歴ログ -世界史専門ブログ-

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グローバル武装貿易グループ ”倭冦”の男たち

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引用:asahi.com

倭冦=国際武装物流集団

ぼくが小中学生の時、「倭冦」についてこう習いました。

「日本人は武器を持って海を渡り、朝鮮半島や中国の人たちを殺して米などの物資を奪い、酷いことをしました」

前期倭冦はそのような傾向があるのですが、全部をそう括っちゃったら困るというか、これはかなり意図的な見方な気がします。

室町時代以降になると倭冦はグレードアップ。

日本だけではなく、周辺各国のヒト・モノ・カネを縦横に流す国際物流に発展していきました。ただし非公式だったため武力を伴っているのが特徴。

現代風に言うとピストルを持ったSAGAWAのお兄さんのようなものです。…違うか。

 

 

 前期倭寇:海を渡る無法者

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とにかくキレやすかった九州の商人

鎌倉時代、九州北部の商人たちは朝鮮の高麗と貿易を行っていました。

昔も今も異国間の商売にトラブルはつきもの。揉め事がたびたび起きますが、特に血の気の多い九州の商人は、何か問題が起きると武力で問題解決を図ろうとする傾向がありました。

すぐにブチぎれて日本刀や長刀で切り込んでくる屈強な男たちは、当時の朝鮮人にとっては恐怖以外の何者でもなかったでしょうね。

内戦をするための商品を海外から調達(略奪)

南北朝時代になると、戦乱により高度化した軍事力が物資や食糧を外に求めるようになります。前期倭冦の発生です。

内乱のために必要な物資や食料を調達する目的で、対馬、壱岐、松浦の武士が海賊化し、組織的に中国や朝鮮半島の沿岸を襲いました。略奪した品物は自分たちが消費するためではありません。ほとんど国内向けに売りさばかれました

例えば、肥前の松浦党は南朝と結び、略奪した品物を南朝側に流していました。同じく北朝側に与した倭冦もいたと思われます。

 

応仁の乱でストップした銭の流通

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 勘合貿易によって活性化する流通

時代は下り室町時代。第3代将軍足利義満により、勘合貿易が開始されました。

これは日本の商業に画期的な活力を与えました。それまでの日本ではいわゆる「銭不足」の状態にあり、田舎はおろか都の京でも銭の流通は鈍かったのですが、

勘合貿易によって「確実に外国の品物を手に入れられる」信用度の高い明銭が国内に大量に流入。国内の商業は一気に活性化します。

応仁の乱の影響で供給不足状態に

ところが、応仁の乱の影響で勘合貿易は停止。東シナ海の銭の流通は一気に流れを止めてしまいます。 この事態には、日本人だけじゃなく中国人の商人も困り果てた。

折しも、島根県の石見銀山では技術革新により銀の生産量は増大。また農耕・技術の発達で所得と生活水準は向上し、日本人の外国製品への需要はますます高まっていきました。

カネはあるのにモノがない、圧倒的な供給不足状態に陥ります。

中国の海禁政策

当時の明政府は海禁政策を取って貿易を政府の管轄下に置き、私的貿易を一切禁じました。当時は明でも貨幣経済と商品流通の発展が著しく、

「外国と貿易をやればしこたま儲けられるのに」

と海商人の間に不満が高まっていました。

ポルトガル商人の参戦

さらには南方からは、宣教師のイエズス会を先兵としたポルトガル商人が続々やってきていました。

彼らはヨーロッパの先進的な技術、文化、製品を持ち込みキリスト教を触媒とする影響力拡大、ひいては東アジアでの植民地獲得を目指していました。

 

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国際物流集団の形成

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このように中央政府による貿易が抑制される中、小中規模な集団による非公式な交易ネットワークが拡大し始め、それは東・南シナ海を舞台にしたグローバルなヒト・モノ・カネの一大流通ルートに発展していきます。それが後期倭寇です。

日本から銀や硫黄。中国からは生糸・木綿・硝石・陶磁器。ポルトガルからワインや火縄銃。

さらには、朝鮮、琉球、フィリピン、タイなど流通ネットワークは北東アジア〜東南アジア一帯に広がっていました。

まるで多国籍企業

彼らは「倭寇」と称されてはいるものの、ポルトガル人や朝鮮人が構成員になっていたり、日本人のフリをする中国人や、ポルトガル人のフリをする日本人など、様々な民族の海商人たちが参加し、いくつもの倭寇グループを形成していたようです。

まるで現在の多国籍企業のようですね。

 

王直(? - 1559)

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引用:extremeparty.heteml.jp

種子島に鉄砲をもたらした張本人?

