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「敵前逃亡」の罪で処刑された兵たち

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軍紀違反で死刑になった20世紀の人物 

昔から敵前逃亡は軍事の世界では重い罪でした。

最前線で戦う兵士の後方には抜刀した指揮官が控えていて、前線から逃げてきた兵士を「逃げるな!腰抜け!」と罵りぶった切った、などという話は枚挙に暇がありません。

逃亡した兵士は重い罪に問われ、捕まると死刑となることもあったのですが、この慣習は20世紀まで普通にありました。第一次世界大戦では、例えばイタリア軍では750名が処刑されています。イギリス軍では306名が軍紀違反で処刑されました。

第二次世界大戦のアメリカやカナダでも、敵前逃亡の罪で死刑になった人がいます。

 

1. ジョアン・デ・アルメイダ (ポルトガル)1894~1917

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Photo by Ivan Pacheka

ドイツ軍に逃亡しようとして捕まり射殺される 

ジョアン・デ・アルメイダは北部ポルト出身の23歳の兵士で、軍に召集されて1917年3月にフランドル戦線に赴き、自動車隊に配属されました。

彼はすぐに隊の任務をサボタージュし始めます。1日ふらりとどこかへ消えたり、自動車ごと行方をくらましたりなど問題行動が多く、彼の行動を問題視した上官は60日間の懲役刑に処しました。

その後の兵士たちへの聞き込み調査で、失踪中実は彼がドイツ軍の陣地に到達するための方法を聞きまわっていたことが明らかになります。彼はポルトではドイツ人の家庭で働いておりドイツ人を尊敬していたこと、そしてドイツ軍に地図を含めポルトガル軍の軍勢についての情報を与えようとしていたという証言が得られました。

略式裁判が1917年9月12日に行われて死刑が決定し、4日後の9月16日の朝に銃殺されました。

戦後12年たって、この処置は正しかったのか当時の現場の指揮官たちに公開質問状を送り、一躍この事件が知られることになりました。

 

2. トーマス・ハイゲイト(イギリス)1895~1914

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 第一次世界大戦でイギリス軍で最初に処刑された兵士

 第一次世界大戦で、イギリス軍では360名が軍紀違反で処刑されましたが、その第一号がトーマス・ハイゲイトという19歳の兵士です。

イギリス軍が第一次世界大戦に参戦して初めての戦いである1914年8月23日のモンスの戦いで、イギリス軍はドイツ軍の攻勢の前に撤退を余儀なくされました。この戦いでトーマス・ハイゲイトは「トイレに行きたい」といって部隊から離れそのまま逃亡。しかし数時間後にモンスの町で民間人の服を着て潜んでいるところを見つかり、連れ戻されました。

速攻で軍事法廷が開かれ、ハイゲイトが脱走前に「もうたくさんだ、ここから抜け出したい、これが俺のやり方だ」と言ったという証言がありますが彼はそれを否定し、自分は部隊に戻るつもりだったと主張しました。ではなぜ民間人の服を着ていたのか、と問われると、彼は「分からない、記憶が曖昧だ」とだけ言いました。

判決はすぐに出て、9月8日7時過ぎに銃殺刑となりました。

2006年には敵前逃亡や脱走で処刑された306人の大英帝国軍兵士の一斉恩赦がありましたが、まだ彼の名誉回復はなされていません。彼の一族を中心に名誉回復を求める動きがあります。

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3. ビクター・スペンサー(ニュージーランド)1896~1913

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Photo from "Victor Spencer - shot for desertion" NEW ZEALAND HISTORY

 PTSDで戦場に出られなくなり脱走

 ビクター・スペンサーは1896年、ニュージーランド・サウスランド州オータウタウの生まれ。1915年4月に18歳でニュージーランド遠征軍に入隊しました。20歳が新兵の最低年齢ですが、偽っていたようです。

1915年11月、イギリス・ANZAC軍がオスマン帝国軍に敗北したガリポリの戦いでに参加した後、エジプトでニュージーランド軍は療養した後に再編成されました。

1916年4月にビクターはニュージーランド師団と共に西部戦線に出発し、フランスのアルマンティエールを拠点としました。7月9日~10日のドイツ軍の砲撃には耐えたものの、ビクターは「砲弾ショック」、いまで言う所のPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかってしまったようです。数週間入院した後に塹壕に戻されますがすぐに行方不明になりました。翌月憲兵隊に捕まり、18ヶ月の懲役と重労働の判決を受けます。

1917年6月、刑期が緩和され、ビクターは自分の部隊に戻るも、2ヶ月後に再び行方不明となりました。翌年1月にフランス人女性とその2人の子供と一緒に暮らしているところを発見され、脱走の罪に問われました。

法廷でヴィクトルはアルマンティエールでの経験を語り「私の健康状態は芳しくなく、 神経は完全に破壊されてしまった」と述べ、1918年2月24日の早朝に銃殺隊によって処刑されました。

 

4. エミル・レブリヤヌ(ルーマニア)1891~1917

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ルーマニア王国軍に投降しようとして処刑

エミル・レブリヤヌはトランシルヴァニアのクルイという町で、ギリシャ系カトリックの家に生まれました。いわゆるエリートで、1913年フランツ・ヨーゼフ大学の法学部に入学するも、戦争勃発と同時に学業を中断し、オーストリア=ハンガリー帝国軍にの少尉となりました。ロシアとガリシア、イタリア戦線でも活躍し、軍から金メダルを授与されるほど勇敢な兵士でした。

ところが、彼はロシアが支援するルーマニアと対峙するルーマニア戦線に派遣されると様子が変わってしまいます。

1881年にルーマニア王国は独立していましたが、トランシルヴァニアはまだオーストリア=ハンガリー帝国の領土で、ルーマニアはトランシルヴァニアの併合を目指していました。

