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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

【後編】イザベラ・バード「朝鮮紀行」まとめ

朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫)

激動の時代に入る「隠者の国」の模様

前編に引き続き、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」より、興味深い李氏朝鮮末期の社会や人々の様子を引用いたします。

前編では、町の様子や農村の人の様子、王族たちの様子などを中心にまとめました。優柔不断な国王、両班や官吏による無慈悲な取り立てなどにより、国と社会の成長がいかに阻害されているかが描かれています。

この朝鮮政府を近代化させるべく、日本が強引に武力でもって改革を実行させようとします。バード滞在中の1893年〜1897年はまさに激動の時代。旧体制の安眠の時代から、無理やり叩き起こされ弱肉強食の混沌の時代に投げ込まれ、動揺と混乱の中で右往左往する朝鮮の国を、バードは克明に描いています。

今回は東学党の乱から始まる朝鮮の動乱を中心に、社会の変容をまとめていきます。

前編はこちらからどうぞ。

reki.hatenablog.com

 

 

 1. 甲午農民戦争の勃発

朝鮮南部で発生した東学党の蜂起は、当初は首都ソウルに住む人々や駐留外国人にとってはあまりピンとこないものだったようですが、意外な反乱軍の活躍や、日本軍や清国軍の派遣といったニュースが次々に入ってくるにつれて、王宮も市民も浮き足立っていきます。特に日本軍がとても「自国民保護」に止まらない行動を取り出すと、清国人は特に混乱状態に陥り逃げ出してしまったそうです。

なんと好都合な干渉の口実を東学党は日本にあたえてしまったことか…(中略)朝鮮にとって国の存亡に関わり、外交的に最重要な意味合いを持つ疑問は「日本の目的はなにか。これは侵略ではないのか。日本は敵として来たのか、味方として来たのか」であった。(中略)極東政治情勢の学徒ならだれしも、この日本軍の巧妙かつ常軌を逸した動きが済物浦やソウルの日本人街を守るためにとられたものではないこと、といって朝鮮に対してとられたものではないことがわかっていたはずである。(中略)日本が何年も前からこのような動きを計画していたことは疑問の余地がない。朝鮮の正確な地図を作り、飼料や食料についての報告書を作成し、河川の幅や浅瀬の深さを測り、三ヶ月分ものコメを朝鮮で備蓄していたのだから。

(中略)

どう見ても日本は朝鮮において完璧に清国の裏をかき、清国人のあいだにはパニックが広がった。日本軍がソウルにあらわれるや、清国弁理公使館、清国領事館関係家族の女性30人が帰国の途につき、わたしが済物浦に到着した日には、800人の清国人がこの港を発った。

(中略)その日わたしが泊まっていた清国人経営の旅館は興奮のるつぼで(小略)ふだんは静かで控えめな従業員たちが不安に顔をゆがめてわたしの部屋におしかけ、どんなニュースを仕入れたか、いったい何が起きているか、清国軍は今夜こちらに着かないか、イギリス艦隊は助けに来てくれないのか等々と聞いた。(小略)そのあいだにも、厳格に統制された折り目正しい矮人(こびと)の大隊は着実にソウルへと進軍しつつあった。

 情勢が緊迫する中、バードは副領事の忠告を受け、満州に退避することになります。

 

 

2. 日清戦争勃発

バードが叙述している日清戦争勃発に至る経緯は、我々が世界史で学ぶ内容と一致します。すなはち、朝鮮軍は東学党の軍に敗退を重ね、朝鮮国王は清国に援軍を求める。清国は日本に朝鮮に進駐する旨を伝えると同日、日本も朝鮮に進駐すると通告。

朝鮮国王の要請により、日本・清国の両軍の撤退が提案され、清国は受けるも日本は延期を要請。そして王宮を急襲し国王を幽閉し、国王の父・大院君をかついで支配圏を握らせた。

その後、日本の巡洋艦浪速が清国兵を乗せたイギリス輸送船を撃沈。その4日後には牙山の戦いで日清両国の陸軍による戦闘が行われ、宣戦布告がなされた。

当時バードは奉天に滞在していたのですが、戦地に向かう清国兵を目の当たりにし、その装備のお粗末さ、戦意の低さを描写しています。

奉天に向かうすべての道路は兵士でごった返した。行進とはほど遠いだらだらとした歩き方で、10人ごとに絹地の大きな旗をかかげているが、近代的な武器を装備している兵はごくわずかしかない。(中略)正確無比の村田式ライフル銃を持っている日本軍を相手に、このような装備の兵を何千人も送り出すのは殺人以外のなにものでもない。兵士もそれを知っていた。

