世界一の物流大国・中国
中国は今や日本を抜き世界第二位の経済大国であり、
輸出競争力も高いだけでなく、13億人の内需が強力に経済サイクルを牽引しています。
いま中国脅威論や逆に中国崩壊論が華やかで書店を賑わせておりますが、
歴史を鑑みるに中国が覇権を持つことは至極まっとうなことであります。
その有無を言わさないジャイアン的なやり方には大いに問題があるところですが…。
さて、今回と次回との2回で「明・清の時代の中国の物流」について書いていきます。
今回は明王朝の物流についてです。
1. 明・清時代の中国では何が流通したか
10の経済地域
アメリカの地理学者G.W.スキナーは、19世紀末の中国を大きく「10の経済地域」に定義しました。
例えば、満州、華北、長江下流、西北中国、東南沿岸、嶺南などなど。
それらの地域は主要河川の流域ごとに形成されており、中心部は農業や商業、工業が行われる低地、周辺に林産品や鉱物を供給する山間部が広がり、基本的にこの中でクローズドな経済システムが循環していました。
G.W.Skinner Mapよりキャプチャ
塩・茶・鉄・手工業製品…
とは言え、充分な供給が難しい製品も多々あり、そういったものは他の経済地域から輸送してくる必要がありました。
代表的なものが、塩。
塩は人が生きるために不可欠なものですが、基本的には沿岸部で海水を煮詰めて作るしかなく、主要な国内流通品の一つでした。
あとは茶・木材・鉄といった、産地が特定される商品。
また長江下流域の農民が作る手工業製品も、広く流通しました。
そしてそのような国内物流を牛耳ったのが、徽州商人などの有力商人集団であり、物流の大動脈となったのが中国を南北を結ぶ大運河と、東西に結ぶ長江でした。
2. 中国の流通を牛耳った徽州商人とは
交易に身を投じる徽州の男たち
徽州は現在の安徽省黄山市にあたります。
もともとこの地域は原生林でしたが、9世紀末から唐末の混乱を逃れて漢族が住み着くようになり、彼らはせっせと原生林を開拓して水田を開発しました。
ところが13世紀になると、徽州地域はほとんどすべてが開拓されてしまい耕地が不足。
しかし人口は増え続けたため、食えないあぶれ者がたくさん出現しました。
彼らは食っていくために、交易に身を投じる事になります。
徽州は交易するのに超ベンリだった
当時の中国の流通の3大ルートは以下のとおり。
- 江南デルタ(揚州) ←→ 長江下流←→ 長江上流(重慶)
- 江南デルタ(揚州)←→ 大運河←→ 華北(北京)
- 長江下流 ←→ 江西省 ←→ 広東・福建
1は東部沿岸から中国内陸部へ行くルート。
2は東部沿岸から中国北部へ行くルート。
3は内陸に行く途中で南に方向を変え中国南方へ行くルート。
徽州盆地はこの3ルートへいずれもアクセスが抜群。
東へ下ればすぐに江南デルタ。西へ向かえば内陸部。途中で南に下れば広東や福建。
これは徽州商人にとって大きなメリットでした。
徽州商人は沿岸部に近い地理的なメリットを活かし、各地に塩を卸す塩商人として台頭。山西商人や陝西商人などのライバルを出しぬき、一躍有力な商人集団となりました。
3. 徽州商人と結びつく江南デルタ地帯
発展する江南デルタ地帯
15世紀末は中国経済が停滞から発展に向かう端境期にあたり、治安の安定を背景に主に江南デルタ地帯で農業や手工業が発展し、国内の物流が大いに活性化しました。
江南デルタ地帯の中心部は大規模な低湿地帯で、クリークを縦横に掘って排水設備を整えることで一大農業地帯となりました。
また、クリークの堤には桑が植えられ養蚕業が発達。
さらに、デルタ東海岸にある微高地では綿花の栽培が行われ、綿織物業も発達。
水田開発が飽和状態になり農業で食えないあぶれ者が出てくると、彼らは手工業や各種商品生産に活路を見出すようになり、江南デルタの商品生産能力は飛躍的に向上していきました。
グローバル経済の拠点
製糸・織物産業は主に農民の副業でしたが、江南の都市部では専門の職人による高級絹・綿の生産が始まります。
これらは国内はもちろん海外でも高い値段が付き、最大のお客様は日本人でした。
当時日本では石見銀山を始めとした銀の算出がピークを迎えており、日本人はその旺盛な物欲で大量の中国製品を買いあさっていました。
さらに、フィリピンに運ばれた絹織物はスペイン人経由で新大陸に運ばれ、そこでメキシコ銀と交換されます。
一方で江南デルタは人口が増えすぎて穀物を自給できなくなり、一転して穀物輸入地帯に。
国内からは穀物や原材料、海外からは銀が流入。
江南は手工業製品を国内、海外向けに輸出するという、マクロなグローバル経済がワークしていたのでした。
実に壮大ですねー。
徽州商人が仕切る「市鎮」
徽州商人は次第に物流のみならず、江南デルタ地帯で手工業の「生産」にも手を出していきます。
現代で言うところの「プライベート・ブランド」でしょうか。
至る所に「市鎮」と言われる物産の市場町が作られ、農民たちは自分たちで作った商品を市鎮に持ち込んで売り、現金を受け取りました。
徽州商人はそれらをとりまとめて分類し、外地から訪れた商人に売却をしたのでした。
小説「三言二拍」に描かれた市場町の賑わい
