歴ログ -世界史専門ブログ-

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【事件】無人島で男女が集団サバイバル生活をした結果

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無人島に流れついた男女…

あなたの乗っていた航空機が無人島に墜落。乗客の半分は死亡しますが、あなたは偶然助かったとします。

どういうわけか救助は来なく、しばらくの間生き残った人同士で無人島で生活しなくてはいけない

さあ、どうする。 

日々の暮らしに必要な道具が一式ないのはもちろん、社会統制のためのルールや法律もない。

もちろん、生き残った人たちと協力して生きていかねばならないけど、

ここには集団を縛る行動規範がないから、食料や縄張り、異性を巡った争いが起きてしまう。

人類が未踏の地にたどり着くたびに、このような困難は繰り返されてきたはずです。

今回は、実際に無人島に複数男女がたどり着き、その後どのようになったのかを2例紹介します。

 

 英領ピトケアン島

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ピトケアン島は、南東太平洋にある絶海の孤島。 

 現在もイギリスの委任統治領で、人口わずか50人。

最寄りの有人島まで400キロ、政庁があるニュージーランドまで5300キロも離れています。

人が住んでいる事自体が奇跡のような島には、18世紀末に起こった船舶乗っ取り事件「バウンディ号事件」の首謀者の子孫が住んでいます。

 

バウンディ号事件

18世紀後半、西インド諸島を開拓中のイギリスは食料供給を北アメリカ植民地に頼っていましたが、

アメリカ独立戦争のおかげで食料供給が途絶えてしまいました。

そこで、南太平洋に自生する「パンの木」を西インド諸島に移植することを計画。

英海軍所属のバウンディ号に、パンの木の輸送を命令します。

バウンディ号はタヒチでパンの木を積み込み西インド諸島に向かっていましたが、なんと途中で水兵達が反乱を起こし、ブライ船長と船長に味方した搭乗員を小型ボートで追放してしまいます。

反乱の原因は、水兵がタヒチで女に溺れて西インド諸島に行きたくなかったからとか、パンの木を枯らさないように、水兵の飲み水が制限されたから、と言われています。

 

反乱水兵の一部、ピトケアン島に逃亡

反乱水兵はタヒチに戻りますが、当然ながら反乱は重罪。

9人の水兵は安全な場所に逃亡すべく、タヒチの女12人と男6人をバウンディ号に乗せて出港。

翌年、ピトケアン島にたどり着きます。

 

女を巡る男同士の殺し合い

ピトケアン島で男15人と女12人はサバイバル生活に入ります。

しかしすぐに、お気に入りのタヒチ女を巡って水兵9人が争うようになり、トラブルはエスカレートして殺し合いに発展。

そんな中、「奴隷要員」として連れてこられたタヒチ男が女に手を出したことで、水兵とタヒチ男の争いに。

タヒチ男が水兵を殺害したことで、報復として水兵がタヒチ男全員を殺害

その後、さらに水兵同士が殺し合う凄惨な事態に。

 

18年後にアメリカの捕鯨船がピトケアン島を訪れた時、島にいたのは、

タヒチ女10人と、子ども23人。そして水兵のジョン・アダムス1人でした。

 

「再」発見後

1814年、イギリスの船舶が島を訪れたことがきっかけで物資が届くになり、島の人口も増加。水不足や土地不足が深刻になってきたため、イギリスは島の人間を全員タヒチに移住させます。

ところが、タヒチの病気に対する免疫がなかったため、ピトケアン生まれの人はバタバタと死亡。そこで、ピトケアン島に再移住します。

 ところがまた手狭になってきたので、今度はオーストラリアに近いノーフォーク島に全員で移住することに。

一部の人はピトケアン島への哀愁を捨てきれず、6組の家族が再々移住をして今に至ります。

 

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北マリアナ諸島 アナタハン島

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アナタハン島は、太平洋・北マリアナ諸島に位置する火山島。

2010年まで人が住んでいましたが、近年火山活動が活発なため、居住者は島の外に避難し、現在は人が住んでいません。

戦前、アナタハン島は日本の南洋庁の支配下にあり、日本人入植者が原住民を使って農業を営んでいました。

1944年、ここに31名の日本陸軍の軍人が漂着し、名高い「アナタハンの女王事件」が起こります。

 