(中略)医療設備も救急隊もなく、傷病兵は身ぐるみはいで置き去りにするのが清国の習慣で「傷病者には用がない」。兵站部はまったく無能であるばかりかとんでもない不正を働き、物資が集められても請負人がそれを売って自分の儲けにしてしまう。したがってあらかじめ用意された食料や飼料はほとんどなく、ほんのしばらくで兵士たちは勝手にものを盗み出し、ウマや輸送用のラバを食べ始める。

 一方で、平壌で死亡した左宝貴将軍が率いる軍はよく訓練され秩序正しかったようですが、彼らが去った後は再び奉天に無秩序が戻って来た、とされています。

奉天を発った最初の軍隊のなかに騎兵5000の奉天旅団があった。これを率いる左将軍は勇敢かつ熟練した武官で、恐れられると同時に信頼もされていた。彼が平壌で敵兵と対して斃れた時、その死は隊の士気をくじき、日本軍は碑を立てて彼を讃えた。左将軍の率いた旅団は統率が行き届き、高度に訓練され、全般的に武装状態も良好だった。

(中略)左将軍が規律正しい旅団とともに出発したあとは無秩序がはびこり、頼りになる兵士がわずかしかいない高級将校はみずからの身辺を警戒するようになった。

その後バードは奉天を離れ、長崎経由でウラジオストクに赴き、ロシア帝国のシベリア鉄道の野望を垣間見、ロシアの支配下でキビキビと働き豊かに暮らす朝鮮人を目の当たりしにします。

そして再び朝鮮に戻って来ますが、日清戦争終了後は特に釜山や元山などの港町は日本人の天下になっており、清国人街は静まり返っていました。

日本は朝鮮で支配的な立場に立ち、とうとう1895年1月、井上馨伯爵は朝鮮国王に「清国への従属関係の破棄」を迫ったのでした。バードはこの時の「破棄宣言」の儀式にも出席しています。

日本はその後、権勢を誇った閔氏一族を公職から追放し、政治改革に着手していきます。バードは日本が主導する改革については期待を含めつつも、日本側の融通の利かず強引で柔軟さにかける手法については非難しています。これでは朝鮮人が日本人へ反発するのは当然であろう、と言わんばかりです。

政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私服を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。

このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難極まりなかった。(中略)ある日、首都に住む朝鮮人の嗜好品のひとつ、長さ三フィートのキセルを廃止すると布告があった。べつの日にはソウル周辺のはげ山を修復するために、松を植林することを命じる開明的な法令が載った。(中略)かと思うとべつの日には、清国人を朝鮮国内からいびりだすためのいやがらせとしか思えない、煩雑で狭量な法令がずらずらと載った。

(中略)臨機応変の才に欠けたのは日本の重大な手落ちだった。1894年7月に王宮を包囲して国王の身柄を拘束した事件は、たとえ政治上必要だった ー真意は計りかねるがー としても、国王の尊厳を損ねたことに弁解の余地はない。かつて陰謀を働いたものを交換の地位にむりやり就けたのは重大な過ちであり、長キセルの廃止や宮廷服その他の衣装の改変、社会風習への干渉、そして些末でわずらわしい制約や規則といった柔軟性のないやり方は、新しい体制に反対する人々の敵意をつのらせたのである。

その後バードが懸念した通り、日本側の柔軟性を欠いた強引な進め方は続き、閔妃暗殺事件が起こることになります。

 

 

3. 閔妃暗殺事件

閔妃暗殺事件(乙末事変)は、日本公使・三浦梧楼の計画の元、朝鮮守備隊、朝鮮訓練隊、日本守備隊、日本警察らによって閔妃が暗殺され、遺体が焼かれた事件です。

事件の背後には、日本と結んだ大院君と閔氏勢力の宮廷対立があり、閔氏は勢力回復のためロシアと結ぼうと画策し、あせった三浦梧楼の指示により殺害された、というのが定説となっています。

バードの文には大院君と閔氏勢力の対立については記載がありますが、ロシアと閔妃の関係については説明がなく、起こった出来事の伝聞とその後の人々の反応が綴られています。以下は事件翌日の国王・高宗の描写です。

その日は各国公使が国王に謁見した。国王はひどく動揺しており、ときといてむせび泣いた。王妃は脱出したものと信じており、自分自身の身の安全をひどく案じていた。なにしろ国王は暗殺者の一団に囲まれており、その一団のなかでも一番非道な存在が自分の父親だったのである。慣例を破って国王は各国公使の両手を握り、今後さらにこのような暴動が起きないよう国王派に好意的な人々の協力をあおげないものか頼み込んだ。

