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『タイのかたち』書評 タイという正体不明の国を解剖する

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タイという国の謎が解ける本

ぼくは世界中の国の歴史や文化に興味があるのですが、配偶者がタイ人ということもあり、タイは他人事じゃないというか、放っておけないところがあります。

ですが、いくら学んでもタイは掴みどころがない。歴史的にも文化的にも、ハッキリとした輪郭が見えづらい印象がありました。それは嫁や知り合いのタイ人と交流しても同じで、いろいろな情報のピースはあるも、それがパズルにカチっとはまらない気がしていました。

で、今回紹介する本書です。

「タイのかたち」(赤木攻著, めこん)はそんなぼくのモヤモヤの大部分を整理してくれました。東南アジアクラスタに限らず、歴史や政治に関心のある多くの方が楽しめ学びがある本だと思います。

 

装丁のラームカムヘーン王碑文

本書を手に取ると、まずは異色すぎる装丁に目がいきます。

画像や背景色すら入れず、スコータイ王国第三代国王ラームカムヘーン王が記したと言われる「ラームカムヘーン王碑文」の訳文を真っ白の背景の上にただ並べるという潔さ。

「ラームカムヘーン王の御代、スコータイの国やよきかな、水には魚あり、田には稲あり」

このラームカムヘーン王碑文はタイ人は子どもの時に暗記させられるそうです。日本人が「今は昔、竹取の翁という者ありけり…」とか「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく山ぎは、少しあかりて…」とかを暗記するような感じです。

スコータイ王国は13世紀後半ごろから現在のタイ中部にあった国で、現在のタイ王国の一番古い祖先にあたり、慈悲深い王と勤勉な国民が仏教の教えを守って暮らす豊かで平和な国が築かれていた、と教えられます。

なぜラームカムヘーン王碑文がこの本の装丁になっているかというと、現在のタイという国を理解する上で重要なポイントがこれだからです。

本書では、ラームカムヘーン王碑文は「チャクリー朝第四代国王ラーマ4世(モンクット王)が主導して19世紀半ばに作った捏造品である可能性が高い」と説明されます。これは結構ショッキング。スコータイはタイ人の心の故郷であり、ラームカムヘーン王碑文はタイの理想の姿の象徴であるからです。

 なぜモンクット王は、ラームカムヘーン王碑文を作り出す必要があったのか。

そのヒントが「タイにはタイ人はいない」という面食らう名前の序章にあります。

 

「タイにタイ人はいない」

タイのことを知ろうと思って本を開いていきなり冒頭「タイにタイ人はいない」と来るのでびっくりします。

本書によると、タイはクメール系、モン系、ラーオ系、華人系、インド系、ベトナム系、ムスリム、山岳タイ系等々、様々な民族の混血の人々からなり、「純粋タイ」の人はもはや存在しない。タイは多民族からなる国家で、故に「タイにはタイ人はいない」というのです。

実際に、ぼくの配偶者も、1/4がタイで、1/4がラーオ、1/4がクメール、1/4が広東です。

彼女の友達も、シャン(ミャンマーのタイ系民族)とコーカン(中国国民党の残党でタイに亡命してきた人)のハーフだったり、華人系だったり、南部マレー系ムスリムだったり、かなり幅広いです。

この多民族・外来人国家というのは、現在のタイ王国の直接の祖先であるアユッタヤー王朝の特性を成しています。

そして、近代以降タイ王国を維持発展するために為政者たちが乗り越えなければならない課題が、アユッタヤー王朝以来の「外来人国家性」を克服し「タイ民族のタイ王国」を構築することであったのです。

 

タイは3つの世界から成る

 本書では、現在のタイは3つの世界から成っているといい、これらの世界の政治的・文化的な説明がなされます。

 

サヤーム世界

現在のタイ王国の中核となっている世界。

チャオプラヤ川下流域のデルタ地帯と、チョンブリー、ラヨーンなどの中部を含む。

後背地の林産品の富を背景に、ヨーロッパ・イスラム・インド・東南アジア・中国・日本など世界各地と交易を行い、これらの外来人を権力の中枢に巻き込むことで成立した。

 

タイ世界

もともとのタイ人の文化的ルーツがある世界。

現在のタイの東北部(イーサーン)、チェンマイやチェンラーイを中心とする北部。

東北部では権力は育たなかったものの、北部ではラーンナー・タイ王国など、「山岳タイ」民族による小規模な権力が成立した。

 

マレー世界

マレー半島中部、ナコーンシータムマラートやパタニを中心とする、東南アジアの港湾都市の世界。 

サヤーム世界やタイ世界で仏教が盛んだった一方で、マレー世界ではムスリム勢力が優勢。サヤーム世界に半ば従属しつつも独立し、東南アジア各地や中国、日本などと交易を続けた。

 

サヤーム世界はアユッタヤー王朝、次のトンブリー王朝、そして現在のチャクリー王朝へと受け継がれて、現在のタイ王国の母体となっているように、強力な王権と経済力を持ち、タイ世界とマレー世界に絶対的な優越性を持っています。

近代以降、列強の侵略にさらされたチャクリー朝の国王たちは、シャム王国を近代的な国民国家に脱皮させようと様々な改革に乗り出します。その中で、サヤーム世界はタイ世界とマレー世界を政治的・経済的・文化的に取り込んでいくわけです。

ただ、サヤーム世界は政治・経済は圧倒的に強いものの、伝統的な「外来人国家」であり、独自の文化というものがほとんど存在しませんでした。そこで、タイ世界やマレー世界から様々な文化を取り入れて「伝統的タイ文化」というものを人工的に作り上げたのです。

