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チェコスロバキア軍団 - 祖国へ帰るための孤独で長い戦い

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 祖国への帰還を目指してロシアで戦い続けた国なき軍団

チェコスロバキア軍団は第一次世界大戦中の1914年から1917年にかけて、連合軍の一翼として戦ったチェコスロバキア人の軍団です。

オーストリア=ハンガリー帝国軍の兵として参加したものの捕虜になりチェコスロバキア軍団に所属になった者、志願して参加した者などきっかけは様々でしたが、皆祖国の独立を願い結束力と士気が非常に高い部隊でした。

しかし1917年にロシア革命が勃発してロシア・ロマノフ王朝が崩壊。ロシアは赤化しチェコスロバキア軍団はロシア内に取り残されてしまいます。一刻も早いロシア脱出を望む兵たちでしたが、そこから長い赤軍との戦いが始まることになるのです。

 

1. チェコスロバキア義勇軍の成立

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Work by ThecentreCZ 

チェコスロバキア民族主義の勃興

チェコスロバキアは長年ハプスブルグ帝国の支配下に組み込まれていましたが、汎スラブ主義の流行によって19世紀半ばから民族自決の機運が高まっていきました。

チェコスロバキア独立の父と言われるトマーシュ・マサリクは1900年にチェコ進歩党を設立して独立運動を本格的にスタートさせ、アメリカやイギリスに渡って政治家や知識人・文化人にチェコスロバキアの独立を訴えて回ります。

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民間レベルでは「ソコル」と呼ばれる協会によって民族精神が鼓舞されることになります。元々はソコルは若者の体操運動の普及協会だったのですが、独自の冊子を発行しチェコ民族の歴史や神話を掲載したり、民族の旗をモチーフにしたグッズやシャツを作ったりなど民衆への啓蒙活動を重視するようになりました。

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ソコルに所属する若者は愛国心が非常に強く、独立を求める民族政党に加入している者も多く、チェコスロバキア軍団の1つの流れとなります。

 

第一次世界大戦勃発、チェコ義勇兵の参戦

第一次世界大戦では多くのチェコスロバキア人がオーストリア=ハンガリー帝国軍の兵として参戦しますが、民族意識の高い彼らはオーストリアのカイザー(kaiser)のためではなく、同じスラブ民族であるロシアのツァーリ(царь)のために戦うことを望んでいました。

第一次世界大戦が勃発すると、ロシア領ウクライナのキエフにニコライ二世の許可の下で「チェコ国民議会」が発足。ドイツとオーストリアからの解放を目指し、1914年8月にチェコスロバキア人の義勇兵720名によりチェコ第1大隊が設立されました。この中には後にチェコスロバキア軍団を指揮することになるスタニスラフ・チェチェク、ウラジーミル・クレツァンダなどがいました。

 

▽スタニスラフ・チェチェク

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 ▽ウラジーミル・クレツァンダ

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東部戦線ではディミトリエフ将軍の第3軍団による「チェコスロバキア兵への投降の呼びかけ作戦」が効果をあげていました。マサリクはロシア軍に「オーストリア=ハンガリー軍兵で投降した兵の中の白い服を着た者(=チェコスロバキア兵)には銃撃をしないでほしい」と求め、ロシア軍は同じスラブ系民族である自分たちには親切であるとイメージを広めました。1915年4月には第28歩兵隊、5月には第8歩兵隊が指揮官を殺害して部隊丸ごとロシア軍に投降しました。このような投降兵で1915年1月にチェコ第2大隊が構成されました。

1916年2月にはチェコスロバキアライフル連隊、数週間後にはロシアに収監されていたチェコスロバキア人囚人の志願兵を集めたチェコスロバキアライフル旅団が編成されました。この部隊はその後幾度かの改定を経て1917年に第3ライフル連隊ヤン・ジシュカという名前になりました。

1917年6月のブルシローフ攻勢でロシア軍はドイツ軍、オーストリア=ハンガリー軍に大勝利を納め、同時にチェコスロバキア人で構成された第35連隊と第75連隊計4,200人が捕虜となりました。彼らもロシア軍に加わることになります。この中には、後にチャリャビンスク・グループを率い、第二次世界大戦前には首相にもなるヤン・スィロヴィもいました。

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 チェコスロバキア人の大隊や連隊の数が増加し、1917年9月に正式に「チェコスロバキア軍団」が編成されます。隊員数は約40,000強、歩兵の他に騎兵隊、砲兵旅団、補助部隊も所属していました。

