劇場チケットの価格値上げで起こった市民暴動
旧価格暴動(Old Price Riots)は、リニューアルされたロンドンのコヴェント・ガーデン劇場の価格値上げに抗議する市民が劇場内につめかけて大騒ぎを演じた事件。
1809年9月18日から約三ヶ月間続いた抗議の結果、劇場のオーナーは妥協し価格据え置きを認めざるを得なくなりました。
パンやガソリン価格の値上げといった生活に密着した価格の値上げではないので、半ばお祭り感覚の暴動ではあったのですが、当時のロンドンの一般市民の感覚が分かる興味深い事件となっています。
1. コヴェント・ガーデン劇場再建
19世紀前半のイギリスでは、劇場は極めて人気が高い施設でした。
小さい町でも一つは劇場があって、コンサート、ダンス、サーカスの公演を楽しむことができました。現代のように様々な娯楽がない時代のこと。富裕層から貧乏人まで、幅広い層が足繁く通っていました。
演劇の開催を許可された劇場は数が少なく、ロンドンで演劇が見られるのはコヴェント・ガーデン劇場とドロリー・レーン劇場の二つしかありませんでした。ところが1808年9月にコヴェント・ガーデン劇場が火災で消失してしまいます。
数少ない演劇が見れる劇場の焼失にロンドン市民は動揺が広がり、劇場のオーナーで、当時有数の人気を誇る俳優でもあったジョン・ケンブルの下で、すぐにコヴェント・ガーデン劇場を再建するプロジェクトがスタートしました。
再建に必要な8万ポンドの資金は主に株の発行で集められました。プリンス・オブ・ウェールズ(次国王ジョージ四世)からも1,000ポンドの寄付があったこともあり、すぐさま資金が集まりました。1809年1月2日から著名な建築家ロバート・スマーク卿の監督の下で再建が始まりました。起工式で最初の石を敷いたのはプリンス・オブ・ウェールズです。
再建が進む中、1809年2月に今度はドロリー・レーン劇場が焼失。ロンドン市民は悲しみに打ちひしがれ、一刻も早いコヴェント・ガーデン劇場の再建が望まれました。そして起工式から9ヶ月後の1809年9月にようやく劇場が完成しました。
2. 狭い観客席、しかも値上げ
ところが出来上がった劇場は、一般の観客席が以前よりもはるかに狭くなっていました。収容人数が減った上に視界も悪くなっており、もっとも安いギャラリー席では「舞台の役者の足しか見えない」ほど。
その代わり増えたのが、富裕層が利用するためのプライベート・ボックス席。年間で契約するタイプのエクスクルーシブな席で、カーテンで仕切ることができるようになっていました。当時の舞台女優には、富裕層の夜の相手をしてお金を稼ぐ者もいたため、市民の間では金持ち連中が中でいかがわしい行為を行なうためだ、と噂がたちました。
もともとはギャラリー席だったスペースが金持ち用のプレイベート・ボックス席になったので、実質的に庶民が劇場から排除される形になりました。
しかも再建にかかった費用が予算をはるかにオーバーしたため、ケンブルは入場料の値上げを決定しました。ボックス席が6シリングから7シリング、一階席が3シリング6ペンスから4シリングにそれぞれ値上げとなったのです。様々な改悪に加え価格の値上げに怒った人々は、オープン初日に詰め掛けて抗議活動を繰り広げることになります。
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3. 「旧価格!旧価格!」
1809年9月18日のオープン当日、この日の演目はシェイクスピアの「マクベス」で、主演はオーナーのケンブル本人でした。
ところが集まった人々は劇が始まると「旧価格!旧価格!(Old Prices! Old Prices!)と叫んで、スローガンをかかげて抗議し、歌い踊り、騒ぎまくって公演を妨害。挙げ句の果てには退出を拒否しました。ケンブルは退去させるべく警察に出動を依頼しますが、人々は動かず、何人かの逮捕者を出した挙句、午前2時にようやく退出させることができました。
