはフランスに占領され傀儡のフェルナンド7世が戴冠すると、ベルナルドはインテリ連中を集めた政治結社を作り、スペインからの独立を画策するようになりました。その中でオイギンスは次第に頭角を現し始めます。

チリの独立記念日とされている1818年9月18日の蜂起にも参加しますが、ランカグアの戦いで王党派の軍に敗れアルゼンチンに追放されてしまう。

f:id:titioya:20160911132214j:plain

亡命中にオイギンスは、アルゼンチン出身の革命家ホセ・デ・サン=マルティンに出会い、志を同じくして南米のスペインからの解放を目指す秘密結社ラウタロ・ロッジに加入。その後仲間を引き連れて1817年にチリに戻り再び独立闘争を開始しました。

チャカブコの戦いで王党派に勝利を収めて以来、独立派は寡兵と物量に苦しみながらも優位に戦いを進めていき、マイプの戦いで決定的な勝利を収めました。

1818年2月にオイギンスはチリの総督に就任。翌年2月にチリの独立を宣言しました。 

f:id:titioya:20160911132417j:plain

  

 

8. イブラヒム・ルゴヴァ(コソヴォ)

f:id:titioya:20030523115855j:plain

復讐の連鎖が続く悲劇のコソヴォで非暴力を唱えた 

コソヴォはセルビア人にとっては「国の始まりの地」であり、オスマン帝国にコソヴォの戦いで敗れた「国の終わりの地」でもあり、心の故郷と考えられています。

しかし17世紀以降コソヴォにはアルバニア人が住ようになり、1945年のユーゴスラヴィア独立後はセルビア共和国の自治州と位置付けられました。アルバニア人はセルビアからコソヴォを独立させることを望み、セルビアはコソヴォを自分たちの土地と考え衝突した。1980年代にコソヴォをセルビアから解放させる目的で、武装組織「コソヴォ解放軍」が設立され、コソヴォ内でセルビア人への破壊行為やテロ行為を行うようになりました。

ユーゴスラヴィアのミロシェヴィッチ大統領は、セルビア人を守るためと称してコソヴォ解放軍への攻撃を開始。また同時にクロアチア・ボスニア紛争で発生した大量のセルビア人難民をコソヴォに送り込み、コソヴォのセルビア化を推進しました。

イブラヒム・ルゴヴァは元々コソヴォでアルバニア人向けの雑誌を発行していた男で、1989年からコソヴォ民主連盟(LDK)を設立して政治活動に入りました。

国内ではコソヴォ解放軍によるセルビア人へのテロ行為が止まらず、それに対しセルビア軍がアルバニア人への粛清するという憎しみの連鎖が続く中で、ルゴヴァは非暴力を訴えアルバニア系住民の支持を集めました。1991年にコソヴォは独自に大統領選挙を実施し、投票の結果ルゴヴァが初代大統領に就任しましたが、これを認める国はどこもなく、あくまでセルビアの自治州として国際的には認知されました。

その間にもセルビア人とアルバニア人との戦闘は続き、アルバニア人はコソヴォの大半を軍事的に支配するようになっていきます。

結局、コソヴォ紛争はミロシェヴィッチによるアルバニア人虐殺事件をきっかけにNATO軍が介入しユーゴスラヴィア軍は敗北。コソヴォは国連の暫定統治下におかれ、2001年に暫定自治機構が創設され、ルゴヴァはその初代大統領に就任しました。

 

 

9. シウサガル・ラングーラム(モーリシャス)

f:id:titioya:20160814175935j:plain

国の近代化に寄与したモーリシャス最高の知識人 

マダガスカル島の東に浮かぶインド洋の島国・モーリシャスは、1810年からフランスからイギリスへの支配に入り、インド人の契約労働者が多数流れ込みサトウキビのプランテーションが拡張されました。

第二次世界大戦後、イギリスはモーリシャスの自治を認め、1947年に自治政府が設立されました。1961年にはより大幅な自治をイギリス政府が認め、英連邦の一員として独立が認められることになり、その独立交渉にあたったのがシウサガル・ラングーラム。彼はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンを卒業した秀才で、イギリス文化への造詣が深い知識人であり、また医者でもあり貧しいモーリシャスの人々へ医療を提供し大変人気がありました。

1968年5月にモーリシャスは独立し、初代首相にはシウサガル・ラングーラムが就任しました。首相に就任してからラングーラムは政治の近代化、年金制度の創設、医療の無料化と大学の無料化を実現し、特に貧しい人たちの生活向上ために貢献しました。

