実は新しいマッチの短く濃い歴史
マッチが量産発売されたのは19世紀半ばのことです。
硫黄やリンに摩擦を加えて火を起こす、シンプルな仕組みに思えますが、実はライターの発明(16世紀)よりずっと後のことです。
今やマッチを使う機会もさほどないかもしれませんが、近代工業社会の中でマッチは重要な役割を果たしてきました。
1. マッチ発明以前
火を付ける方法
マッチは日本工業規格では「安全マッチ」という名前で登録されています。
「安全」とは、マッチ棒の先についた赤燐が、マッチ箱の側面に塗ってある薬品とこすりあわせなければ発火しないということで安全という意味で使われているようです。
マッチ以前は、レンズを使って火種に太陽の光を当てる方法で火をつけたり、火打石や鉄を叩いて出した火花で着火させたり、火吹き棒の中の空気圧を急激に高めて着火させる方法も一般的でした。
マッチと言えばタバコですが、かつてタバコに火を付ける方法はいくつかありました。
一つは「スピル」と呼ばれる、薄い木片を巻いてストロー状にしたもので、暖炉の近くに置かれ火をつけたい時に炭につけて火を燃え移らせ、それでタバコに火を付けました。
もう一つの方法は、ストライカーと呼ばれるハサミのような道具です。片方の刃に火打ち石、もう片方に鋼鉄が付いており、こすり合わせることで火花を発生させるものです。もっと原始的にトングで焚き火の炭を拾って、直接タバコに火をつけることもありました。
原始的なマッチ
冒頭に述べた通り、この定義で言うところのマッチが発明されたのは19世紀半ばのことです。しかしマッチ発明前から原始的なマッチのようなものはありました。
中国では古くから硫黄が火種を作るのに便利だと言うことが知られており、原始的なマッチのようなものが市場で売られていました。
五代十国時代の950年頃、陶穀が書いた『清異録』と言う書物に、次のように記されています。
夜間に急な用事がある場合、灯火を作るのに時間がかかってしまうものだ。しかし、ある工夫をした人が、松の木の小さな棒に硫黄を染み込ませて、すぐに使えるように保存しておいた。この硫黄の棒は、ちょっと火をつけるとすぐに燃え上がりトウモロコシの穂のような小さな炎ができる。この不思議なものは、以前は「灯をもたらす奴隷」と呼ばれていたが、商業品となったため、「火寸棒」と呼ばれるようになった。
ヨーロッパでも17世紀からリンや硫黄を使った簡易的な火おこしの研究が進んでいました。
1669年、錬金術師のヘニッヒ・ブランドはリンが燃えやすいことを発見し、様々な実験を行いました。ロバート・ボイルと助手らは1680年代、リンと硫黄を使って効果的な火おこしの方法を実験しましたが、はかばかしい成果は得られなかったと言います。
2. マッチの発見
近代的なマッチは1805年、パリのルイ・ジャック・テナール教授の助手ジャン・チャンセルの発見から始まります。彼は、塩素酸カリウム、砂糖、ガムなどを塗った割りばしを硫酸に浸すと火がつくことを発見しました。
ただこれは実用に耐えるものではありませんでした。リンや硫黄などの化学混合物はよく燃えるものの、瞬間的に火がつくし火の勢いも強弱あって、火種としてタバコや薪などに移すのはかなり難しいものがありました。
「いかに安全に火を付けられるか」という点は初期から課題で、以降のマッチはいかに安全にできるかの技術改良が行われます。
1816年に発明されたフランソワ・デロスヌのマッチは、棒の先端に硫黄を塗ったものを、内側にリンを塗った筒の中でこするというもの。しかしこれはさほど安全ではなかったようです。
1826年にイギリス人化学者・薬学者のジョン・ウォーカーのマッチは、化学物質で発生させた瞬間的な発火をゆっくり燃焼する物質に伝達する手法を考えました。そこで木の枝や厚紙に硫黄を塗り、その先に硫化アンチモン、カリの塩素酸塩、ガムなどの混合物質を付けたものを開発しました。箱には二つ折りにした紙やすりが添えられ、マッチを引いて着火させるという製品でした。
ウォーカーは、1827年から1829年の間に約168個のマッチを販売しましたが、この製品は火のついた球が床に落ちてカーペットやドレスを燃やすこともあって危険で、フランスやドイツでは販売禁止されました。
ウォーカーは危険性があることを認めていたようで、発明の特許を取りませんでした。1829年、スコットランド人の発明家アイザック・ホールデン卿が、ウォーカーのマッチの改良版を発表するも、彼もまた危険性を認めて特許を取りませんでした。
そこでホールデン卿の弟子の一人が父親の発明家サミュエル・ジョーンズに作り方を伝授。サミュエル・ジョーンズはこれを商品化し、「ルシファー・マッチ」という名前で販売し、特許を取ってしまいました。
とはいえ、このマッチも最初の激しい反応、不安定な炎、不快な臭いと煙など、多くの問題を抱えていました。ルシファーは爆発的に発火して火花が遠くまで飛ぶこともありました。
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3. マッチのアップデート
マッチは1830年から1890年まで、さまざまな化学者によってアップデートが加えられています。
初期の頃に使われていた硫黄は、煙が多く出るのと臭いがきついことが嫌われ、より煙と臭いの少ない物質への代替が進みました。
1830年以降に人気になったのは、フランス人のシャルル・ソーリアが考案したマッチ。彼は硫化アンチモンの代わりに白リンを使用しました。リン・マッチは密閉された金属製の箱で保管しなくてはならかったものの、アメリカでは非常に人気となり、「ロコ・フォコ(Roco-Foco)」という名前で親しまれました。