"女王" 比嘉和子

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比嘉和子は、南洋興発に勤める夫の正一と上司の中里(仮名)と共に、アナタハン島で農業を経営していました。

大戦中、パガン島まで妹の様子を見に行った夫はそのまま消息を断つ。

加えてアナタハン島にも米軍の空襲がやってくるようになったため、和子は中里とともにジャングルに逃げて、共に生活を始めるようになります。 

 

日本人男31人が漂着

1944年、日本の軍人・軍属の男31人が乗ったカツオ漁船4隻がアメリカ軍の攻撃を受けて沈没。生き残った者達は泳いだり、かろうじて沈没を免れた1隻に乗ってアナタハン島に漂着。

すぐに和子と中里と出会い、33人は共同生活を始めます。

 

1945年8月15日の終戦後、米軍によって「終戦」を知らせるビラが撒かれます。

日本人はこれを信じませんでしたが、原住民はこれを信じて次々と島を逃げ出します。

島に残されたのは、男32人と女1人。

島1人の女を巡る男同士の争いが始まります。

 

拳銃が権力の象徴に

男たちはたまたま、島に墜落したB-29の残骸を見つけ、そこに2丁の拳銃と70発の銃弾があることを発見します。

壊れていましたが、拳銃に詳しい男が修理して使える状態にし、仲のよい男に拳銃を譲り、もう1つは自分で所有。

武力を持つ2人が出現したことで、島の秩序は変化します。

すぐに2人は銃で脅し、和子を抱くようになります。

和子は中里と一緒に暮らしていましたが、おかまいなしに2人は押し入って4人で暮らすようになります。

 

次々と起こる、殺人、失踪

銃を持った2人の周辺で、立て続けに不審死が2件発生。どちらも和子に言い寄っていた男でした。

さらには2人同士のいざこざで1人がもう1人を射殺。殺した1人も後に崖から落とされて死亡。

次に銃を持ったのは中里と岩井(仮名)。この2人で和子と共同生活を始めますが、すぐに岩井が中里を射殺。岩井が2丁の銃を持ち絶対的な権力を振るいますが、2年後に岩井も刺殺されます。

その後も、銃を持った者の周辺で、殺人、事故死、不審死が相次ぎ、10名が死亡

 

和子、脱出する

生き残った16名は会議を開き、これ以上死者を出さないためにも「銃を海に捨てる」ことに決定。

銃は皆の見守る中で海に捨てられましたが、その後も和子を巡って争いは絶えず、4人が死亡。

ここにおいて、12人は再度会議を招集。そして決まったことが争いの元凶である「和子を殺す」こと。翌日処刑を実施することで会議は終わります。

 

その晩、1人の男がこっそり和子にささやきます。

「逃げろ、殺されるぞ」

和子はジャングルに逃げ、その後約1ヶ月もの間1人でのサバイバル生活に耐えます。

ある時島を通りかかった米軍の船舶に助けを求めて救助され、その後日本に帰国。

1950年のことでした。

 

 

事件を題材にした映画化

米軍は残った男たちの説得を試みるも、彼らは罠だと信じ出てきません。

そこで、男たちの家族らに帰国を求める手紙を書かせ、ようやく1年後に日本に帰国しました。

 

この事件は当時の日本で「アナタハンブーム」という社会現象を巻き起こし、

1953年には、なんと和子本人の出演で事件を再現した猟奇映画が公開(アナタハン島の眞相はこれだ!!)。

最近だと、2010年に事件をモチーフにした映画「東京島」が公開されています。 

 

まとめ

社会統治機構が存在しないアナーキーな社会だと、

集団の秩序を保つことと、自己の生存を図ることは、どうやら後者の方が勝ってしまうようです。

もし食べ物がない場所だったら、最初の争いの種は食べ物ということになるんでしょうが、ピトケアン島もアナタハン島もそれはちゃんとありました。

代わりに、女という「資源」を巡った争いが起こってしまいました。

社会統治機構が整備されると、基本的に必要な資源が極端に欠乏することはなくなるはずなのですが、

日本という成熟した社会でさえ、殺人事件の多くは女絡みだということを考えると、ヒトが太古の昔から未来に至るまで絶対克服できない争いの種の一つなんでしょうね。