翌日も人々は再び劇場を埋め尽くし、ドラム、ホイッスル、フライパン、ベル、ガラガラを使ってやかましくシュプレヒコールをあげました。その中で「OPダンス」と呼ばれるダンスがいつの間にか誕生。「Old Prices! Old Prices!」と大声で唱えながら、一定のリズムのステップを踏み踊り狂う。
困ったケンブルは劇場を数日閉鎖し、15%の値上げが妥当かどうかを検証しました。この15%の値上げは結局株主の都合だったわけですが、庶民の抗議は不当であると考えたケンブルは再び劇場をオープン。するとまたもや人々は再び詰め掛けて抗議を続けました。この騒動は新聞によって全国に報道され、抗議者への同情の感情が広がりました。抗議者は自らを「OP」と名乗り、経営者を「NP」として区別しました。OPはNPの筆頭であるケンブルの家にまで詰め掛け、「Old Prices! Old Prices!」と叫び歌い踊りました。
4. 三ヶ月続いた暴動の結果
OPによる抗議は毎晩続きます。
OPは劇場に横断幕やポスターを貼りまくったり、公演中に家畜や鳩を放ったり、とにかくデカくて目立つ帽子を被って来場したりして迷惑行為を続けました。
果ては「新価格の遺骸」と掘られた棺桶を持ち込んだり、ボックス席で戦闘のコスチュームを着て模擬戦闘をして観客の視線を奪うなどやりたい放題。
ケンブルは舞台を台無しにする抗議者を排除しようと必死になり、元ボクシングチャンピオンのダニエル・メンドーサを含むプロのボクサーを警備員として雇いさえしました。しかしこのような強固な対応はさらに騒乱を引き起こします。一般の人々はこのような抗議活動にうんざりして劇場に通うのをやめてしまい、収益が激減してしまいました。
騒々しい抗議活動は三ヶ月続き、ケンブルはついに根負けして公に謝罪。入場料の以前の価格に戻すことを発表しました。この発表後は抗議活動はパッタリとなくなり、暴動は終結しました。なお、旧価格でも利益は十分に出て、劇場の運用コストが40,000ポンドのところ、80,000ポンドの収益がでていたそうです。
この暴動は庶民の金持ちに対する抗議や嫌がらせ、うっぷんをはらす側面がありましたが、抗議には排外主義・愛国主義・反ユダヤ主義のレトリックが使われました。
庶民はイギリスの演劇が他の国よりも優れているという感覚があり、それが暴動中にイタリア人俳優のカタラーニの批判となりました。庶民は外国製の演劇やシナリオが自分たちの劇場に入ってくることを嫌い、伝統的なイギリスの演劇を守ることが劇場の責任であると信じていました。劇場や演出家らが人々を楽しませようと外国製の俳優やシナリオを取り込むことは庶民にとっては裏切り行為とされ、上流階級や劇場側の外国製に対する態度への反感もこの暴動の文脈としてありました。
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まとめ
19世紀前半のイギリスといえば、いわゆる「産業革命」によって急速な社会構造・産業構造の変化が起き、農村から都会への人々の流入が進行していた時代です。
OP暴動に参加した下層階級の人々には、農村のパトロン・クライアント関係に慣れ親しんでいた人ではないだろうかと思います。 パトロン(親分)は地域社会や個々のクライアント(子分)の利益のために努力せねばならず、もし利益が阻害されるようなことがあればクライアントは実力でパトロンの排除をすることもある。
19世紀半ばからイギリスでは、国際金融資本を中心とした大資本家が国家権力と結びつき、自分たちの利益のために国民を戦場に送り込んでいくイギリス帝国主義の時代に入っていくのですが、そのような時代に入る前のイギリス庶民の雰囲気が分かる興味深い事件です。
参考サイト
"On This Day: The Old Price Riots, 18th September 1809" TURBULENT LONDON
"THAT TIME THE BRITISH RIOTED FOR THREE MONTHS OVER THE COST OF THEATER TICKETS" TODAY I FIND OUT
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