歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

伝統料理を近代化させた世界の有名シェフ10人

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ローカル料理を近代的な料理に発展させたシェフ 

今や日本では世界中の料理を食べることができるし、世界中の都市で日本の料理を食べることができます。そして現在進行形で料理のフュージョンが発生しており、料理の発展が凄まじい進歩で進んでいます。

そこは情報社会とグローバル化の恩恵ではあるのですが、次に起きるのはおそらくローカル料理の消失で、きっと世界の料理の均質化が起きていくんだろうと思います。

それはもう必然であると思うのですが、一方でオリジナリティに価値が生じてくるに違いなく、いかに伝統とその正当性を維持し続けるかが重要な気がします。

 そこで一つ記憶しておくべきは、料理の発展に重要な役割を果たした人物とその背景であります。ということで、各国料理の発展の歴史中で重要な人物をピックアップしてみます。

 

1. ポーランド料理:パウロ・トレモ 1733-1810

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胃弱のポーランド王が愛した最先端ポーランド料理

 パウロ・トレモは1762年に有力貴族のスタニスワフ・ポニャトフスキに仕えました。ポニャトフスキは幼い頃から胃弱体質で、食べることが難しかったのですが、トレモは胃弱でも美味しく食べられる料理を提供して信頼を得ました。

1764年、ポニャトフスキは元愛人でロシア皇帝のエカチェリーナ2世の推挙でポーランド国王に就任。トレモもポーランド王室の料理人となりました。

トレモは胃弱な王の体調を考え特別なメニューを考案しました。知見を集めるためにフランス、イタリアなどの料理先進国の料理は勿論、古代ローマのレシピを研究したし、ヨーロッパ各地を旅行し最新の料理トレンドを収集しました。

当時はトマトは健康に有害であると考えられ、トレモのレシピでは決して使用されなかったそうですが。

トレモは伝統的なポーランド料理を基礎にし、最新のフランス料理の技術を導入し、オイル、砂糖、酢、塩、スパイスを控えめにしてより上品にしました。ワルシャワでは、トレモはヨーロッパで最高のシェフの一人であるという評判を得、彼の造り上げた新しいポーランド料理は上流階級の新しいポーランド料理の基準になったのでした。

 

2. イタリア料理:ペッレグリーノ・アルトゥージ 1820-1911

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  1冊の本でイタリア料理を近代化させた男

ペッレグリーノ・アルトゥージはシェフではなく、リヴォルノとフィレンツェで銀行業で財を成した資産家。

彼の趣味は食べ歩きで、一流レストランから庶民街のバル、果ては屋台や庶民の家まで訪問してはイタリア各地の伝統料理を食べ歩いていました。

そうして長年に渡る食べ歩きの知見をまとめた本が1891年にフィレンツェで出版された「料理の科学と美味しく食べる技法」。

この本は爆発的にヒットし、イタリアの各家庭にあるとすら言われるほどの国民的料理本になりました。

この本が普及する前は、「トマトソースのパスタ」や「ジャガイモのニョッキ」などはごく限られた地域で食べられる料理でしたが、アルトゥージの本によってイタリア料理の定番となりました

また、彼が生きた19世紀後半はイタリア半島には数多くの方言があり、食材の名前も地域によってバラバラでしたが、アルトゥージの本によって食材の「標準イタリア語化」が進み、近代イタリア料理発展の基礎になっていったのでした。

 

3. プラナカン料理:李進坤夫人 1903-1986

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プラナカン料理を後世に残した偉大なシンガポールの母

李進坤(リー・チン・クン)夫人は、蔡認娘(チュア・ジム・ネオ)とも呼ばれ1907年にオランダ領ボルネオにあるプラナカン(中国人とマレー人の混血)の富豪の家に生まれました。 15歳でお見合いで商店店主・李進坤と結婚。4人の娘と1人の息子を儲けました。その1人の息子が、後の初代シンガポール首相・リー・クアンユーです。

