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西アフリカの天才戦略家 “サモリ・トゥーレ”の生涯

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フランス軍に抵抗したギニアの英雄

 サモリ・トゥーレは、アフリカ・ギニア出身の豪族で、当時アフリカ支配を深化させていたフランス植民地軍に抵抗したギニアの英雄。 

アフリカの伝統的統治を基本としながら、近代的な組織を築き上げた政治手腕は特に優れており、フランスでは「スーダンのボナパルト」とも称されました。

このエントリーでは、天才“サモリ・トゥーレ”の生涯と、彼の築いた帝国について追っていきます。

 

 

1. 若くして西スーダンのヤクザの頭に 

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トゥーレは1830年、ギニアのコニャン地方の豪族の生まれ。 

生まれつき血の気が多かったらしく、子どものころよりケンカばかり

二十歳の頃には地元の私兵勢力の一員として戦い始めますが、プレイヤーにはなじめなかったので、周囲と衝突を繰り返した挙げ句、ひとり東へ向かい西スーダン(現ニジェール)の僻地に赴きます。

31歳のころ、地元のヤクザの頭に落ち着き、そこで次第に勢力を拡大していきます。

 

2. フランスとの妥協、そして失敗

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徐々にニジェールに支配領域を拡大していったサモリは、当時ニジェール川流域を支配下に置いていていたフランスとぶつかります。

フランスもサモリも、当時は事を荒げたくない事情があったため、両者は妥結。

フランスと相互条約を結び、約束の証として息子を人質にフランスに送ります。

ところがこの妥結にフランス国民が猛反発し、そんなヤクザ勢力はさっさと駆逐すべき、という意見が多数を締め、融和派のフレイ将軍は更迭されてしまいます。

代わりに派遣されたガリエニ大佐(上記写真)は、サモリにフランスに支配領域を渡すよう主張。サモリはこれに対して話し合いで応じますが、交渉は長引き3ヶ月も浪費

その間に、近隣のヤクザであるテイエバ一派が勢力を拡大し、サモリの領土を侵犯し始めます。

サモリは手痛い失敗を犯し、勢力は大きく弱ってしまいます。

 

3. 独裁・中央集権化

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支配領域を失い、領民を疲弊させてしまったサモリは、それまでの伝統のイスラム的な統治方法では限界があると判断。

起死回生の策として、自分に権力を集中させ中央集権的な帝国を築く方針に転換

 大量の武器弾薬を購入し、鍛治師を育成して火器の製造を開始します。

 記録に残るうえでは、これがアフリカ人で初の火器製造の試みだそうです。

 

4. サモリ軍 vs フランス軍の死闘 

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フランス将軍アルシルナールは、サモリの領土の本格的な侵犯を開始。 

その後継者ユンベール将軍も、より積極的にサモリの領土の中枢部にまで攻め入ります。

これに対し、サモリは焦土作戦で対抗。ユンベール将軍は食料不足に悩まされ、海岸部まで撤退する羽目になります。

この戦闘はフランス、サモリ両者の痛み分けとなり、その後の方針を転換させるに至ります。

フランス

政府が「西スーダンはフランスに利益をもたらさないばかりか、将軍の手柄争いの場になっている」とし、軍部に対し計画性のない侵犯行為の停止を要求します。

サモリ

有能な指揮官、戦闘員を多数失い、焦土作戦によって国土は荒廃。

さらに領地の大部分をフランスに奪われたままという、八方ふさがりの状態でした。

 

5. ニジェールを捨てコード・ジ・ボワールへ

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サモリは西スーダンを捨て、わずかな仲間とともに西へ向かい、故郷のギニアに近い、現在のコート・ジ・ボワールの北方に移動します。

ここでも、象牙海岸から北進を続けるフランス軍のモンティユ大佐の一軍と遭遇。

壮絶な戦闘の末、サモリ軍はこれに勝利。「サモリ・トゥーレ」の名は一躍西アフリカ全土に広がります。

その後もサモリ軍は進撃を続け、ゴンジャ王国を始め土侯・部族を従えるとともに、近代火器を入手し、軍事力を強化します。

 

6. 帝国維持の戦略が、息子の暴走でご破算

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1896年、ギニア湾岸に進出し始めたイギリスはサモリ帝国と衝突することになります。

イギリスと衝突するのは避けたいサモリは、イギリスの数々の嫌がらせを受け流し、捕えたイギリス軍将校を厚遇して、送り返すことさえします。

サモリは、フランスとイギリスの間でうまく立ち回り、両者の均衡の調整を取ることで、自らの帝国の維持を図ろうとしていました。

ところが、サモリとの会談のために訪れたフランスのブラウロ大佐の軍を見たサモリの息子は、自分たちを攻めにきたと勘違いし、ブラウロ大佐一行を虐殺してしまいます。

このことは、フランスはおろかイギリスにも、サモリを弾圧する口実を与えてしまいます。

 

7. 帝国の崩壊

1898年、サモリの軍はフランス軍に追われ、西へ西へと敗走を開始し、ドウエ高原に到着。サモリはここで雨期の終わりを待ち、収穫期に10万人分の食料を確保した上で、反転攻勢に出る作戦を立てます。

ところが、ここにフランスのラルティギュ中佐の部隊がサモリ軍を急襲。サモリ軍はこれを撃退したものの、サモリはさらなる攻勢をおそれてドウエ高原を捨て、さらに西方の山岳地帯に移動

ここで地元部族の襲撃や食料不足に悩まされ、壊滅状態に。

サモリ軍はさらに西へ逃げようとするところをフランス軍に囲まれ、ついに降参。

サモリはその翌年、流刑先のガボンで病死します。

 

 

8. サモリ・トゥーレの功績と失敗の本質

サモリ・トゥーレの最も大きな功績は、

  • 列強の西アフリカの侵略に対する最も強力な異議申し立てを行ったこと
  • 西アフリカの近代的ナショナリズムの始祖となったこと

ということになるでしょうか。

帝国では、サモリに権力を集中する中央集権的な体制や、地場勢力に依存しない遊撃的な軍の活用など、近代的な組織の運用が行われていましたが、

彼の部下たちや支配下にあった土侯勢力は、未だ伝統的な考え方や方法から抜けきれなかったため、サモリがヘタれると全てが萎縮してしまう運命にありました。

急速なスピードで支配領域を広げてくる列強に対し、領民の意識改革を行うまでの時間は、サモリにはなかったのでしょう。

 

参考文献:世界の歴史6黒い大陸の栄光と悲惨 講談社