後期倭寇の実力者として有名な人物が、中国人の王直。

1543年の日本への鉄砲伝来は、ポルトガル船により伝わったのが常識ですが、この時ポルトガル人が乗っていた船は中国人の船で、ポルトガル人は数人しか乗っていなかったそうなのです。そして、この船の船長だったのが王直でした。

そういう意味で、日本への鉄砲の伝来をもたらしたのは中国人だったとも言えます。

密貿易者・王直

王直は中国の現在の安徽省の出身。若いころから各地を流浪した後、寧波の近郊にある島の密貿易集団の一員となり、めきめき頭角を現しました。

1540年、葉宋満という人物とともに、日本・シャム・南方の島々を行き帰し、当時ご法度だった硫黄、硝石、生糸の密貿易を開始、莫大な富を手にしました。

鉄砲の御用はありませんか?

王直が日本用に売り込んだ新商品が、鉄砲。

当時戦乱の世に突入していた日本では高く売れると踏んだのでしょう。また、鉄砲とセットで販売したのが硝石。これがないと、弾が発射できない。鉄砲は模倣されるかもしれないが、硝石は日本じゃとれないから恒久的なお客さまになるに違いない

プリンタを安く売っておいて、インクでぼろ儲けするビジネスモデルに近いでしょうか。

硝石の独占販売はしばらく莫大な利益を上げたものの、後に加賀や飛騨で糞尿と草で培養して硝酸カリウムを取りだす技術が発明されたため、徐々に売れなくなってしまいました。

五島列島を本拠地にした王直

商売がしやすかったのか、アジトにぴったりだったのか、王直は長崎県の五島に本拠地を構え本格的に倭寇の首領に収まりました。

五島は後に鄭成功も身を潜めているし、海賊たちにはよく知られた「隠れ家」だったのかもしれません。

「王直倭寇団」の配下には、中国人・日本人・朝鮮人など多国籍の人間が所属し、密貿易に、略奪にと精を出した。

ところが1575年、中国の舟山本島の港に入港したところを明軍の襲撃に合い捕えられ、翌々年処刑されてしまいました。

 

徐海(? - 1556)

大隅を拠点にした倭冦

徐海は王直と並び称される倭冦の大頭目。

王直と同じく中国・安徽省の生まれで、若い頃は杭州の虎跑寺で坊主をしていました。ところが真面目にお経の練習をするでなく、日がな町に出てはゴロツキとケンカに明け暮れていたそうです。相当つまらなかったんでしょうね。

ある時、伯父さんの叙惟学が海賊業で活躍してると聞きつけた徐海。つまらない坊主なんか辞めてしまって、さっそく叔父さんの仲間に加わることに。

 

叙惟学は徐海を船に乗せて日本の大隅に連れて行き、土地の人たちに甥っ子を紹介して周りました。

不良僧とはいえ、明国から来た僧は当時の日本人にはありがたい存在だったようで、すぐに大隅の人たちの信頼を得たようです。

徐海海賊団の結成

叙惟学は大隅の領主に借金があったため、資金繰りのため日本人の部下を引き連れて広東に遠征に出かけます。ところが遠征中に叙惟学は明の正規軍に敗れて死亡。

伯父さんの借金を背負うことになった徐海は、部下である日本人(大隅の辛五郎、薩摩の掃部、種子島の助才門、日向の彦太郎、和泉の細屋)を引き連れて海を渡り、柘林に根拠地を構え、徐海海賊団を結成しました。

明軍により逮捕・死刑

当地の海賊団も吸収して膨れ上がった海賊団は、江蘇、浙江の諸州を襲撃して周ります。

総督・胡宗賢は徐海に「投降したら貿易を許す」として明軍への降伏を呼びかけます。

これに応じた徐海は明軍と使者による交流を行いますが、胡宗憲はタイミングを見計らって徐海を包囲し奇襲攻撃をしかけました。

徐海は少数の部下とともに逃げ出しますが、後に自ら水に身を投げて自殺。部下だった日本人の辛五郎や掃部なども捕まり、徐海海賊団は壊滅しました。

 

 

まとめ

倭冦は単なる野蛮な武装集団ではなく、当時の社会・経済情勢に則っていたもので、我々の想像を超えてグローバルな物流が展開されていたようです。

「日本史」のように、国の枠組みの中だけで歴史を語ることは、ある意味本質を見失うことなのではないかなと、倭冦の事例を学びながら思います。