夫人は家のことをよく取り仕切り、リー・クアンユーは後に、母親がもしいなかったら家は成功しなかっただろうと語りました。夫人は伝統的なプラナカンの料理が上手で、マレーの上流階級やヨーロッパの奥様方に料理を教えており、夫人は将来の世代が複雑で難しいプラナカン料理を学べるように、67歳のときに初の料理本「Mrs. Lee's Cookbook(李夫人の料理本)」を出版しました。

この本は重版を重ね、シンガポールのプラナカン料理の中で最も権威あるものの1つとされています。

この本は夫人の孫のシェイメン氏によって改訂され、2003年に「New Mrs.Lee's Cookbook」としてリバイバルされました。

 

4. スウェーデン料理:トーリ・レットマン 1916-2003

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スウェーデン料理の発展と男性の料理促進を図った有名シェフ

トーリ・レットマンは1916年ストックホルム生まれ。

家が貧しく16歳でレストランで修行を始め、17歳でパリに渡りフランス料理を学びめきめき頭角を現し、21歳でレストランRainbowのシェフとなりました。

1943年、大戦が続くヨーロッパから中立国スウェーデンに帰国したレットマンは、潰れかけの老舗レストラン「Pelargången」を買収し大幅な改革を加えた上で、新レストラン「Theatre Grill」をオープン。またたくまにストックホルムの人気レストランとなります。同じく、流行らないレストラン「Wretman」を買収し「Operakällaren」という名で再スタートを切らせると、スウェーデンのセレブ行きつけの最高級レストランに生まれ変わったのでした。レットマンはフランス料理の技法や食材を取り入れ、スウェーデン料理を洗練させ、発展に貢献しました。

1950年からラジオ番組のパーソナリティを務め、生活における食事の大切さを説き、スウェーデンにおけるレストランの地位向上を図りました。同時に、男性が料理をすることの必要性を説き、専門家ではない一般の男性が料理をする機会を作ったのもレットマンに大きな貢献があります。

 

5. イギリス料理:ハンナ・グラス 1708-1770

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「カレーの作り方」を初めてイギリスに紹介した女性

ハンナ・グラスは19世紀に最も売れた料理本と言われる「The Art of Cookery made Plain and Easy(わかりやすく簡単な料理の技)」の作者。

この本は1747年に出版された後重版を重ね、1843年まで増刷されました。ハンナ自身はウェセックス州の貴族の家で家政婦をしていたこともあり、啓蒙知識人的な素養を身につけたようで、特に富裕層の家の家政婦のために書かれた本です。

この本が画期的だったのは、18世紀半ばにはまだまだ普及が遅れていたジャガイモやトマトのレシピを加えていること。また、イギリスに初めてカレーの作り方を紹介したことです。初版では三種類のカレーの作り方が掲載され、後の版には家禽またはウサギのカレーと、インド風ピクルスの作り方が掲載されました。

ハンナはその後経済的に困窮し、負債者刑務所に収監され、貧しさの中で62歳で死亡するのですが、19世紀に入りカレーがイギリス中流階級の普段の食事で食べられるようになると、ハンナの本を含め各種カレーのレシピ本が爆発的に読まれるようになりました。

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6. 北ドイツ料理:ヘルタ・ヘイ 1913-1999

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Photo from "BZ auf den Spuren von Herta Heuwer-5" B.Z

ベルリンっ子が愛してやまないカレー・ヴルストを発明した女性

ドイツといえばソーセージですが、特にベルリン出身者に言わせるとソーセージといえばカレー・ヴルストだそうです。

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その名の通り焼いたソーセージにカレーのフレーバーをつけたものですが、このオリジナルはベルリンというのが定説で、故にベルリンっ子がこよなく愛するファスト・フードです。日本でもフェスの店などでたまに見ます。

これを発明したのはヘルタ・ヘイという女性。西ベルリンのカイザー・フリードリッヒ通りにある小さなお店で、1949年9月4日に最初のカレー・ヴルストを販売しました。 こだわりはトマトとカレーパウダーをミックスしたスパイシーなソースで、瞬く間に西ベルリン中の評判になりました。
10年後、貯めた資金で彼女は西ベルリンのより広い場所に移転し大々的にカレー・ヴルストを販売。特許も取得し、彼女はビジネスマンとしても大成功を収めたのでした。

