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「メッカ巡礼ツアー旅行」の歴史

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Photo by Al Jazeera English

はい、みなさーん、こちらがカーヴァ神殿でーす 

海外旅行に行くとき、ツアー旅行か個人旅行かどっちかで迷う。

ツアー旅行は食事もホテルもガイドも全部ついてるから、ただ座ってれば目的のとこに着くしとってもラク。ホテルの予約とかバスの時間とか気にする必要ないですからね。

若い人はパックツアーは飽きていて、みんな行きたいところをネットや本で調べてパパッと自分で行っちゃう。昔はそういうのはバックパッカーと決まっていましたが、今の若い人は結構気軽に航空券だけを買って個人旅行を楽しんでいます。

そういうのが気軽にできるようになったのはごく最近で、昔は一般の人が旅行をするのはむしろ「パックツアー」でないとほぼ不可能でした。

そして昔の人の旅行といえば、だいたい「巡礼」のための旅行でした。

 

 

1. イスラムの聖地メッカとは

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Credit. American Colony (Jerusalem) Photo Dept. Library of Congress, Matson Collection

イスラム教徒は、ヒジュラ暦12月8日から12日にかけてアラビア半島の聖地メッカに詣で、「ハッジ」と呼ばれる巡礼を行います。年末のお参りは1年間の締めくくりであり、今年1年の無事を神に感謝し、新しい年の商売繁盛や無病息災を祈る。日本人でいうところの初詣に近い。

ただ初詣と違うところは、ハッジは「ムスリムの守るべき5つの義務の一つ」であること。あと場所が必ずメッカでなくてはならず、日付も12月8日と12日でなくてはいけないこと。

当然ですが毎年行くことは不可能で、生涯に1回巡礼を済ませれば良いとされています。

 

聖地メッカはイスラム教の聖地になる以前から多神教の聖地の一つでした。

カーヴァ神殿には聖石や女神フバルなどの偶像が祀られ、

近隣にはアブラハムの妾ハガルとイシュマエルの墓など預言者たちの墓があったり、

本当かどうか知りませんが、メッカ近郊のアラファト山には「人類の始祖アダムの墓」なるもののあるらしい。

そういうわけで昔からアラビア半島の人びとにとって聖地だった場所が、イスラム以降も聖地としての役割は担わされつつ、奉られる神がアラーに置換されました。

 

2. メッカ巡礼「4大ルート」

 中世の時代、各地からメッカへの旅路は長く遠いものでした。

交通機関なんてないから、基本的には徒歩かラクダや騾馬などで向かう。

でもバラバラと行かれると盗賊や追い剥ぎの格好の餌食。

なので、イスラム諸王朝は巡礼者たちを自分のとこの町に集めてキャラバンを組織し、集団でゾロゾロとメッカへ向かわせました。護衛兵やガイド、世話役などの随行員は全てのスルタンが派遣したもの。

いわば国が「ツアー旅行」を組織していた形ですね。

スルタンとしては、自分が臣民や近隣の住民に対して安全な巡礼を提供することで、ムスリムの安全と義務を保証する支配者とアピールして、支配の正当性を認めさせようとしたのでした。

 

いろいろとルートはあったようなのですが、中世イスラムで4大ルートとされたのが以下の4つ。

  1. イラク道(viaバグダッド)
  2. シリア道(viaダマスカス)
  3. エジプト道(viaカイロ)
  4. イエメン道(viaタイズ)

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まずイラク道ですが、イラクや、イラン、中央アジアからの巡礼者が主に使ったルート。

巡礼者たちはいったんバグダッドに入り、そこで身支度を済ませてキャラバンの組織を待つ。時間になって準備が整ったら、南下してナジャフを経由し、アラビア半島のナジュド砂漠を一気に超えてメディナに入る。そこからメッカに到達する、というルートでした。

 

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次に、主にアナトリアとシリアの巡礼者が使ったルートがシリア道。 

集合場所はシリアのダマスカス。ここでキャラバンを組織し、ヨルダンのマーンを経由しアラビア半島のタブーク、ウラーなどのオアシス都市を経由して、メディナ、メッカに入るというルートです。

 

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次にエジプト道ですが、これを利用したのはイベリア半島や北アフリカ、中部アフリカ出身の巡礼者でした。

地中海沿岸の巡礼者たちは船でアレクサンドリア港に入港し、そこからカイロに入りキャラバンの組織を待つ。準備ができたら船でナイル川を遡っていき、アシュート、ルクソールまで南下。ルクソールで船を降り、今度は海の船で紅海を横断してアラビア半島のアイザーブに入る。そこから陸路または船でメッカ近くの港町ジッダに入り、メッカに陸路で行く、というコースです。

 