 

西部戦線、イタリア戦線

ロシアの東部戦線だけでなく、西部戦線やイタリア戦線でも、チェコスロバキア軍団は戦っていました。

マサリクはフランス政府と密約を結び、チェコスロバキア兵を西部戦線に投入することを約束。ルーマニアやアメリカ、イタリア、フランス、セルビア、オーストラリアなど世界各地から志願兵が集められました。

一方、アルプスを前線に戦うイタリア戦線でもオーストリア=ハンガリー軍の捕虜からチェコスロバキア軍団を作り前線に投入することがイタリア政府に許可されました。

 

▽フランスのチェコスロバキア軍団

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▽イタリアのチェコスロバキア軍団

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フランスのチェコスロバキア軍団は士気は高かったものの、1918年10月の戦いで252名が戦死または失踪、876名が負傷という大損害を受け壊滅。イタリア戦線でも、1918年11月の戦いで350名が戦死、55名がオーストリア=ハンガリー軍の捕虜となって処刑され、こちらも壊滅してしまいました。

 

2. ロシア革命発生、ウラジオストクへ

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チェコスロバキア軍団の西部戦線への移動計画

 1917年、ロシアの首都ペトログラードで発生した十月革命により、ケレンスキーの臨時政府は打倒されボリシェビキが権力を奪取。社会主義のソヴィエト政権が樹立されます。

ソ連政府は1918年3月にドイツとブレスト=リトフスク条約を締結し、中央同盟と単独講和を結びました。

強大なロシア軍が「いなくなった」東部戦線では、バルト三国、ウクライナ、ベラルーシの土地を巡ってドイツ、オーストリア=ハンガリー、フランス、ポーランド、ルーマニアが介入します。一方でネストル・マフノの黒軍のような地元の勢力も頑強に抵抗します。またそこにニコライ・ユデーニチ将軍のような反ボリシェビキのロシア帝国軍残党の白軍が各地でペトログラード奪還を目指して蜂起。白軍の攻勢に対し赤軍も対抗し、まさに大混乱状態に突入します。

数百人のチェコスロバキア兵は白軍の指揮官ミハイル・アレクセーエフ将軍に従って赤軍との戦いに参加しますが、大部分のチェコスロバキア兵は敵はドイツとオーストリア=ハンガリーだと考えていたので、西部戦線への移動を希望していました。マサリクも連合軍と東部のチェコスロバキア軍団を西部に移動させることを確認しました。

しかし東部から移動しようとするとドイツ軍に妨害されること間違い無い。検討した結果、ロシア北西部の白海から移動する案と、ロシア極東のウラジオストクから移動する案の2案が考えられました。しかし白海は気候が大変厳しく移動は困難。そこでかなり遠いけど安全に、シベリア鉄道の終着駅ウラジオストクに集合し、そこから船で南シナ海、インド洋、紅海、スエズ運河を経て地中海に抜け、ヨーロッパまで移動することに決定しました。

 

チェコスロバキア軍団移動開始

第1軍はまだウクライナの前線にいましたが、キエフ経由でバーフマチ、そしてペンザの町に移動を開始します。第2軍はチェコスロバキア軍団の移動を阻止しようと動いてきたドイツ軍、オーストリア=ハンガリー軍とバーフマチの町で戦いつつ、第1軍の通過を補助しました。

ペンザの町に着いたチェコスロバキア兵は、列車に乗せられて東へと移動していくのですが、ここで問題が起こりました。

赤軍兵は多くのチェコスロバキア兵を列車に詰め込むため、600名を1単位として168丁のライフルと1丁のマシンガンの携帯しか認めず、オーバーした分はペンザの駅で全て没収しました。それでも1918年5月まではなんとかうまくいっていたものの、次第にチェコスロバキア兵の間で赤軍に対し不満と疑いを抱くようになります。

赤軍の連中を信用して本当に大丈夫なのか。これからウラジオストクまでいくつもの駅を過ぎるが、そこにいる赤軍兵全員に同じ指示が伝わっているのか。どこかで待ち伏せ攻撃にあいやしないか。