ベルリンっ子のカレー・ヴルスト好きは相当なもので、カレー・ヴルストの博物館すらあるそうです。

 

7. 南ドイツ料理:カタリーナ・プラトー 1818-1897

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オーストリアの主婦のための本を書いた女性

カタリーナ・プラトーは、1818年にオーストリアのグラーツで裕福な家庭に生まれました。家ではピアノを習い、フランス語も学んでいました。

1857年に病弱な夫と結婚し、夫の病気を直すために彼女は熱心に料理を勉強し様々な料理を食べさせました。しかし、彼女の献身的なサポートも虚しく夫は死亡。翌年、カタリーナは夫のために開発した様々なレシピを「Die-süddeutsche Küche(南ドイツ料理)」という本にまとめ出版しました。

1861年、彼女は夫の元友人ヨハン・フォン・シェイガーと再結婚。郵便局員であった夫が出張が多く、カタリーナは出張に同行しオーストリア各地のレストランや家庭を訪問。各地の料理レシピを収集しました。この時に収集したオーストリア各地のレシピを集めて再びレシピ集を出版。この本は専門家向けではなく、普通の主婦が家庭で作るためのものであったので、重版を重ねることになりました。

さらに1873年には、カタリーナはオーストリアの最初の包括的な主婦業ガイドブック「Die Haushaltungskunde」を出版しました。この本では、レシピのみならず、衣類、洗濯、託児サービス、医療、園芸、ペットなどの主婦業のあらゆる活動を網羅し適切なアドバイスを加えたもので、様々な家事に追われる主婦の大きなサポートになったのでした。

 

8. ブラジル料理:オフェーリア・ラモス・アヌンシアート 1924-1998

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 ブラジルのジュリア・チャイルド

オフェーリア・ラモス・アヌンシアートは1924年ブラジル・サンパウロの生まれ。

元々普通の料理人でしたが、口が達者でテレビ映えすることを見込まれ「オフェーリアの素敵なキッチン」というテレビ番組に出演し一躍有名人に。各種メディアから仕事が殺到し、新聞や官報で料理レシピを掲載したり、テレビサントスに出演します。

1958年にブラジル初の女性向けテレビ番組「Revista Feminina(女性のマガジン)」に出演し大きな話題となりました。そして彼女の名前を最も有名にしたのが、サンパウロのチャンネル13で放送された料理番組「オフェーリアのワンダフル・キッチン」。この番組は30年間も続き、オフェーリアは「ブラジルの主婦の顔」になったのでした。

テレビ出演のみならず、オフェーリアは料理本も多数出版。ブラジル料理、ポルトガル料理、イタリア料理など合計で14冊の料理本を出版し、「2,000のブラジルの味」という料理本の英語版はアメリカで賞も受賞しています。この本は1997年にフランクフルトで開催されたブックフェアで「史上最も読まれた料理本13冊」の1冊に選ばれています。

さらには、1,200ものレシピを掲載した「オフェーリアのワンダフル・キッチン完全本」というテレビ番組をスピンオフした本も出版され、1998年までに13回の重版を果たしています。

 

9. アイルランド料理:ショーン・キンセラ 1931-2013

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 アイルランド初のカリスマシェフ

アイルランドという国は12世紀にイングランドの支配下に入って以降、独自の君主を持たない国で宮廷で食べられるような洗練された料理が発達せず、鶏や豚に野菜を加えたスープや、小麦や雑穀のパンなど素朴な庶民の食べ物が食べられていました。

1931年にダブリンで生まれたショーン・キンセラは、アイルランドの伝統料理を世界の先端の料理技術で洗練させ、アイルランド料理を世界の料理に負けない料理に仕上げた人物です。

彼は14歳で学校を中退し、ダブリンのグレシャムホテルのキッチンで働き始め、後に有名レストランJammetsで働きました。そして1953年から1972年はP&Oクルーズ船の主任シェフとして働き、下船後にアイルランドに戻り、ダブリン湾沿いにあるミラボー・レストランを購入し、オーナー兼料理長として営業をスタート。ミラボー・レストランは「その日に採れた最高の食材を提供」するために値段を表示せず、客に調理前の食材を提示し承諾を得て調理するというやり方で料理を提供。富裕層に評判となりました。

