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ハワイの歴史 - ハワイ統一からアメリカ併合まで

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Photo by Lux Tonnerre

独立ハワイ王国はどのようにしてアメリカに併合されていったか

観光でハワイのオアフ島を訪れた方は、 ホノルル中心部にあるカメハメハ大王像を訪れたことがあると思います。

皆なんとなく、カメハメハ大王という偉大な王が出てハワイを統一したけど、なんだかんだ色々あってアメリカに統合された、くらいのざっくりした歴史しか知らないと思います。

今回はハワイがアメリカに併合されて一州になっていく過程をまとめていきます。ハワイ旅行に行くときの予習にどうぞご覧ください。

 

1. ジェームズ・クックによるハワイ発見

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ポリネシア人がハワイに移住したのは8〜9世紀ごろと考えられています。移住元はマルサケス諸島やタヒチで、ハワイの文化はこれらの文化と共通のものがあります。

その代表的なものが、「まれびと信仰」の一種と言える「マカヒキ」です。

マカヒキとは1月に祝われる祭りで、ロノ神が1年に1回海の向こうからやってきて、作物の成長や富、豊穣をもたらしてくれるというもの。1月が過ぎてからハワイは実りの月へと移行します。ロノ神は海の向こうの死者の国カヒキにいて、亡くなった先祖はそこで幸せに暮らしていると考えられていました。マカヒキが行われている期間は、便宜的に王は支配者の地位をロノ神に譲り、ロノ神がハワイを去る時に再び王が「復権」をしていました。

 

ハワイ諸島を初めて訪れた西洋人は、イギリス人のジェームズ・クック。カウアイ島に到達したのは1778年1月。マカヒキが催されている真っ最中でした。

クックはハワイ人たちにロノ神の来航と大変歓迎されました。そしてマカヒキが終わるタイミングで島を後にしたのですが、運悪く嵐に出くわし、島に戻ってきてしまいました。

祭りが終わったのにロノ神が再び舞い戻ってきたことに、ハワイ人は困惑しました。特に当惑したのが王族たち。祭りが終われば自分たちが支配者として再び復権しなくてはならない。険悪な両者の雰囲気は軍事衝突に発展し、クックはハワイ人の戦士によって殺されました。

クックがハワイ原住民に殺害された経緯は、こちらの記事をご覧ください。

reki.hatenablog.com

クック到来後、北米北西海岸のアザラシ猟が始まり、アメリカとアザラシの輸出先である中国との貿易が開始され、西欧人が島に定期的に訪れるようになりました。

西洋人は武器や酒を持ち込んで争いの種をもたらし、さらに性病ももちこんでハワイ人の人口は減少して行くことになります。

 

2. カメハメハ大王によるハワイ統一

クックが到達した頃のハワイは首長制社会で、ハワイ諸島全域を統合する王権は存在せず、島ごとに首長がありました。土地は基本的には首長のもので、その土地に平民は住んで農作物を作って、首長に税として作物を貢納していました。

当時は、東のハワイ島、ラナイ島、カホーラウェ島、マウイ島の東半分に影響力を持つカラニオプウ王、中部オアフ島とモロカイ島に影響力を持つペレイオホラニ王、西のカウアイ島とニイハウ島に影響力を持つカネオネオ王と3つの有力な王が率いる王国がありました。

カラニオプウ王の甥であるカメハメハは、西欧人と親しく交流して彼らから銃器・大砲を導入し、西欧式の帆船を作ったり、洋式海軍を編成したりし、実力を高めていきました。カラニオプウ王が亡くなると、息子のキワラオと甥のカメハメハによる王位争奪戦が繰り広げられ、キワラオやキワラオの弟、叔父のケアウェマウヒリとの戦いに勝ったカメハメハがハワイ島の覇権を手にします。その後カメハメハは他の島々への遠征を続け、1795年にライバルのカラニクプレをオアフ島のヌウアヌ・パリの断崖に追い詰めて勝利。1810年までに残るカウアイ島とニイハウ島も彼の軍門に下り、ハワイ島統一王朝であるカメハメハ王朝が開かれました。

カメハメハ王朝では、各島に知事がおかれ、その知事を介して国王が支配する形態をとりました。また、島に出入りする船舶に入港税をとったり、中国で高く売れる白檀の交易を王室が独占したり、これまでにはなかった経済重視の政策をとりました。一方で、宗教は伝統的な「カプー制度」による社会制度を維持しました。

 

カプー制度とは

カプー制度とは他のポリネシア地域では「タプー」と呼ばれるもので、「タブー」の語源となった言葉です。

カプーの考えでは、万物はすべて聖性を持っているが、物によってそのレベルは大きくことなり、異なるレベルの物同士が接触することは危険であると考えられました。王は最大の聖性を持っているため、庶民はもちろん、首長も接触することはできず、様々な儀式を介して聖性の安定を保った上で接触することができました。

