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【論争】サーン・アバスの巨人は古代遺跡かニセモノか

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Photo by PeteHarlow

 イングランドの地上絵は古代遺跡か17世紀に作られたものか

サーン・アバスの巨人(Cerne Abbas Giant)は、イングランド・ドーセットのサーン・アバス村の丘にある地上絵。あまり観光資源のないドーセット地方の中で有名な観光スポットになっています。

描かれているのは棍棒を持った裸の男性で、立派な部分を堂々と露出させた、まあなんというか、とってもワイルド。全長55メートル、幅51メートルにもなる大きさで、掘られた溝には白いチョークで輪郭が描かれています。

この地上絵の由来はよくわかっておらず、初めて記録に現れるのが17世紀なのでその頃に作られたという説もある一方で、古代ローマやケルトの時代に作られたという説もあります。情報があまりにもなくて、その由来の論争にはまだ決着がついていません。

 

1. サーン・アバスの巨人とは

この地上絵は、管理するナショナルトラストは「サーン・ジャイアント(Cerne Giant)」と呼びますが、イングリッシュ・ヘリテッジやドーセット群議会は単に「巨人」と呼んでいるし、人によっては「じいさん(Old Man)」とか「粗野な男(Rude Man)」とも呼んでいて、決まった呼び方がありません。

巨人は右手に棍棒を持っていて、左腕は開いていますが、1996年の研究では元々左腕にはマントがあったことが分かっています。このマントは動物の皮の描写であった可能性が高いと考えられます。そのためこの巨人はハンター、あるいはネメアーの獅子と戦いその皮を腕にかけたギリシア神話の神ヘラクレスであると推察されます。

▽もともとは黄色い線の部分が描かれていた

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Image by Angelus

 

▽ヘラクレスとネメアーの獅子

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ビクトリア時代(1837年以降)には、巨人の立派な部分が「風紀的に好ましくない」という理由で埋められてしまいました。

▽1842年の巨人

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1920年に巨人がある土地は所有者よりナショナルトラストに寄贈され、現在も維持管理が行われています。立派な部分もナショナルトラストにより修復されたようです。

 

さて、巨人に関する最も古い記録は、1751年にドーセットの歴史家ジョン・ハッチンズの書いた手紙で、その中で彼は巨人が1600年代半ばに描かれたと記しています。次いで古い記録はロンドンの月刊誌「ジェントルマンズ・マガジン」で1764年に発行された号。ここではこの絵は長い間人々の記憶から忘れ去られていたと説明されています。1617年に実施されたこの地域の詳細な土地調査の資料にも、この巨人に関する記録は一切存在せず、当時はそこにいなかった可能性があります。しかし単に草に埋もれて長年忘れ去られていただけかもしれません。描写スタイルは古代のそれに近いし、巨人の絵のすぐ真上には「トレンドル(Trendle)」という名の鉄器時代の土工(古代人の墓であると考えられている)があるため、巨人がはるか昔に作られた可能性も否定できません。

 

2. 古代に作られたという説

最も人気のある説は、上記に述べた通りギリシア神話の神ヘラクレスを描いているというもの。ローマ時代初期の頃にヘラクレス崇拝がこの地にやってきて、地元のケルトの神と融合し、このような絵が掘られたという説です。紀元180年から193年の皇帝コンモドゥスの時代に作成されたものという説もあります。コンモドゥス帝は自らヘラクレスの生まれ変わりと称して、ヘラクレスのコスプレをして衆人の前に現れたりしていたので、その姿を描いたのではないか、というものです。

▽コンモドゥス帝

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この他にも、ケルト族の神を表しているという説や、ローマ以降に侵入したサクソン族によって作られたという説もあります。19世紀のいくつかの資料によると、巨人の足には何か彫られており、崩れていて読み取るのは難しいものの、おそらく現代の数字で「748」と彫られている、これはウェセックス王カスレッドの息子センリックを表している、のだそうです。ただしこの説明はあまり広く認められていません。

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3. 17世紀に作られたという説

最も多くの学者が支持しているのが、17世紀に2番目の妻の持参によってサーン・アバスの土地の保有者となっていたデンジル・ホールズ男爵(Denzil Holles)がオリバー・クロムウェルを皮肉って、使用人に命じて描かせたパロディだ、という説です。

 

▽デンジル・ホールズ男爵

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この説は、古物収集家のジョン・ハッチンズの1751年の手紙で、「これはホールズ男爵の時代に掘られた現代のものである」書いていることに裏付けられています。

ドーチェスターの議員で議会の長老派の指導者であったホールズは、イギリス内戦の初期の頃には議会派を支援しますが次第にクロムウェルを軽蔑するようになり、1644年にクロムウェルの弾劾を試みました。

クロムウェルは政敵から「イングランドのヘラクレス」と揶揄されることもあり、この地上絵がクロムウェルをパロったものである可能性に説得力を持たせています。

 

4. 巨人にまつわる伝説

古代のものか、17世紀にできたものかはまだ議論がありますが、確かなことはこの地上絵が地元ドーセットの重要な文化・民間伝承の一つとなっていることです。

地元に伝わる話によると、この地上絵は本物の巨人の死体の輪郭であるそうです。巨人はデーン人のイングランド侵入の際にやってきてドーセット地方を荒らしたものの、夜になって丘で寝ているところをサーン・アバスの村人によって寝首をかかれ絶命しました。その後村人たちは巨人の死骸の周りをチョークで線を引き、それを記録したそうです。この話には続きがあり、深夜になるとこの絵の巨人は時々起き上がって丘の下の小川まで水を飲みに行く、そうです。

巨人はその立派なモノから、子宝の縁起物として神聖視されました。子宝に恵まれないカップルが巨人の絵の周りで踊ったり、女性が絵の中で一晩を過ごすと子宝に恵まれるという民間信仰があったそうです。こういうことをする人たちがいたから、きっと19世紀半ばに消されてしまったのでしょうね。

しかし、キリスト教の伝統が長いイングランドですら、我々日本人と同じような素朴な多神教的発想が息づいていたというのがちょっとうれしい感じがあります。

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まとめ

17世紀以前には全く記録がなく、しかも当時の証言で「最近できたもの」という声があるということは、17世紀のイングランド内戦時に作られた可能性が非常に高い気がします。なんで古代のスタイルにすごく似てる風になったのか、単にこれを描いた人の画力が低かったからか、意図的に真似をしたのか、真似をしたとしたなら何のために。

疑問は尽きませんが、本当のところはよく分かりません。

しかしながら、伝統というのものは何かの拍子にこういう形で作られるもので、年月を重ねていくうちに人や社会に馴染んでいって本物の「伝統」になるのだろうなという気がします。

 

参考サイト

Cerne Abbas giant at Mysterious Britain

"The Cerne Abbas Giant" Museum of Hoax

Cerne Abbas Giant - Wikipedia