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【前編】イザベラ・バード「朝鮮紀行」まとめ

朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫)

李氏朝鮮末期を旅したイギリス人女性の素直な叙述

「日本奥地紀行」で有名なイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、日本以外にもアメリカ西部、マレー半島、チベット、オーストラリア、ペルシアなど様々な地を旅しては旅行記を残しています。

バードは極東滞在中の1894年から1897年の4年間で李氏朝鮮末期と大韓帝国初期の朝鮮半島を旅しています。

この旅行記の中でバードは、朝鮮半島の自然の美しさや国土の豊かさを讃え、朝鮮王朝の王族たちの人柄に魅せられつつも、人々を貧困たらしめ怠惰に向かわせる官僚機構や政治制度を批判しています。朝鮮が貧しい全ての元凶は人々を搾取する統治制度にあり、適切な指導が行われれば朝鮮は豊かな国になるだろうと希望を抱いていますが、ひとり立ちするのは不可能であり、ロシアか日本、あるいはその両方の保護の元で改革を進めるべきであるとしています。

年末年始でゆっくり読む機会があったので、全2回で「朝鮮紀行」の内容についてまとめをしてみます。

 

前編:朝鮮の町の様子・人・政治・王族

後編:政変・事件・国際関係

 

 

1. 釜山・ソウルの街並み

1894年2月、バードは長崎から船で15時間かけて釜山に上陸しました。

当時の釜山は日本人が大勢貿易に携わる活気のある町で、朝鮮人はほとんど目立たない印象を受けたようです。

釜山の居留地はどの点から見ても日本である。5508人という在留日本人の増加に加え、日本人漁師8000人という水上生活者の人口がある。(中略)

日本人街から山腹に細い小道が3マイルばかりつづいている。この小道は、わたしが最後に見たときは無人だったが、官衙もある小さな清国人居留地を通り、その終点に、城壁に囲まれた釜山の旧市街がある。砦はとても古いものの、なかの市街は3世紀前の構想にそって日本人の手で近代化されている。

岸辺の岩場にすわっているのは、ペリカンかペンギンを思わせる白い物体の群れである。が、同じような物体が人間そっくりの足取りで釜山の新旧市街間をとめどなくいきかうところをみると、すわっている物体もどうやらどの同類らしい。朝鮮人はわたしの目には新奇に映った。清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっとみばがよくて、体格は日本人よりはるかに立派である。

その後バードは船で首都ソウルに向かいました。

第一印象では風格もなければ風景の特徴もない、という印象を持ったようですが、その後の滞在でソウルという町の魅力や美しさにすっかり魅了されていったようです。

わたしは昼夜のソウルを知っている。その宮殿とスラム、ことばにならないみすぼらしさと色あせた栄華、あてのない群衆、野蛮な華麗さという点では、ほかに比類のない中世風の行列、人で混んだ路地の不潔さ、崩壊させる力をはらんで押し寄せる外国からの影響に対し、古い王国の首都としてその流儀としきたりとアイデンティティを保とうとする痛ましい試みを知っている。

が、人は始めからそのように「呑みこめる」ものではない。

一年かけてつきあったのち、わたしはこの都を評価するにいたった。すはなち、推定人口25万のこの都市が世界有数の首都に値すること、これほど周囲の美しさに恵まれた首都はまれなことを充分に悟ったのである。

バードは今でいうバックパッカーで、辺鄙なところもどんどん行ってしまう人です。

そして基本的には人付き合いよりは自然と戯れることが好きで、都市の清潔さや美観というより、自然の美しさや半人口の庭園などに心惹かれる傾向があります。

バードはソウルの四季折々の風景、春に色づく山腹の美しさや、濃い緑に覆われた山が続くかと思えば突如切り立った峰が現れたりする変化に富んだ地形、優雅な田園地帯や美しい木立を讃えています。よほど自然が美的に優れていたんでしょうね。

一方でソウル城内は「描写するのは勘弁いただきたい」というほど汚い場所であると記載しています。

 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は立てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横道の「地べた」で暮らしている。

路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家家から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで挟められている。

悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子どもたち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げ回ったり、ひなたでまばたきしたりしている。

 

 

2. 朝鮮人の描写

 ソウルを離れたバードは、船に乗って漢江の上流を目指す旅に向かいます。

その自然や農村風景の美しさに感嘆しつつ、怠け者の船頭や好奇の目で見てくる民衆にイライラしながらも旅は続くのですが、農村や一般住民の暮らしは悪くはないが、必要以上の金銭や物資を「あえて持たない」ようにしていると指摘します。

貧しさを生活必需品の不足と解釈するなら、漢江流域の住民は貧しくない。自分たちばかりか、朝鮮の慣習に従ってもてなしを求めてくる、だれもかれもを満たせるだけの生活必需品はある。負債はおそらく全員がかかえている。