特に栄えた市場町は、蘇州南部にある盛沢鎮という町で、その賑わいは短編小説「三言二拍」に以下のように描写されています。
人口は多く、習俗は淳朴、みな養蚕をなりわいとしております。男女とも勤勉、機織りの音は夜通し絶えません。運河の両岸には絹や製糸の問屋が千百余家も立ちならび、遠近の村々で織られた絹はみなここで売りに出されます。四方の客商がそれを買いに集まり、蜂や蟻が群がるよう、身動きもできず足の踏み場もないほどです。
小説の主人公・施復が絹布を売却する様子もあります。
ある日のこと、施復は四疋の絹布を織って、ていねいにふろしきに包んで市中へと参りました。人声もかまびすしく、大変な繁盛です。施復がなじみの問屋に着きますと、門口には絹を売る人々がひしめき、店内には三・四人の絹商人が座り、主人は帳場に立って絹布を広げ、声に出して値踏みしています。施復は人混みをかき分け、主人に絹布をわたし、主人はふろしきを開き、一疋ごとにざっと目を通し、秤にかけて値段を告げます。そしてある客商に言うには「この施さんは正直なやつだよ。まあ良い銀をわたしてあげな」。客商は良質の銀を選んで秤にかけ、施復にわたしますが、施復も持参の秤でひとはかり。少し不足だと掛けあっていくぶん足してもらい、手を打ちました。(「醒世恒言」巻十八)
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4. エコノミック・アニマルな徽州商人
北方へと進出する徽州商人
16世紀以降の中国北方では商業ブームが起き、綿・布・茶が飛ぶように売れました。
特にモンゴルでは、野菜の取れない遊牧民族のビタミン源として茶が大流行。
もともと徽州でも茶の生産は行っていましたし、浙江や湖南など徽州商人の地盤の地域にも茶の名産地が多く、徽州商人はせっせと茶を北方に運んでは、モンゴル人に売りさばいていました。
「己の才覚で食っていく」
徽州商人の気風を「三言二拍」では以下のように評しています。
さて徽州の風俗といえば、商業こそ第一の生業と考え、科挙に合格することはむしろ二の次なのです。…徽州の人びとはなにしろ商売を重んじるので、商人が故郷に帰ってくれば、外からは宗族の人びとや友だちが、内では妻妾などの家族が、持ち帰った儲けの多少だけで軽重をつけます。儲けが多ければ、だれもがにこにことすり寄ってきますが、儲けが少なければ誰もが軽んじてせせら笑うのです。
徽州の人びとは、科挙の合格を目指して勉強するよりも、現実的に成功の可能性がはるかに高い商売の道へ進む者のほうが多かったようです。
また商売以外の道へ進んだ者でも、例えば農業経営者や医師、職人など専門分野を身につけると、ニーズに応じて各地へ散っていきました。
土地に対する感情や執着は薄く「己の才覚で食っていく」という実業志向に裏打ちされた気風でした。
ビジネス本「士商類要」
1662年に徽州で発刊された書物に「士商類要」というものがあります。
これは商人が商売をするにあたってのノウハウが事細かに記された当時のビジネス本。
この本が言わんとする「商売の極意」は、
- 信頼すべき取引相手や仲間を選び、良好な人間関係を築くこと
- 有能な仲買人を選び、信頼関係を築くこと
にあり、そのことが商品の買い付けや売却の成功を握るのだ、と述べています。
これは今でも通用しますね。
5. 海外貿易に打って出る
倭寇となった徽州の男たち
16世紀半ばになると、徽州商人は一時的に海外貿易をも制覇します。
それが「後期倭寇」の時代でした。
当時、明政府は外国貿易を禁じていましたが、先述の通り日本は銀の大量生産に成功して「カネ余り」の状態にあり、極めて高い中国製品へのニーズがありました。
一方で中国は銀不足の状態にあったため、多少危険を犯してでも海外貿易に打って出て、ボロ儲けをやってやろうという連中が出てきました。
代表的な人物が徽州出身の許棟、王直、徐海で、彼らは寧波近海や日本の平戸・大隅に密貿易地を作り、日本人・朝鮮人・東南アジア人・ポルトガル人の海商を集めて広域的な密貿易に乗り出しました。
これらの密貿易グループは明政府によって討伐されてしまい1560年代に入ると倭寇の活動も下火になり、明政府の公認によって海外貿易が解禁されると、南方の福建商人によって主に東南アジア方面への海外貿易が盛んになっていくのでした。
一連の顛末は、過去記事「グローバル武装貿易グループ ”倭冦”の男たち」をご覧ください。
繋ぎ
マット・リドレーの著作「繁栄」に、
余剰生産物があって交易が生まれるのではなく、まず初めに交易があり、それにより生産性があがり余剰生産物が生じるのだ
みたいなことが書かれていたのですが、江南デルタと徽州商人の関係を見るとこの説が結構説得力があるように思えてきます。
江南デルタで発達した絹や綿工業も、そもそも「カネになる」と分かっていないと大規模に作りませんからね。
徽州商人がもしいなかったら、あぶれ農民は他の地域に移住して新農地の開拓でもやっていたかもしれません。
後編では清国の時代の物流の歴史を紐解いていこうと思います。
参考文献:世界史リブレット「徽州商人と明清中国」 中島楽章 山川出版社