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1942年ナチスがカナダを占領した「もしもの日」

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もしもナチス・ドイツがカナダの町を占領したら

新型コロナウイルスの世界的流行は、各地で悲劇や混乱を引き起こしていますが、一方で平時はとてもできない社会実験が行えているという側面もあります。

同じように、平時にはとてもできない実験が第二次世界大戦中という戦時に行われていました。実験というよりはショック療法やドッキリといった方が正しくはあるのですが。

 

1. ウィニペグ市民への「ショック療法」

1939年9月にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して欧州戦が始まり、1941年12月に日本が真珠湾攻撃をして太平洋戦が始まり、戦禍が世界中に拡大しました。

序盤は枢軸国が有利で、特に1941年はドイツ軍がギリシャやリビアで優位に戦いを進め、ソ連への電撃的な侵攻を開始し、日本軍はシンガポールやマニラ、ジャカルタといった東南アジアの主要都市を次々と陥落させていきました。

アメリカやイギリス、フランス、ソ連を中心とする連合国は枢軸国側の攻勢に危機感を強め、国民を戦時体制へと強制動員させていました。

ところが一般のカナダの人々、特に地方では、領土が攻撃を受ける可能性は低いし、大英帝国からも半ば自立していて「お国の危機」という感覚も第一次世界大戦の時よりは薄く、のんびりした雰囲気があったようです。

為政者や一部の市民らはこの状況に危機感を覚えました。カナダの戦時国債の購入率は低調で、敵国と戦える費用をとても賄えない。

カナダ市民が戦時国債をもっと購入して積極的に国を支えるために、マニトバ州ウィニペグの市民グループはある種の「ショック療法」を考えました。自分たちが何のために戦っているのか、そして敗北の代償は何なのかを市民に思い起こさせるために、「ナチスがウィニペグを占領した」というドッキリを仕掛けることにしたのです。

 

2. 「もしもの日」実行

このドッキリのは、マニトバ勝利融資委員会のメンバーであるヘンリー・E・セラーズ、ジョン・ペリン、ジョージ・ワイトの3人が発案しました。

作戦名は「If Day(もしもの日)」

正規軍、予備役、地元民兵からなる3,500人以上と、ハリウッドから借りたナチスのユニフォームを着た貿易委員会の青年部員40人が参加するという、大がかりなものでした。

地元紙ウィニペグ・トリビューンも協力し、紙名を「Das Winnipeger Lügenblatt」と変えて、ドイツ語の記事を掲載した特別版を作成。さらに偽のライヒスマルク紙幣やノイレンベイク州知事の命令書を印刷しました。

攻撃開始は1942年2月19日の早朝午前5時30分。

まずラジオ局がドイツ軍に占領され、通常の放送が止まりプロパガンダ放送が始まります。6時30分になると、ドイツ軍の爆撃機を模した航空機が空を飛び、高射砲台が空砲を放つ。街中の凍った川ではダイナマイトや石炭の粉が撒かれ爆発したかのような演出が施されました。鉤十字を描いたドイツ軍戦車が主要な通りを走って道路や鉄道の分岐点を確保。ウィニペグ・フリー・プレスの特別版には「空港の戦いで爆弾がウィニペグを襲う」「テロ攻撃で死傷者が続出」などのセンセーショナルな見出しが躍りました。

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3. 偽ナチスが布告した命令

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偽ドイツ軍ウィニペグ侵入

民兵部隊を主とするウィニペグの抵抗部隊は9時30分に降伏し、ウィニペグ市長のジョン・クイーン、マニトバ州知事のジョン・ブラッケン、副知事のローランド・マクウィリアムス、市会議員全員が逮捕され、市の北30キロに設けられた仮設収容所に移送されました。エーリッヒ・フォン・ノイレンベイクという男が新たな州知事に任命され、ドイツ軍による統治が宣言されました。