借金という重荷を背負っていない朝鮮人はまったくまれで、つまり彼らは絶対的に必要なもの以外の金銭や物資に貧窮している。彼らは怠惰に見える。わたしも当時はそう思っていた。

しかし彼らは働いても報酬が得られる保証のない制度のもとで暮らしているのであり、「稼いでいる」とうわさされた者、たとえそれが真鍮の食器で食事をとれる程度であっても、ゆとりを得たという評判が流れた者は、強欲な官吏とその配下に目をつけられたり、近くの両班から借金を申し込まれたりするのがおちなのである。

 両班制度の問題点は「朝鮮紀行」の中でたびたび指摘されます。両班について、バードは以下のように描写しています。

朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。

両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。

両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルですらである。(中略)慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集めれるだけかき集めて引き連れて行くことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、

伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して買っている鶏や卵を奪い、金を払わない。

(中略)非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目の無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男は偽の負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝鞭で打たれる。(後略)

そのため、一般の朝鮮人は命と家族を守るために、あえて働かず稼がず、必要最小限のものだけを持って細々と生活するしかない、というわけです。

バードは朝鮮人の「怠惰さ」が生来のものなのか、あるいは制度がそうさせているのか考えますが、後に満州でロシア人支配地区でキビキビと働き豊かに暮らす朝鮮人を目の当たりにし、きちんと制度が整えば朝鮮はきっと豊かになるに違いないし、漢江周辺の田畑も十分に開墾されていないため、経済発展の可能性は大いにあるとしています。戦後の韓国の経済発展を見ると、バードの予測は当たっていたと言えると思います。

気候はすばらしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱と盗賊団は少ないとくれば、朝鮮人はかなり裕福でしあわせな国民であっておかしくない。もしも「搾取」が、役所の雑卒による強制取り立てと官僚の悪癖が強力な手で阻止されたなら、おしてもしも地租が公正に課されて徴収され、法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民は日本の農民に負けず劣らず勤勉でしあわせになれるはずなのである。

しかしこの「もしも」はあまりに大きい!

 

その一方で、朝鮮人の大食漢ぶりも描写されています。当時の朝鮮人は、今はそうでもないと思いますが、身分問わずメチャクチャ食うと描かれており、「貧しい者=食えない者」と結びつけがちな日本人と少し感覚が違うようにも思います。

ほかのところでもよく目撃したが、中台里でもわたしは朝鮮の人々の極端な大食ぶりを目の当たりにした。彼らは飢えを満たすためではなく、飽食感を味わうために食べる。

(中略)大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、1日4ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼い頃からの人生目標のひとつなのである。ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、製菓を食間にとるが、それでもつぎの食事には一週間もひもじいい思いをしていたかのような態度でのぞむ。

(中略)わたしは朝鮮人が一度の食事で3ポンドはゆうにある肉を食べるのをみたことがある。「一食分」が大量なのに、1日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。一度の食事で20個から25個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。

 

 

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3. 朝鮮のシャーマニズム

バードは「朝鮮には宗教がない」と述べています。その代わり、「とても宗教とは呼べない」民間信仰が人々を支配しており、それは東北アジアのシャーマニズムを基礎に仏教の影響も受け、朝鮮で独自にローカライズされたものとしています。

朝鮮の民間信仰では、地、空気、海には鬼神が棲んでいるとされる。寄進は葉陰をなす木立、薄暗い渓谷、山の頂には例外なく宿っている。緑の山腹、田畑のあるのどかな谷間、小さな谷の草地、林のある高台、湖や川のほとり道端、東、西、南、北に鬼神はうじゃうじゃいて、人間の運命をもてあそぶ。鬼神は屋根、天井、かまど、暖房床、梁にもかならずいる。煙突、物置、居間、台所にもいれば、棚やかめにもことごとく宿っている。(中略)朝鮮人は唯一持っているというべきこの信仰のおかげで四六時中心が休まらず、かぎりない恐怖にさらされ、実のところ「こわがりどおしでこの世の時間を過ごしている」と言えるほどである。

 朝鮮人は降りかかる災難の原因はすべて鬼神のせいだと思っており、鬼神の怒りが自分に向いたため病気や失敗、貧困などが起こったとみなす。そのため、鬼神をなだめ怒りを解くパンスやムダンというシャーマンが重要な存在となっていました。

シャーマンによる祭儀は絶大な効果があると信じられており、貧乏人でも着物を売ってでも金を工面して悪霊ばらいを受けようとします。

ソウルの人々が途方もないお金をムダンから搾り取られていることは前に述べた。朝鮮では、病気がつねに鬼神による憑依と結び付けられ、病気のたびにパンスやムダンが必要になるものと考えられる。この野蛮で低級な治療法は、多くの面で高度に文明化されたこの国をしっかりとらえているが、ヨーロッパの医薬と外科医学は、多くの面でその攻撃者として第一番の成功を収めている。