市井の人々はこの事件に日本が主体的な役割を担っていると気づいており、噂をし合っています。

破綻なく遂行されたこの陰謀と、無防備な女性を虐殺するという行為の裏にはおそろしい疑惑がひどんでおり、事件以降数日間に刻々とふくらんだその疑惑は確信へと強まっていた。人々は暗黙の了解ごとのように、朝鮮人以外の人間が陰謀を計画したのだ、朝鮮人以外の手が王妃の命を奪ったのだ、惨劇が起きたあいだ国王の住まいを警護していた歩哨は朝鮮のものではない制服を来ていた、王宮内で閃いた剣は朝鮮のものではなかったとささやきあった。

日本政府は公式に事件への関与を否定。裁判所の判決文によると「三浦大使の教唆により、王妃殺害を決意し、そのために仲間を集め(中略)他の十余名に対して王妃殺害の指揮をとった」とあり、政府の関与はないものの、日本公使が指導したことが認められています。これに対しバードは、「日本は大いにその威信を傷つけた」と指摘します。

日本にとって東洋の先進国たる地位と威信とをこれほど傷つけた事件はなく、日本国政府には同情の余地がある。というのも事件関与を否定したところでそれは忘れられ、王妃殺害の陰謀が日本公使館で企まれたこと、銃と剣で武装して王宮襲撃に直接関わった私服の日本人のなかには朝鮮政府顧問官が数名いたこと、そのほかにも日本の守備隊はべつにして、日本公使館と関係のある日本人警察官や壮士と呼ばれる者も含めて総勢60名の日本人が含まれていたことがいつまでの人々の記憶に残るからである。

実際に閔妃暗殺は、その後民衆レベルで反日機運を盛り上げ義兵闘争の口実にもなりました。今では日本に抵抗して悲劇の最後を遂げたヒロインとして、ミュージカルにもなっています。日本の非道さを表した事件として、未来永劫語り継がれるに違いありません。

 

実際に当時から朝鮮人は日本人のことを蛇蝎のごとく嫌ってはいましたが、当時の日本軍は友好的に接していたようで、嫌いではあるが認めざるを得ない、という当時の朝鮮人の態度も記されています。

そのあとの占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物資に対してはすべて順調な代金が支払われた。日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるを得ず、また、日本軍が引き上げれば、訓練隊がのさばることもよく分かっていた。訓練隊は日本人から教練と武器を受けた朝鮮人の連隊で、すでに人々に暴力をふるったり物を盗んだりしはじめており、行政当局に公然と反抗していた。

 

 

4. 改革反動

日本に支援された開化派によって数々の改革が打ち出され、中には中途半端に終わったり、実施されなかったものもありますが、近代化に向けて歩みを進めている中で、1895年11月に出された勅令は朝鮮社会に衝撃を与え、それをきっかけに改革への反動と社会後退が始まっていきます。

その衝撃的な法令とは「断髪令」でした。

当時の朝鮮人にとって「まげ」は朝鮮人たるしるしであり、神聖なものであり、誕生・成人・結婚・葬式などありとあらゆるイベントと切っても切れない関係にあり、伝統的な衣服や暮らしともセットであるとされました。

朝鮮政府は国民に断髪令を守らせるために、まずは国王のまげを切り取り、国民の模範とさせようとしましたが、ソウルでも地方でも「朝鮮人の魂であるまげを、あろうことか国王が切られた」と反発し、殺人にまで発展する混乱を生じさせました。

断髪令が国民の反感を買った理由のひとつに、尊敬もされず一般に黙認すべき厄介者と見なされている僧侶が剃髪していることがあり、また断髪令は朝鮮人を日本人と同じような外見にさせて自国の習慣を身につけさせようとする日本に陰謀だと受け止められた。朝鮮人らしさを奪う勅令は日本の差し金だという考えはきわめてつよく、あちこちで起きた断髪令反対の暴動は日本人への敵意を公然とあらわしており、殺人にいたった場合が多い。 

実際に、商売などでソウルに来て無理やりまげを切られてしまった人は、殺されるのが怖くて郷里に帰れなかったり、息子がまげを切ったことを恥じて服毒自殺する父親まで出現したのでした。春川という町では、命令を履行しようとした知事と部下たちを、住民が寄ってたかって殺害し、町とその周辺を占拠してしまいました。

社会が騒然とする中で1896年2月1日にセンセーショナルな事件が勃発しました。

国王・高宗が景福宮を抜け出しロシア公使館に逃げ込んだのです。

国王は大権をふたたび取り戻すと勅令2点を発令し、開化派の進める改革に断固反対の姿勢を打ち出しました。

ああ、悲しいかな!朕の不徳と失政ゆえに悪者が重用され、賢者が疎まれた。この10年間、紛争なしにすぎた年は一度としてない。(中略)断髪については、なにをか言わんや。かくも急を要する事柄であろうか。逆徒らは武力と強要をもって事を成し遂げた。この政策が朕の家に反して行われたことは疑問の余地なく周知のところである。(後略)