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最後にイエメンのタイズを経由してメッカに入るルートですが、これを利用したのは主に、東アフリカ沿岸や、インド、東南アジアの巡礼者。アラビア海やインド洋を船で渡ってきて、イエメンのアデンに入港。そこからタイズでキャラバンを組織し、サヌア、タイフ、メッカに入ります。

東南アジアは中国からの巡礼者、インドはウズベキスタンなど中央アジアからの巡礼者を多く含んでいたらしく、かなり国籍の多様な巡礼者がタイズに集まったようです。

 

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3. イブン・バットゥータの巡礼スケジュール 

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Photo by  Mount Arafah

上記のように4大ルートが整備され、時間とお金があれば巡礼ができる環境にはあったものの、巡礼旅行はすべて滞り無く順調にいったわけではなく、現在の我々の旅行でもトラブルがつきもののように、道中様々なトラブルが起こっていたようです。

14世紀のイスラムの大旅行家イブン・バットゥータは、1325年から1331年、足掛け7年かけて巡礼を行っています。

故郷のモロッコ北部・タンジェを出発したバットゥータは、カイロ道の拠点であるカイロを陸路で目指しました。シャッワール月(ヒジュラ暦10月)の上旬にカイロにつくと、城塞前にテントを張ってキャラバンの出発まで待機する。

だいたいキャラバンが出発するのがシャッワール月の16日から19日の間で、ハッジの団長アミール・アル・ハッジ、監視役、先導役、書記、水分配人などに率いられて、巡礼者達はゾロゾロとメッカに向かいます。

イブン・バットゥータが参加したキャラバンは、ナイル川を遡り、アスユート、クース、ルクソールまで到達。そこから紅海を渡って対岸のアイザーブまで行こうとしましたが、当時アイザーブを支配する黒人のペジャー王国とマムルーク朝との間で戦闘が行われていた

しょうがないので人びとはこのルートでメッカ入りを諦め、シナイ半島経由やシリアのダマスカス経由など別のルートを使うキャラバンでメッカ入りをするべく、それぞれ散って行きました。

バットゥータは翌年のシャッワール月の初めにダマスカスに入り、サイフッ・ディーン・アッ・ジュッバーンの率いるキャラバンに入ってシリア道でメッカを目指しました。巡礼団を護衛していたのは遊牧アラブのアジャーリマ族で、聖地の近くは巡礼者を狙う盗賊や追い剥ぎが多数いたため、このような護衛がないと危険極まりなかったと思われます。

バットゥータは、マアーン、ヒジャーズ、タブークと経て最後の補給の町ウラーに入った。ここでシリアのキリスト教徒商人から食料品や必需品を買い求め、メディナ、ラービグを経由してようやくメッカ入りを果たすことが出来たのでした。 

 

4. 交通の発達と巡礼ルートの変化

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Credit. *1

4-1. オスマン・トルコのキャラバン運営

オスマン・トルコは1517年にエジプト、シリア、ヒジャーズを、1534年にイラクを、1538年にイエメンを征服し、上記の4大ルートを制圧。

イスラムの2大聖地・メッカ&メディナを支配下に入れ、メッカのシャリーフ家からカアバの鍵とムハンマドの聖遺物を譲られ、名実共に「イスラムの守護者」となりました。

オスマンの帝都イスタンブルは巡礼ルートではありませんでしたが、年末の巡礼はイスタンブールから巡礼ルートの各地に贈られる「シュッレ」と呼ばれる浄財が華やかなパレードの後に放たれるのが恒例行事になり、これが各地に到着すると各地の巡礼キャラバンの組織がスタートするのでした。

それゆえ、アナトリアと近いシリアのダマスカスが巡礼のスタート地点として重要視されるようになり、ダマスカス総督は巡礼キャラバンの運営の責務を担う重要な役職となりました。

総督は団長アミール・アル・ハッジ、水配給人(ムカッウィム)を任命し、各地から1500名のラクダ騎兵と歩兵からなる護衛兵を雇う。その他、ラクダ、馬などの運搬用の駄獣もレンタルする。

1回キャラバンを組織するのに莫大なカネがかかり、総額70万クルシュ(18世紀後半)の費用のうち半分は、特別税を課したりして総督が自分で捻出しなくてはなりませんでした。

ダマスカスからメッカの間にある中途のルートの宿駅(キャラバンサライ)もオスマンのスルタンが自ら運営するもので、巡礼旅行を安全に快適にすることは、「イスラムの守護者」たるオスマンのスルタンの責務であったのでした。

 

4-2. 蒸気船の発達

 1840年代ごろから蒸気船が発達し、巡礼者を大量に、安く、早く、安全に運搬できるようになりました。これまでカネと時間をかけなくてはできなった巡礼が、一気に大衆化に進んでいきました。