庶民の間にもカプーはあり、例えば男女が食卓を共にすることは禁じられ、女性がバナナ、ココナツ、豚肉を食べることは禁止され、男性は犬肉を食べることを禁止されていました。このような宗教的な禁止事項に基づいて社会の規範が成り立ち秩序が維持されていました

 

3. キリスト教の布教

ところが、西欧人との接触によりカプー制度はほころび始めます。

カメハメハ大王の葬儀の一部の催しで、妻カアフマヌによりカプー破りの儀礼が行われ、別の妻であり聖性の高いケオプラニが女性に禁じられていたものを食べ、王族自らがカプーを破壊する行動をとったのでした。これは偉大な王の死後、その妻たちが権力を維持しようと、女性を政治の舞台から排除するカプーを取り除こうとした結果でした。これがきっかけでカプーを公然と無視する勢力が力をつけていき、ハワイの伝統的な秩序は乱れ、宗教的にはハワイは空白地帯となってしまいます。

 

▽カアフマヌ

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そこにやってきたのがキリスト教の宣教師でした。1820年、ニューイングランドからカルヴァン派の宣教団が家族づれでやってきて、夫は医療に、妻は針仕事で首長層に食い込んでいきました。

宣教師たちはハワイの人々の生活の「改善」に乗り出していきます。裸体に近い服装、一夫多妻制、自由で放漫な性交渉、歌やダンスに取り入れられた性表現などなど。

厳しい戒律を旨とするカルヴァン派宣教師たちからすると、ハワイ人の性の自由さは目を覆いたくなるほどでした。女性はお針子仕事で全身を覆い隠すワンピースを導入しました。これは現在でもハワイの女性の正装とされるムームーというワンピースとなっています。宣教師は学校を設立して、読み書きを教える傍ら、一夫一妻や売春・姦淫、盗みや殺人の禁止を教え、これを聞いた首長たちがまずはキリスト教に改宗し、彼らが邪神崇拝の禁止と改宗を訴えたため、一般人の間にも急速にキリスト教広まっていきました。

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4. 憲法制定と土地改革

1823年、イギリスを親善訪問していたカメハメハ二世と王妃がロンドンで麻疹にかかって客死してしまいます。その報を受けて、弟でわずか9歳のカウイケアオウリがカメハメハ三世として即位しました。摂政として実権を握ったのはカアフヌマで、1832年の没後には王の義姉のキナウが摂政となりました。

 

▽カメハメハ三世(カウイケアオウリ)

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▽キナウ

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カメハメハ三世は多くの西欧人を王国の摂政として迎え、政治組織・経済・法律・教育・社会制度の近代化に乗り出しました。1830年代にハワイの各地に学校が作られ、1839年には民法が施行され、1840年には憲法が制定されました。

これにより、選挙による代議員制度が確立し、ハワイ王国は立憲君主制に移行しました。敬虔なクリスチャンであったカメハメハ三世は、首長の圧政に苦しむ庶民の生活の向上を望み、選挙制度の導入により首長の権限の制限を図ろうとしたのです。さらにカメハメハ三世は、さらに庶民の生活の改善のために「土地改革」に乗り出しました。

 

土地分配の開始

伝統的にハワイでは土地はすべて王のものであり、それを配下の首長に分配(マヘレ)するという形式になっていました。庶民が畑を耕し得られた農作物は、首長を経由して王に貢納されていました。もちろん外国人の土地所有は認められません。

カメハメハ三世は、庶民が土地を所有することで生活を改善させることと、王国の安定的な経済成長を目指すための西欧人の農業プランテーションの経営の両方を目指しました。

まず、王の土地と245人もいる首長の土地に分けられ、王の土地をさらに王家の土地と国有地に分けられました。そして実際の使用に基づき、庶民も土地の分配を受けることが可能になりました。しかし手続きは煩雑で、込み入ったことがよくわからない庶民には難しく、権利を行使する者はごくわずかでした。

プランテーション経営のための土地の分配を受けた西欧人は、首長や庶民から土地の購入を通じて所有地を広げていき、ハワイ人をはるかにしのぐ大きさの土地を所有していくことになります。

 

5. 移民の流入

王国の初期の頃の主力産業である白檀や鯨油は、乱獲によりすぐに衰え、西欧人が運営するプランテーション農場が重要になっていきました。 

西欧人は分配(マヘレ)により土地を所有できるようになったため、プランテーション経営ははずみがつきましたが、一方で「労働者」が不足していました。

クックの到達移行、ハワイでは性病やアルコール中毒が蔓延し人口が激減。クックの時には20万人程度いた人口が、1853年には7万人程度となっていました。さらにその中で西欧人の要求に従い勤勉に働く労働者はごくわずか。そこでハワイには大規模な移民労働者が導入されることになります。