過去6ヶ月に発布された勅令の大半が撤回され、もちろん断髪令も廃止されました。

開化派の首相と農工商務大臣が街角で惨殺され、その他の開化派の指導者たちも逃亡。ロシアの支援の元、守旧派で構成される議政府が設けられ国王の勅令が法となる以前の状態の戻ってしまい、日本は徐々に撤退を余儀なくされ、朝鮮で得た影響力の大半はロシアの手に渡ってしまったのでした。

 

 

5. 日本の改革に対するバードの総括

高宗がロシアの支援の元で旧体制を取り戻し、独自の「改革」に乗り出していきます。

しかし遅々として進まず、日本の支援の元で進んだ改革から大きく逆行していったものもありました。

過去三年半のあいだに告示された改革の中には実施されなかったものもある。それ以外のものに関しては、旧体制の悪癖へ戻る傾向をともなった、時代を逆行する動きが如実にある。また真摯に着手されながらも、ひとつには朝鮮人の性質である無気力のせいで、またひとつには官職にある人々や官職に就きたい人々による改革反対のせいで、しだいに立ち消えてしまった改革もある。

バードは「最近の政策は、総じて進歩と正義をめざしていた日本の支配下で取られた政策とは対象的に好ましくない」と述べ、旧体制の悪癖が復活している様子が記されています。

昔ながらの悪癖が毎日のように露見し、大臣その他の寵臣が臆面もなく職位を売る。(中略)1895年10月8日の反逆的将校や無力で成立した内閣の支配からも、心強くはあっても非人道的なところの多かった王妃の助言からも、また日本の支配力からも解放され、差し迫った身の危険もなくなると、国王はその王朝の伝統のうち最悪な部分を復活させ、チェック機関があるにも関わらずふたたび勅令は法となり、国王の意志は絶対となった。(中略)国王が人の好いのをいいことに、難なく職位を得ては自分の一族にそれを売ったりあたえたりしている寵臣や、愚劣なへつらい屋のなすがままなのである。

その上で、バードは日本の朝鮮に対して行った一連の改革は、乱暴であったが誠実であったとも語っています。

わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けていたため買わなくてもいい反感を買ってしまったともいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。

一年有余、失敗はまあまああったにもかかわらず日本は前進をつづけ、有益かつ重要な改正を何件か成し遂げ、またその他の改革を始動させた。日本にとってみれば、現在行われている改革は自分たちが敷いた路線の上にあるものではないかと念を押して良いのである。そこへ三浦子爵の残忍なクーデターが起き、日本は文明諸国に対して国家と外交能力への信用を失ってしまった。つづいて日本は駐屯隊を引き上げさせ、多数いた顧問官、検査官、軍事教官を帰国させて積極的な専任から外見上自由放任主義的な方針にかわったのである。

バードが本書を書いた1897年時点での国際情勢は、日本の影響力が後退し、ロシアの影響力が増大しているものの、両勢力が対峙し今後どうなるか予断を許さないという状況でした。この7年後には日露戦争が勃発し、朝鮮半島は完全な日本の支配下に入ること、そして1910年には日本が大韓帝国と併合することになるのは、皆さんよくご存知のところです。

バードの記述を見ていると、日本がとにかく暴力的で高圧的手段で朝鮮の主権を奪っていった、というわけではなく、各種勢力が入り交じる不安定な中で、日本は直接間接支援で朝鮮の改革に取り組んでいたことがうかがい知れます。

 

 

 

 まとめ

紀行文という割にはかなりのページに政治談義が割かれ、異色の本ではあります。 

最後のまとめの部分に書かれた文章を読むは、バードは朝鮮が改革により旧体制の悪癖を取り除き、その豊かな国土と資源、そして壮健な人々が活きる国に生まれ変わり、人々が幸せな生活を送ることを心から願っているように思えます。

 その後朝鮮は日本の一部となった後、南北に分断されて戦争を経験し、未だに分断国家であり続けています。韓国は驚異的な経済発展を遂げて先進国となり、北朝鮮は独自の道を歩む独裁国家でありますが経済は少しずつ回復傾向にあります。

 4年間の滞在でバードがまとめた朝鮮の素顔と、将来的な展望への指摘は鋭いものがありますが、現在の形はバードが想像だにしなかった形に違いありません。もしバードが現在の朝鮮半島の状況を知ったら、いったいどう思うのでしょうね。

 

さて、2回に渡って引用を中心にイザベラ・バードの旅の記録をまとめました。

長くなりすぎるので泣く泣くカットした箇所も多くあります。興味がある方は、是非お手にとってじっくりとご覧ください。 

 

・引用元

朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫)

朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫)

 

 

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