蒸気船が発達したことで、これまでの陸上での巡礼ルート以外の地が「巡礼出発地」として人気になっていきました。

アジアだと、シンガポール、バタヴィア(ジャカルタ)、カルカッタ、ボンベイ。

地中海・黒海だと、イスタンブール、オデッサ、アレキサンドリア、チュニス、アルジェ。

これらの蒸気船の登場は、西洋列強がアジア・中東・アフリカ各地をその覇権を拡張していった時期と重なります

例えばイギリスの船会社はいち早くボンベイ〜アデン〜スエズ運河の定期航路を開通させて以来、ヨーロッパとインド、東南アジアの各都市を結ぶ航路を拡大していきました。

イスラム教徒たちはこれら欧米資本の船を使って気軽に巡礼に行けるようになったのですが、充分な資金を持たずに片道切符だけ買ってメッカに行き、帰りの切符が買えずに帰宅難民になる巡礼者が多数いて社会問題になりました。

こうした帰宅難民の船代金を肩代わりする代わりに、農園などで一定期間の労働をさせる人材派遣会社まで登場したそうです。

巡礼が大衆化すると旅行代理業も発展し、船会社、メッカの巡礼ガイド、各地の部族の古老などと提携し、巡礼出発地で人を集めてパッケージ旅行を販売する業者も続々と現れました。

 

4-3. 鉄道を開通させて既得権を守れ

このような蒸気船ルートでの新たな巡礼ルートの発展で困ったのは、旧来の陸上の巡礼ルートの途上にあった業者たち。

街道沿いで巡礼者用に食料品や生活必需品を売ったり、キャラバンサライを経営したり、巡礼者の警備をしたりしていましたが、ダマスカスからメッカに向かう巡礼者が激減して、地域経済の活性を失ってしまった。

そこでオスマン・トルコは、陸上での巡礼ルートの復活を掲げてダマスカスからメッカまでの巡礼鉄道「ヒジャーズ鉄道」を計画

経済的な目的としては大きく2つで、まずは、ヒジャーズ鉄道沿線の農業振興

鉄道の開通によってダマスカス〜メッカ間の人の流れを作り出し、その間にある地味豊かな地域を一大農地に作り変えて雇用を創りだそうというもの。

次いで、ベドウィン経済の活性化

遊牧民ベドウィンが作る皮製品や羊毛製品、絨毯などは輸送インフラの不備で遠くまで運ぶことができなかったが、鉄道ができることで大量輸送が可能になり、ベドウィンの製品も売れて経済状態が改善するだろう、というもの。

工事は1900年9月に始まり、1908年にメディナまで開通。第一次大戦の始まりでメッカまで伸びることはありませんでした。

開通後、沿岸地域経済にとって鉄道は逆効果であることが分かった。

まず、鉄道以外の陸路での巡礼がほぼいなくなり、ラクダ隊商が没落。

そしてダマスカス〜メディア間の主要な市場町が寂れていった。

かつて巡礼街道沿岸の商人たちは、主要な市場町に巡礼に必要な商品を持ち込み売りさばいていたが、鉄道が出来たことで買う人がいなくなり、売る場所がなくなった。

ヒジャーズ鉄道沿線は「通路」でしかなくなり、富は大都市のダマスカスやメディナに集まり、地方はますます没落していったのでした。

 

 

まとめ

メッカ巡礼のルートにまつわるあれこれをまとめてみました。

我々日本人には「いつか訪れなくてはいけない」という共通の聖地のようなものはないので、感覚的にはなかなか理解しづらいものがあります。

個人的な趣味・志向によって「聖地」のような存在を持っている人もいるでしょう。 アニメオタクの聖地とか、鉄道マニアの聖地とか。

メッカやエルサレム、ラサなどの聖地は歴史の重みと人びとの思いの量は桁外れですが、アニメオタクの聖地も鉄道マニアの聖地も、基本的には宗教の聖地と変わらないですからね。

みんな自分の聖地を持って巡礼に行けばいいと思います。

ちなみにぼくの聖地は、ビール党の聖地・チェコのピルゼンで、すでに2回「巡礼」を済ませています。

 

参考文献 シリーズ世界史への問い3 移動と交流 岩波書店

移動と交流 (シリーズ世界史への問い 3)

移動と交流 (シリーズ世界史への問い 3)

  • 作者: 板垣雄三,小谷汪之,二宮宏之,浜下武志,川北稔,柴田三千雄,後藤明
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*1:Palestine Railways, Khoury House, Haifa, Palestine. urce Report of The General Manager on the Administration of the Palestine Railways and Operated Lines:1946/1947. Warhaftig's Press. Haifa, Palestine

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