 バードの滞在中もシャーマンによる治療はメインでしたが、それが徐々に西洋医療に取って代わってこうとする姿が見て取れます。

まさに時代の端境期といったところです。

 

4. 朝鮮の王族たち

バードは朝鮮滞在中、当時の王族たちと個人的に親しくなり、何度も宮殿を訪ねて親交を深めています。

当時の王妃は後に暗殺される閔妃です。

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王妃はそのとき40歳をすぎていたが、ほっそりとしたとてもきれいな女性で、つややかな漆黒の髪にとても白い肌をしており、真珠の粉を使っているので肌の白さがいっそう際立っていた。そのまなざしは冷たくて鋭く、概して表情は聡明な人のそれであった。(中略)話はじめると、興味のある会話の場合はとくに、王妃の顔は輝き、かぎりなく美しさに近いものを帯びた。

同時に国王の高宗にも謁見しています。高宗は歴史的には、主体性がなく弱気で、外国に翻弄された挙句国を滅ぼした無能な君主という評価がありますが、バードも「人は好いが君主としての器量に欠ける」と述べています。

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国王は背が低くて顔色が悪く、たしかに平凡な人で、薄い口ひげと皇帝ひげを蓄えていた。落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、その居ずまいやものごしに威厳がないというのではない。国王の面立ちは愛想がよく、その生来の人の好さはよく知られるところである。会話の途中、国王がことばにつまると王妃がよく助け舟を出していた。

高宗と閔妃の息子は、後に純宗という名で李完用ら親日派に担がれて国王になる人物です。韓国併合後は王族として暮らしています。純宗は知的障がいがあった可能性が指摘されており、バードも謁見時にそのように感じています。

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皇太子は肥満体で、あいにく強度の近視であるのに作法上眼鏡をかけることが許されず、そのときはわたしに限らずだれの目にも完全に身体障害者であるという印象をあたえていた。彼はひとり息子で母親に溺愛されていた。王妃は皇太子の健康についてたえず気をもみ、側室の息子が王位後継者に選ばれるのではないかという不安に日々さらされていた。(中略)謁見中の大部分を母と息子は手を取り合ってすわっていた。

その後バードは3週間に3度にわたって謁見を繰り返し、「好人物だが意志薄弱で人の言いなりの国王」「キレ者で王を良いように操る王妃」「実権を閔妃から取り戻すべく陰謀を企てる国王の父・大院君」を中心に繰り広げられる王族たちの戦いに国政の混乱の元を見ますが、国王夫妻とのふれあいはバードに好印象を与えたようです。

ちょっと長くなりますが引用します。

どのときもわたしは王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才能に感服した。その政治的な影響力がなみはずれてつよいことや、国王に対してもつよい影響力を行使していること、などなどは驚くまでもなかった。王妃は敵に囲まれていた。国王の父大院君を主とする敵対者たちはみな、政府要職のほぼすべてに自分の一族を就けてしまった王妃の才覚と権勢に苦々しい思いをつのらせている。

(中略)王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。そしてその傾向は王妃の影響力がつよまって以来ますます激しくなっていった。(中略)しかし不幸にも、また国にとってはさらに不幸にも、その声明が国の法となる立場の人間にしては、彼はあまりにも人の言いなりになりすぎ、気骨と目的意識に欠けていた。最良の改革案なのに国王の意志が薄弱なために頓挫してしまったものは多い。絶対王政が立憲政治に変われば事態は大いに改善されようが、言うまでもなくそれは外国のイニシアチブのもとに行われないかぎり成功は望むべくもない。

(中略)国王は統治者としてはきわめて勤勉で、各省庁の業務全般について熟知し、膨大な報告と建白を受け、政府の名のもとに行われるすべてのことがらを気にかけている。細部を仔細に考慮することにかけては国王の右に出るものはいないとはよく言われることである。同時に国王は全体的にものごとを把握することには長けていない。あれだけ心やさしい人であり、あれだけ進歩的な考えに共鳴する人なのであるから、そこに性格的な強さと知性が加わり、愚にもつかない人々の意見に簡単に流されることがなければ、名君になりえたであろうに、その意志の薄弱な性格は致命的である。

 

  

 

まとめ

「日本奥地紀行」はバードが東京から北海道までを主に陸路で旅をした紀行文で、旅の道中の話や人々との触れ合い、町の様子や自然の美しさに主眼が置かれています。

一方「 朝鮮紀行」では、もちろんそのような描写もありますが、その当時朝鮮で起こった政治的な出来事や政変が、社会にどのような影響を与えたか、国の停滞の原因はどこにあるのか、といった社会分析に大きくページが割かれています。

 それだけバードが、日本以上に朝鮮の土地に深い愛着を抱いたためではないかと個人的には思います。

後半では、東学党の乱、日清戦争、閔妃暗殺、親日派による改革、改革反動まで激動の時代の描写を中心に見ていきたいと思います。

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・引用元