武器を没収され丸腰に近い状態で、しかもソ連は中央同盟と停戦してるので、ドイツやオーストリア=ハンガリーの軍人や商人がソ連国内で実際に多数活動していました。

5月14日、チャリャビンスク駅でオーストリア=ハンガリー帝国の商人が投げ捨てた金属の破片が1人のチェコスロバキア兵を負傷させてしまいます。激怒した兵たちはその商人をなぶり殺しに。止めに入った赤軍によってリーダ格の数人が逮捕されてしまいます。チェコスロバキア兵は赤軍の兵舎に詰めかけ釈放を要求。これが拒否されるとチェコスロバキア兵たちは赤軍と戦闘状態に突入してしまいました。

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3. 赤軍と開戦

 この時点でチェコスロバキア軍団はロシア各地に散らばっていました。大きくは以下のグループです。

 

東方グループ

ロシア人のミハイル・ディテリフス将軍が率いるグループ。4月末にウラジオストクに到着した。

 

ペンザ・グループ

スタニスラフ・チェチェク率いるグループ。元第1師団の残党。

 

チャリャビンスク・グループ

ヤン・スィロヴィ率いるグループで、第1師団の4連隊を含む。

 

その他連隊単位の小規模な、アノ・グループ、ノヴォ-ニコラエフスク・グループ、ニジニ-ウディンスク・グループなど、チェリャビンスク・グループの東方に散らばって存在していました。

 

チェコスロバキア軍団の東進

チェチェク率いるペンザ・グループは5月29日、ペンザの赤軍3,000と戦い町を掌握し、没収されていた武器を取り戻して進撃を開始。シズラン、サマラ、オレンブルグ、ウファを陥落させます。

当時のシベリアの赤軍の主要任務は町の哨戒や鉄道の警備にあり、武器も軽装でまとまった数はいなかったため、歴戦のチェコスロバキア軍団兵の相手ではありませんでした。兵たちは東へ向かう鉄道路を確保し、すでに通ってきた路線を切ったり、橋を破壊したりして、赤軍の追っ手の侵攻をなるべく遅らせながら行軍しました。

一方、ウラジオストクに先に到着していた東方グループは、地元のボリシェヴィキ政権を駆逐しウラジオストク港までのルートを確保していましたが、ペンザ・グループとチャリャビンスク・グループを置いて欧州に行くことはできないとして再び鉄道で西方に移動して戦いました。

5月26日に第7ライフル連隊によりマリンスクとノヴォ・ニコラエフスクが陥落。6月7日に第2と第6師団によりオムスクが陥落。第6連隊とロシア白軍の2個連隊の二度による攻撃で、要衝クラスノヤルツクが陥落しました。

この攻勢でシベリアの赤軍兵はパニック状態となり、7月初旬に赤軍は重要拠点イルクーツクからバイカル湖方面に逃亡しました。

東方グループはこれを追って7月14日からバイカル湖での作戦を開始。ラドラ・ガイダ率いる師団はバイカル湖の水辺近辺を掃討し、白軍コサック兵と第1連隊が湖南部付近を攻撃しました。 バイカル湖の作戦は8月16日まで続き、9月1日にシベリア・グループと東方グループがとうとう接触に成功。チェコスロバキア軍団は日本海まで6,000マイル(9,656キロ)というところまで到達しました。

 

この時、日本軍の息のかかった東バイカルのコサックの首領でグレゴリー・セミョーノフという男が、トランスバイカル(東バイカル)に「ザバイカル共和国」という反革命政権を樹立させました。

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セミョーノフは日本軍の命令で重要拠点のバイカル湖の掃討を命じられていました。

1918年9月にはチェコスロバキア軍団が陥したウファの町にロシア旧政府の残党が集まり、臨時全ロシア政府が樹立されました。ソヴィエト政権に対する本格的な攻勢が始まろうとしており、国際社会もこれに後押しをします。いわゆる、シベリア出兵の始まりです。

 

4. 列強の介入

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シベリア出兵の開始

シベリア出兵は建前は、「シベリアに取り残されたチェコスロバキア軍団を救出する」というもの。救出したチェコスロバキア軍団は西部戦線に再投入し、ドイツ軍・オーストリア=ハンガリー軍と戦わせる予定でした。

そのため参戦した国も当時の連合国が中心で、アメリカ、カナダ、日本、イギリス、フランス、イタリア。それに臨時全ロシア政府の白軍の兵も加わりました。

建前は「チェコスロバキア兵の救出」でしたが、本音は「ソヴィエト政権の打倒」にあったことはみなさんご存知のところ。特に熱心だったのは日本で、社会主義の触手が日本本土に伸びることを恐れ何としても食い止めたいという思いに加え、ロシア極東・中国東北部への権益拡大も狙っていました。