市街のドイツ軍はグレート・ウェスト・ライフ保険ビルのカフェテリアを襲撃して食料を奪い、新聞売りを乱暴に扱い、学校やシナゴーグに板を打ち付けて入れなくし、カーネギー図書館の前で本(もちろん偽物)を燃やしたりなどの乱暴狼藉を繰り広げました。ポーテージ通りは「アドルフ・ヒトラー通り」と改名されました。

 

偽ドイツ軍の布告

夕方には印刷されたリーフレットが配布され、以下のように宣言されました。

  • 午後9時40分から夜明けまで、民間人は路上に出てはならない。
  • 各家庭は5人の兵士の宿舎を提供しなければならない。
  • 軍隊、予備隊、郷土防衛隊などは解散。ガールスカウトやボーイスカウトなどの青少年団体は存続するが当局の指示に従うものとする。
  • 各農家は穀物と家畜の在庫を直ちに報告し、ウィニペグの物資司令官のオフィスを通して以外、いかなる農作物も販売してはならない。
  • 鉤十字を除くすべての国章は直ちに破棄しなくてはならない。
  • 次のような犯罪は裁判なしで死刑とする。

    ・占領軍に対する抵抗の組織
    ・無許可の州への入出
    ・所有物の報告義務違反
    ・銃器の所持


リーフレットはこう結んでいます。

「NO ONE WILL ACT, SPEAK, OR THINK CONTRARY TO OUR DECREES(我々の命令に反して行動したり、話したり、考えたりしてはならない)」

 

4. 戦時国債の購入額が向上

19日午後5時30分、国際婦人服労組とマント製造業者の600人の組合員が通りを練り歩き、「ネタ晴らし」をした上で、見物人に戦時国債を売る活動を行い、ようやくドッキリは終了しました。

このドッキリは相当手が込んでいましたが、免責事項はちゃんとしており、実行の前にはちゃんと予告をしていたし、演習中に配布された特別新聞にも「This Did Not Take Place; But it Could Happen Here(これは事実ではありませんが、本当に起きたとしたら)」と大きく書かれていました。

しかし、あまりにもリアルだったため、本当に町がドイツ軍に占領されてしまったと信じる市民も多くいました。市会議員のダン・マクレイン大佐は、ナチスの軍服を着た男たちが市庁舎に突入してくるのを見て、思わずオフィスに逃げ込んだそうです。

このドッキリは当初の狙い通り、人々の危機感を高め初日だけで300万ドルの戦時国債を売り上げました。半月でマニトバ州民の3人に1人が戦時国債を購入し、州は6,500万ドル以上の資金を調達し、当初目標の4,500万ドルを45%近く上回りました。終戦時には、戦勝ローンの売り上げによって、政府の戦時支出220億ドルのうち12%近くが相殺されたと言われています。

この「If Day」の大成功はアメリカのニュース映画で放映され、カナダの地方都市ウィニペグの知名度を高める他、戦時国債購入の呼びかけを他の都市にも呼びかけるきっかけとなりました。例えばバンクーバー市はウィニペグを参考にして独自の「If Day」を開催したほどでした。

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まとめ

危機にあまりピンと来ていない人には「実際に体験させ恐怖を味わせる」というのは、なかなか有効な手段ではあります。

それにしても、現在の2021年の時点でこのエピソードを読むとなかなか味わい深いものがあります。

「戦場」は世界中どこにも逃げ場はなく、来るかもしれない恐怖ではなくて、既に来ていて私たちの隣にもうある。危機が日常化し、さらに上をいく危機が不断に生じるという、常にマシンガンに撃たれ続けるような状況です。

危機が常にある状態でどうやったら人々に危機意識を感じてもらえるのか、それはそれで壮大な社会実験の真っ最中ということなのでしょうか。

 

参考サイト

"THAT TIME A CANADIAN CITY PRETENDED TO BE INVADED BY NAZIS" TODAY I FOUND IT

"Manitoba History: February 19, 1942: If Day" Manitoba Historical Society