彼はルーマニアによるトランシルヴァニア併合を支持していたようで、自分のことをルーマニア人だと思っていたようです。

エミル・レブリヤヌは1917年5月10日~11日の夜、隔離されていた診療所から逃げ出し、前線をルーマニア王国軍のほうに渡ろうとしました。すぐに帝国将校のパトロールに発見され、逮捕されました。5月12~13日、第16旅団の軍事法廷で、脱走とスパイの罪で審理され、階級を剥奪され、死刑判決を受けました。

目撃者によると、5月14日の午後10時に処刑される前に、「大ルーマニア万歳!」と叫んだそうです。

 

5. オラヴィ・ライホ(フィンランド)1907~1944

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ソ連と通じたフィンランドの共産主義

オラヴィ・ライホはフィンランド南西部の町トゥルクの生まれ。若い頃から共産主義運動にのめりこみ、1934年に投獄された経歴もあります。

1939年にソ連がフィンランドに侵攻した冬戦争は国家総動員の戦いであったため、ライホも兵役につきますが、戦後すぐに共産主義者によって設立されたフィンランド・ソビエト平和友好協会のトゥルク支部の活動に積極的に参加しました。

1941年6月にソ連との間に継続戦争が勃発し、再度総動員体制が組まれると、ライホはトゥルクに逃げ、ソ連との軍事協力をする組織を共同設立し、スパイ情報の送信などを行っていました。彼はまた森林警備隊などの妨害工作も行っていました。

1942年12月22日に警察に捕らえられ、1943年6月22日に逃亡、スパイ、反逆の罪で死刑判決を受けました。彼はフィンランドで処刑された最後のフィンランド人です。

 

6. ハロルド・プリングル(カナダ)1920-1945

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 第二次世界大戦中に処刑された唯一のカナダ兵

 ハロルド・プリングルは兵役志願し、ヘイスティングス・プリンスエドワード連隊第1 大隊に二等兵として配属されイタリアに赴きますが、配属前から非常に素行が悪く脱走の常習犯であったそうです。1944年5月、イタリア中部でのヒトラーラインの戦いの後に彼は再び脱走。ローマに逃げて、脱走兵からなるギャング団「セーラー・ギャング」に加わりました。

このギャング団は構成員は5人しかいませんでしたが、このような脱走兵からなるギャング団は「レーン・ギャング」など複数あって、軍需品を盗んで闇市で売るなどをしていたようです。

ハッピーでヒッピーな生活を送っていたギャング団は常に酒を飲んで酔っ払っていてらしく、つまらんことで喧嘩になり、プリングルは口論の末にある仲間を銃で撃ってしまいました。心配した仲間が撃たれた脱走兵を野戦病院に連れて行ったことがきっかけで芋づる式にギャング団は逮捕され、レーン・ギャングやセーラー・ギャングをはじめ脱走兵のギャングは次々に逮捕されました。

プリングルは殺人罪で死刑を宣告され、1945年7月5日にカナダ陸軍の銃殺隊によって死刑が執行されました。

 

7. エディ・スロヴィク(アメリカ)1920~1945

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 第二次世界大戦中に処刑された唯一のアメリカ兵

エディ・スロヴィクは徴兵される前から素行が悪く、窃盗をしてつかまり仮釈放された後も自動車泥棒で服役していました。その経歴から元の兵役基準だと資格はありませんでしたが、基準が下げられたことで徴兵され、1944年1月にライフル部隊に配属されました。

8月、スロヴィクはフランスに派遣されましたが前線に向かう途中で、戦闘の混乱の中で仲間とはぐれ、彼を発見したカナダ軍の部隊で引き取られました。

スロヴィクは10月5日にアメリカ軍に引き渡されましたが、彼は翌日にライフルマンになるには「あまりにも怖くて、神経質になりすぎている」と主張し、戦闘を余儀なくされたら逃げると主張しました。彼の発言は無視され、スロヴィクは任務を再開するも、再び将校の元に戻ってきて「もし戦闘を強いられたらまた逃げる」と自白書を提出。脱走をすると宣言しました。

将校は自白書を持ち帰ると大変なことになるため、自白書を持ち帰るように言いますが彼は拒否し、とうとう牢屋に監禁されました。第28師団の法務官は、スロヴィクにすぐに戦闘に飛び込み、軍法会議を回避することを提案しました。スロヴィクはこれを拒否。11月11日に脱走罪で裁判にかけられ、2時間足らずで有罪判決を受け、銃殺が決定しました。アイゼンハワーはこの決定にサインをし、1945年1月にフランス東部で銃殺されました。

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まとめ

世界の国々では「良心的兵役拒否」 は、まだまだ世論の厳しい目はありつつも、サポートする団体があって理解してくれる人は少なからずいます。しかし昔は相当厳しかったと思われます。特に、国同士の民族意識が真正面からぶつかった第一次世界大戦は、相当激しいものがあったと思われます。

軍隊という集団の中の規約で逃亡や脱走が罪であるのは、それは軍隊という存在である以上、否定のしようがありません。軍隊という組織を維持する以上、そこはないといけないものです。ですが、元々そのような志向の人物を戦闘に参加させること、仮にあっても死刑になるようなことはあってほしくないと切に願います。

 

参考サイト

"Quando a justiça militar mandou fuzilar o soldado João de Almeida" I Grande Guerra - Longform | PÚBLICO

"World War One: Thomas Highgate first to be shot for cowardice" BBC NEWS

Emil Rebreanu - Wikipedia

"Victor Spencer - shot for desertion" NEW ZEALAND HISTORY

Olavi Laiho – Wikipedia

"Life and execution of Private Harold Pringle subject of upcoming talk" Minden Times

"The execution of Eddie Slovik is authorized" HISTORY