特にキンセラがこだわったのはアイルランド伝統のシチュー。キンセラは「アイルランドのシチューは問題が多い」として、独自に編み出した技法で「世界で一番旨いアイルランドの魚介類」の旨味を余すことなく味わえると訴求しました。

ミラボー・レストランは1981年に「世界のレストランTOP50」に選出されるなど大成功を収め、キンセラ自身も富裕層の仲間入りをしてロールスロイスを乗り回すなど派手なライフスタイルを送っていたそうです。

その後ミラボー・レストランは閉鎖されキンセラは経済的に困窮するようになり、キャリアを回復できないまま2013年に死去しました。

 

10. フランス料理:フェラン・アドリア 1962-

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エスプーマを発明した世界最高峰のシェフ 

フェラン・アドリアはスペイン・バルセロナ出身のシェフで、2000年代後半の料理界で最も重要な人物の1人です。

1980年に食器洗いからキャリアをスタートさせ、その4年後に22歳でカタルーニャの有名レストラン「エル・ブジ」の総料理長まで登りつめるという異例のスピード出世を果たしました。まさに天才です。

彼が料理長に就任してから、伝統的なフランス料理を提供するエル・ブジは、世界の最先端を行く革新的なレストランの代名詞となります。分子ガストロノミーの概念を応用した科学的調理法の採用です。

アドリアは専用の器具に食材を入れ亜酸化窒素ガスで化学変化させてクリーム状にする技法「エスプーマ」を発明しました。

この技法によって、あらゆる食材をクリームやソースやムースにすることができ、料理の表現方法が大きく拡大しました。エル・ブジはクリエイティブを追求するレストランで、営業は1年のうち半分で、残りの半分はスタッフは世界中を巡って新たな料理のインスピレーションを得たり、新しい料理の開発を試したりする期間とされています。

2006年にはエル・ブジは「世界のベスト・レストラン50」でNo.1を獲得。ここから4年連続の1位をキープしました。

分子ガストロノミーは「自然な調理法に反する」として批判もあるようですが、間違いなく料理の表現の幅を広げたという意味で歴史に名が残るシェフです。

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まとめ

こうして見てみると、各国のローカル料理にとどまらず、国の枠を超えて世界的レベルで影響を与えた人が多いですよね。

料理は簡単に国や民族の枠を超えて交わり、人々にインスピレーションを与えて新たな料理や技法に発展していきます。こうしている間にも世界中で新たな料理がどんどん生まれていっています。

そして、いかに料理の世界ではフランスの存在が大きいか分かりますね。

最新のトレンドや食材、技法は常にフランスから発せられていて、フランス帰りのシェフが母国に帰って自分の国の料理とミックスさせて洗練させてきた様子がうかがい知れます。そういう点で、フランス人こそが世界の料理を発展させるきっかけを作ったことになり、フランス人が「フランス料理こそ世界一」と主張するのも頷けます。

この大元を作ったフランス料理の父・アントナン・カレームについて書いた以前の記事もご覧ください。

reki.hatenablog.com

 

 

参考文献

"Food in Early Modern Europe" Ken Albala

 

参考サイト

‘Colonel Arthur Robert Kenney-Herbert’ TANGERIN&CINNAMON

"Paul Tremo – Court Chef to King of Poland" foodamo

"Menüs und Rezepte nach Katharina Prato" In the footsteps of Jane Austen

 "The Magic of Irish Cookery" The New York Times

"CAESAR SALAD WAS NAMED AFTER CAESAR CARDINI, NOT A ROMAN EMPEROR" Today I Found Out

"The Honoured Inductees to the SINGAPORE WOMEN’S HALL OF FAME" SINGAPORE'S WOMANS HALL OF FAME

Ofélia Anunciato – Wikipédia, a enciclopédia livre

"The Biography of Chef Ferran Adria" the SPURUCE