 

 

10. サム・ヌジョマ(ナミビア)

f:id:titioya:20071003210331j:plain

Attribution: Marcello Casal Jr./ABr

南西アフリカ解放機構の議長で独立戦争のリーダー 

南西アフリカ(ナミビア)は第一次世界大戦前までドイツの植民地でしたが、大戦後に国際連盟の介入でイギリスの委任統治領になり、その後第二次世界大戦後に国際連盟が解散すると、イギリスは委託を受けた国連の解散を理由に南西アフリカの南アフリカへの併合を宣言しました。

ナミビアでも本国南アフリカと同じくアパルトヘイト政策が採られ、バンツゥー族は露骨な差別的な待遇を受けたため、南アフリカへの敵対と独立要望が高まっていきました。

南アフリカ鉄道の会社員だったサム・ヌジョマは、29歳の頃から独立運動に参加し始めますが、すぐに逮捕されてしまう。ヌジョマは追放されてローデシア、タンガニーカ、ケニア、スーダン、ガーナへと逃げ、最終的にアメリカへと亡命しました。

ヌジョマは1960年4月、アメリカで南西アフリカ人民機構(SWAPO)を設立し議長に就任。その後アルジェリアから武器を密輸し、1966年8月26日から対南ア・ゲリラ闘争を開始しました。ナミビア独立戦争の開始です。

国連は南アフリカのナミビア占領は違法と非難し、SWAPOを正当とする立場を打ち出していましたが南アフリカ政府はこれを認めようとはしませんでした。

当初SWAPO軍は脆弱でしたが、1975年に隣国アンゴラがポルトガルから独立を果たし内戦状態に突入すると、キューバ軍とキューバに支援を受けたアンゴラ軍がSWAPO軍を支援するようになり、勢力を盛り返しました

1982年にレーガン大統領と南アフリカ政府は、キューバ軍のアンゴラ撤退とナミビアの独立をバーターにするリンケージ政策を打ち出していましたがキューバ政府の反対もあり合意には至らず戦争は続きますが、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いでキューバ・アンゴラ・SWAPO連合軍が南アフリカ軍を打ち破ったことがきっかけで、キューバ側もこれ以上の戦争継続を望まない姿勢を打ち出し、リンケージ政策を受け入れた。

1989年に選挙が行われてSWAPOが議席の過半数を獲得。1990年にナミビアは独立し、ヌジョマは初代大統領に就任しました。

 

 

まとめ

宗主国と話し合いをして平和裡に独立に導いた人から、過激な独立闘争を経て独立を成し遂げた人まで様々です。一概に「建国の父」といっても、状況によってかなり異なるのですね。

その人がいなかったら絶対独立を達成できなかった場合もあるし、もう既に独立が前提条件になっていてお神輿的に担がれた人もいます。とはいえ、新しく独立を達成した国は国の統合のために功労者とその「ストーリー」が必要でありますから、いかに建国の父が国のために尽くしたかを国民に知ってもらう必要があります。「建国の父」は必須の存在なのです。

日本には明確な建国の父は存在しませんが、それは日本の歴史と国の形が古代の時代から連綿と繋がっており中断が存在しなかったことに「一応」なっていることの証左であります。

 

 

参考サイト

"SENANAYAKE Families - Family #3001" rootsweb

D. S. Senanayake - Wikipedia, the free encyclopedia

 "Jean-Jacques Dessalines Biography" biography.com

"José Gervasio Artigas" Biografias y Vidas

"Famous People from Kenya: Jomo Kenyatta" Kenya Travel Ideas

Michael Somare - Wikipedia, the free encyclopedia

"参考資料室 東部ニューギニア戦線慰霊巡拝案内-ウエワク地区-" 海外戦没者慰霊巡拝

"Sir Lynden Pindling" Sir Lynden Pindling

 "Bernardo O'Higgins The Rebel Son of a Viceroy" Society for Irish Latin AmericanStudies 

Ibrahim Rugova - Wikipedia, the free encyclopedia

Seewoosagur Ramgoolam - Wikipedia, the free encyclopedia

"Kewal - The Story of Seewoosagur Ramgoolam"

"Foundation" the Sam Nujoma Foundation

"NAMIBIAN WAR OF INDEPENDENCE 1966-1988" On War

PR
電子書籍を読むなら、Paper WhiteよりFireがオススメです(絶対!)