1852年から中国人が導入され、1878年からはポルトガル人、1885年からは日本人の導入が始まりました。1906年以降はフィリピン人、朝鮮人、プエルトリコ人、スペイン人、北欧人、ロシア人などが移民しました。

 

6. アメリカ併合への道

 名君カメハメハ三世が1854年に41歳の若さで亡くなると、短命な国王が続き政治的な混乱が発生することになります。

カメハメハ三世は子どもがいなかったため、異母姉キナウの息子アレクサンダー・リホリホを養子としていました。リホリホがカメハメハ四世として即位しますが30歳で死亡。次王はリホリホの兄ロット・カメハメハがカメハメハ五世として即位しますが、10年もたたずに死亡。彼は独身であったので子もおらず、カメハメハ大王直系の子孫は途絶えてしまいました。

王位は議会の投票で決められ、カメハメハ大王の異母兄弟の子孫であるウィリアム・ルナリロが王となりますが、アル中になって在位1年あまりで死亡。その後、カメハメハ四世の未亡人のエマと、カメハメハ大王の助言者だった首長の子孫であるカラカウアの間で王位選挙が行われ、カラカウアが勝利しました。

エマは祖父がイギリス人でイギリスで学んだこともある親英派で、当時勢力を強めていたアメリカのプランテーション経営者は彼女の反米的な言動に警戒し、比較的親米的なカラカウアを支援しました。

勢力を強めるアメリカに対し、親英派や反米的な西欧系住民は抵抗を強めますが、カラカウアの下で1876年に「米布互恵条約」が締結され、ほとんどすべての生産物を非関税でアメリカに輸出できるようになり、ますますアメリカへの経済依存が強まっていきました。

しかしカラカウア王は親米というわけではなく、人口減少が続くハワイ人の将来を案じ、ハワイ文化を保護したり、ポリネシアの島々と連帯し「太平洋諸島連合」の構想を掲げたり、「ハワイ人のためのハワイ」の政策を進めました。

カラカウア王は世界の国々を行脚して活発に外交を繰り広げ、王として初めて世界一周をしました。東京にも訪れたことがあり、新興国日本との連携を模索し、姪のカイウラニ王女と天皇家との間の縁組を行うことすら提案しました。結局これは叶うことはありませんでした。

 

▽カラカウア王

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しかし王の活発な活動により財政は悪化し、アメリカ系住民はカラカウア王への反発を強めていきます。改革を目指すアメリカ系は「改革党」を結成して表で活動し、地下では秘密結社ハワイアン・リーグやその下の義勇軍ホノルル・ライフルズが武力を用いた「改革」に暗躍しました。1887年には、ホノルル・ライフルズはカラカウア王に王の権限の制限と、アメリカ系住民の保護を盛り込んだ新憲法を無理やり承認させるに至りました。

1891年、カラカウア王はサンフランシスコの病院で客死。妹のリリウオカラニが王位に就きます。

リリウオカラニ女王は王党派の勢力を背景とし、白人を排除する政権作りを行おうとしますが、アメリカ系住民や親米派の抵抗にあいます。それでも女王は、王の権限の強化を盛り込んだ新憲法の発行を目指しますが、アメリカ系住民は実力で王を排除することを決意。1893年1月にハワイ生まれの実業家サンフォード・ドールを首班とする臨時政府を樹立しました。

 

▽サンフォード・ドール

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アメリカ公使スティーブンスは、王党派による反撃からアメリカ市民の安全を守るという名目でアメリカ軍を出兵してこの動きに同調し、臨時政府樹立後に直ちに承認しました。

この荒っぽいやり方にアメリカ国内でも批判が多く、リリウオカラニ女王もワシントンで不正義を訴え、孤立主義を唱える人にとってこれはアメリカの「自由」を阻害する暴挙でした。

併合推進派は戦略を変え、1894年に臨時政府を切り替えてハワイ共和国を樹立して王党派を排除しました。危機感を強めた王党派は1895年にクーデターを起こしますが失敗。結局リリウオカラニ女王は廃位に応じざるを得なくなり、とうとうハワイ併合は1898年にアメリカ議会で可決されました。

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まとめ

ざっと駆け足ですが、ハワイがアメリカに併合されていった経緯がつかめると思います。

「統一ハワイ王国」は西欧の武器なしには達成できず、政治や経済、法など各面で西欧人の助言なしに国は運営できませんでした。すぐにハワイが列強の植民地にならなかったのは、これらの西欧人の中にハワイを心から愛し、ハワイの独立維持のために心血を注いだ人物が数多くいたという事情もあります。

しかし、農業以外に産業がなく、人口も減り続け、列強から物理的に遠く離れた島国で「ハワイ人のためのハワイ王国」を維持し続けるのは、やはり困難であったと言わざるを得ません。

 

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参考文献

 「オセアニア史」 山本真鳥 山川出版  2000年8月20日初版

オセアニア史 (新版 世界各国史)

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