白リンの他にも、蜜蝋やパラフィン(石蝋)、ミョウバンとケイ酸ソーダなどの混合物を使ったものも開発されました。
初期のマッチは火をつけると「ボンッ」と音がしていたのですが、ハンガリーの化学者ヤーノシュ・イリニイは1836年に塩素酸カリウムから二酸化鉛に置き換えることを思いつき、音の出ないマッチを発明しました。
他にも、葉巻用やパイプ用、キャンドル用といった専用マッチも作られて販売され、マッチ産業は特に19世紀イギリスで大きなビジネスとなりました。
4. 労働災害とストライキ
マッチ製造労働者の労働災害
イギリス国内では何百もマッチ工場が建ったのですが、リンマッチの製造に携わった労働者の間でリン中毒が多発し、深刻な問題となりました。
リン中毒は「リン中毒性顎骨壊死」と言われ、顎や歯に膿が溜まって肉が腐り、顎骨が壊死する病気です。
当時のマッチ一箱には人を殺すのに十分な白リンが含まれており、加工は非常に危険が伴ったものの、マッチ工場の労働者はいわゆる苦汗労働に従事する女性と子どもが大半。装備も設備も不十分な環境で、低賃金・長時間労働を強いられる女性と子どもがで空気中に舞ったリンの成分を吸い込むなどして中毒にかかる自体が多発し、社会問題となりました。
ブライアント&メイ社の工場では女性労働者の労働災害がひどく、1888年に大規模なストライキに発展しました。このストライキは、白リンを使った労働者の深刻な健康被害の改善を会社側に求めたものです。このストライキはイギリス大衆の支持を集め、ストライキの基金が設立され、いくつかの新聞は読者からの寄付を集めました。ストライキに賛同した著名人の中には、劇作家バーナード・ショーや政治家シドニー・ウェッブ、政治学者でフェビアン協会の創設者の一人グレーアム・ウォーラスらもいて、資金を提供しました。
白リンが深刻な被害をもたらすことが社会的にも広まってくると規制の動きが生じ、いくつかの国で使用禁止となりました。1872年にフィンランド、1874年にデンマーク、1897年にフランス、1898年にスイス、1901年にオランダが白リンの使用を禁止しました。1906年9月にスイスのベルンでマッチへの白リンの使用を禁止する協定「ベルン条約」が成立し、各国はマッチへの白リンの使用を禁止する法律の制定が義務づけられました。
イギリスでは、1908年に1911年からの白リン使用が禁じられ、カナダでは1914年に禁止に。アメリカでは禁止の法律が制定されませんでしたが、1913年に白リンベースのマッチに莫大な税金を課すことで実質的に生産できなくする措置を取りました。
5. 「安全マッチ」の製造
危険な白リンの反省から、人体にも問題がない「安全マッチ」の開発が進むことになります。安全マッチの大きな特長は、「赤リン」をマッチの頭ではなく、マッチ箱の横に付けられた「擦り面」に使用する点にあります。
1845年、オーストリアの化学者アントン・フォン・シュレッターが、無毒で自然発火しづらい「赤リン」を発見します。製造方法を確立したのはアーサー・オルブライトという人物で、白リンを密閉した鍋に入れ、一定の温度で加熱することで精製することに成功しました。
次いで1844年、スウェーデン人のグスタフ・エリック・パシュが、赤リンを「擦り面」に使うというアイデアを発明し、特許をとりました。
マッチの頭部には塩素酸カリウムや硫黄が使われ、赤リンを使った「擦り面」でこすることで赤リンが頭部について発火するという仕組みです。
こうして安全性の高い赤リンを使用し、マッチの頭部とリン成分を分離させた「安全マッチ」の基本的な構造が確立しました。
現代のマッチ箱の「擦り面」は、粉末ガラスなどの研磨材25%、赤リン50%、中和剤5%、カーボンブラック4%、バインダー16%から成り、マッチの頭部は塩素酸カリウム45~55%、硫黄とデンプンが少々、中和剤が20~40%、その他少量のケイ酸質フィラー、珪藻土、接着剤で構成されています。
安全マッチを発明したのがスウェーデン人ということもあって、スウェーデンは長い間、安全マッチの製造で世界をリードし、独占的な特許権も持っていました。
マッチ産業は主に南部の都市ヨンショーピングに置かれ、マッチ製造企業スヴェンスカ・テンドスティック・アクチェボラーゲット (STAB) が設立され、この企業は1927年にはイギリスのマッチ会社ブライアント・アンド・メイなどとの合併により、世界最大のマッチメーカーとなっりました。 1930年には世界のマッチ生産の60%を支配し、33か国でマッチの独占販売を行いました。
STAB社は後にタバコ専売会社スヴェンスカ・トバクスモノポレットと合併し、現在のスウェーデン・マッチ社となっています。
スウェーデンの2020年のマッチの輸出額は約250万ドルで世界第2位。1位はインドで、輸出額は約530万ドルとなっています。
ちなみに日本は1996年には世界で5番目の輸出大国でしたが、2020年には20位以下にまで下落しています。
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まとめ
マッチは見かけは原始的に思えますが、数多くの科学者たちが苦心を重ね、また多くの犠牲を出しながら発展してきた「技術の粋」とでもいうべき製品であることがよく分かります。
ガスなどインフラが発展したり、タバコの消費量が減る中で、マッチの消費量自体は減っていますが、アフリカやアジアの発展途上国を中心にまだまだ根強い需要があります。
今後マッチを利用するシーンが増えることはないとは思うのですが、キャンプなどで利用するときにはぜひ先人たちの努力を思い出してみてはいかがでしょうか。
参考サイト