例えば料理では、ソムタムやガイヤーン、ラープなどの代表的タイ料理は東北部(イーサーン)のもの。マッサマン・カレーやサテはマレー世界のもの。伝統的な音楽や踊りは北部のもの。タイ・シルクや衣服もタイ世界のもの。影絵芝居はマレー世界のもの。

このように、バンコクはあちこちの文化を「タイの〇〇」と名付け吸収し、これらの文化がタイの国土に伝統的に存在するかのように振る舞い、内外にPRしたのです。

 

こういったバンコクの行動を「タイのオリジナル」を自称するチェンマイの人間は見下して小馬鹿にする。

バンコク人は他所から借りてきた文化で粋がってる鼻持ちならない田舎者。北部の人間こそ歴史と伝統を受け継いだ誇り高いタイだ。

まるで東京と京都の関係に似ています。

ちなみにぼくの配偶者は東北部(イーサーン)の人なんですが、北部出身者のことをあまりよく思っていません。職場の北部人のことを指して「腹黒い」「表っ面はニコニコしてるのに、裏では悪口言ったり噂を流したりする」「あいつ嫌い」と文句を言ったりします。腹黒いと他地域に文句を言われるのも、京都人に似ています。これは古都の人の文化的共通性なんでしょうか。

個人的に、配偶者のこういった何気ない一言も、本書を読んでるとパズルのピースのようにピタッとハマる気持ち良さがあるのです。

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「チャート・タイ」の構築

 さて、冒頭のラーマ四世によるラームカムヘーン王碑文の捏造疑惑も、タイ民族国家形成の一環である可能性が高いと本書で説明されます。本書から一部引用します。

四世は…チャクリー王朝の歴代の国王の中でも、きわめて賢明で知識の深い王であっただけでなく、当時のアジアで西欧社会にもっとも通じた知識人であった。独立を守るためにも、強力な西欧諸国に対応できる国家タイの必要を痛感していた…

「外来人世界(サヤーム世界)」の歴史を振り返ってみても、タイ的な理想の故郷が見当たらないため、「サヤーム世界」に地理的にもっとも近く、その昔繁栄し、相互交流があり、「タイ世界」の有力なクニであったスコータイに注目し、見倣うべき理想郷として持ち出した。そして自らの考える「チャート・タイ」の基本要素を、願いを込めて「スコータイ碑文」に刻み込んだ。

 こちらの引用文に現れる単語「チャート・タイ」は、本書の重要キーワードの一つです。チャート・タイとは「タイ的価値」という意味で、バンコク(サヤーム世界)が国民国家を創出するために、極めて多様な住民を「タイ人」「タイ民族」としてひとくくりにする作業のことを言います。

タイ国民を作るためにはタイ文化を構築する必要がある。タイ文化ができればチャート・タイを持った人々ができるであろう。

近代タイの国王や為政者たちは、バラバラな価値観を持つ人々をチャート・タイを持つ集団を作り上げるために努力を尽くしてきました。

 

タイの危機

タイは立憲革命が1932年に起き、国王親政が廃止されて以降も、国王が政治に深く関与をしてきました。基本的には民間が政治を動かし、軍部がそれに協力し、問題が生じれば国王が「大岡裁き」をする「タイ的民主主義」。これを確立させたのが前国王のラーマ九世(プーミポン国王)で、彼は飛びぬけた指導力とバランス感覚で、タイ政治の絶対的なバランサーとして機能してきました。

しかし常に「優秀な国王」が求められる体制は、プーミポン亡き後に危機にさらされています。国民のことを顧みない現国王ラーマ十世(ワチラロンコン国王)の体制下では、タイ政治はバランサーを欠いた非常に危うい状況にあります。現在のタイは民政といいつつ軍部が権力を掌握した状態にあるのですが、下手に民政化し国民が党派ごとに分裂すると、サヤーム世界以外の地域が分裂する可能性もあります

さらには、「カネとコネ」に価値観がおかれること、「コーラップチャン(汚職)」が幅を利かせるタイの社会は、かつてのサヤーム世界の「外来人国家」の構造を未だに引きずっている、と著者は指摘します。

タイはこの悪しきサヤーム世界の慣習を撲滅させ、過去志向の「チャート・タイ」以外に、三つの世界を結びつける新たな未来志向のチャート・タイを作り上げる必要がある、というのが著者の提言です。

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まとめ

 今回紹介した本「タイのかたち」ですが、東南アジアに関心がある人のみならず、現代政治や世界史関心者も広く楽しめる本になっていると思います。

個人的に、タイという国を知って学ぶほど、「タイの未来は本当にまずい」という思いを強くします。

経済ニュースでは「経済成長著しい」と枕詞をつけられますが、産業は基本的に外資・外国人頼り。人件費は上がっているものの、未だに労働集約型産業から抜け出せない。儲かっているのは一部の特権階級のみで、経済格差は世界一(2018-2019)*1少子高齢社会は目の前まで迫っている。

 社会正義を実現するには、王室を始めとする特権階級を解体する以外にないと思うのですが、王室が政治的に組み込まれており、国民の絶対的な信仰を集めている。にもかかわらず現国王は、典型的な暗君です。タイでは不敬罪があり、国王を批判したり侮辱したりすると逮捕されるので、国民は表立って国王批判できません。(現国王のクソっぷりは、『ワチラロンコン王』とかで検索するといっぱい出てきます)

どうしてこうなるまで放っておいたんだ!と言いたくなる状況ですが、タイ人はそれでも「マイペンライ(大丈夫さ)」と言って成り行きで進んでいきます。これがタイの良いところであり、悪いところでもあり。

 本題に戻りますと、「タイのかたち」は過去・現代・未来のタイという国を見つめる大変よい教材だと思います。

タイのかたち

タイのかたち

  • 作者:赤木 攻
  • 出版社/メーカー: めこん
  • 発売日: 2019/10/25
  • メディア: 単行本