7月にはイギリス、8月には日本とアメリカ、9月にフランス、10月にカナダと列強の軍が続々とシベリアに到着します。日本軍、イギリス軍とチェコスロバキア軍団は協力してハバロフスク〜ウスリー川の赤軍と戦闘を行いました。

 

カザン陥落と金塊奪取

一方、まだウラル付近にいるペンザ・グループとチャリャビンスク・グループは、さらに捕虜を加えて戦力を増強して再編し、1918年8月に第3軍が結成され、以前から計画されていた第2軍も1918年10月に正式に発足しました。

チェコスロバキア軍団と白軍は7月14日にヴォルガ川を渡りカザンの町を制圧しました。この町は1917年12月にタタール諸部族が決起してイデル=ウラル国の建国を宣言したものの、赤軍に制圧されていた町でした。この町でチェコスロバキア軍団は赤軍がツァーの宮殿から奪って隠してあった金塊を発見。これをアレクサンドル・コルチャークの臨時全ロシア政府に引き渡しました。

 

▽アレクサンドル・コルチャーク

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しかし赤軍も徐々に反撃の体制を整え始めていました。

カザンの町は赤軍の猛攻を受けて9月10日に再度陥落。次いで臨時全ロシア政府の首都ウファも赤軍25,000の攻撃を受けて陥落しました。

そんな中、ヨーロッパで大きな動きが生じます。

ドイツとオーストリア=ハンガリー帝国が降伏し、第一次世界大戦が終結

そして、チェコスロバキアの独立が正式に承認されたのです。

 

5. 故郷へ帰国

 チェコスロバキア軍団の兵たちは、ドイツとオーストリア=ハンガリーと西部戦線で戦い祖国を解放することを目指して戦ってきました。

ここにきて、その大きな目標自体が喪失してしまったわけです。

 大戦の終了と祖国の独立のニュースが伝わると、白軍と赤軍の激しい戦いは続いていたものの、チェコスロバキア軍団の兵たちは「すぐに祖国に帰国したい」と士気は極端に下がっていました。

しかし、ボリシェビキ打倒を目指す干渉軍とコルチャークの白軍は、歴戦の兵であるチェコスロバキア軍団兵をそう易々と帰国させたくはないわけです。

赤軍の攻勢とパルチザンの展開は活発になっていました。

特にマリンスクとニジニ・ウディンスク付近のタイガ地帯は危険な場所でしたが、なんとか故郷と連絡を取ろうと1919年5月に第3軍7,000がニジニ・ウディンスクの南に向かい電信を確保。詳細な居場所を祖国に伝達することに成功しました。

チェコスロバキア大統領のマサリクは、すぐに軍団兵に故国に帰るように指令を出し、国際社会に協力を求めます。

一方で白軍のコルチャークはウラル地帯と首都ウファを取り戻すべく大攻勢をかけますが失敗。東へ撤退し首都をオムスクに移します。白軍の戦力がジリ貧になってくると、列強の干渉軍も日本軍を除いて撤退してしまいます。

コルチャークの白軍と一緒にチェコスロバキア軍団も東へ撤退しますが、寒さと飢え、病気に襲われ、赤軍のゲリラにも襲われその行軍は酷いものでした。

 

チェコスロバキア兵はコルチャークに完全に愛想をつかしていました。もうこれ以上奴には付き合いきれない。

1920年1月、ヤン・スィロヴィ率いる第6ライフル師団がコルチャークを捕らえ、そのまま赤軍に引き渡してしまいました。

コルチャークはすぐに赤軍によって銃殺されてしまい、指導者を失った全ロシア臨時政府は崩壊。これがきっかけで白軍は空中分解し、ロシア内戦は赤軍の勝利が決定的となりました。

1920年3月、全てのチェコスロバキア軍団兵がイルクーツクに到着。順次列車でウラジオストクまで移動し船でヨーロッパまで帰国の途につきました。最後の兵がイルクーツクを出発したのは半年後の9月のことです。

第一次世界大戦とロシア内戦で、チェコスロバキア兵は4,112名の死亡が確認されていますが、行方不明者は「多数」としか分かりません。確実に数万に上るでしょう。

帰国できたのは総勢67,730名。内訳は戦闘員56,459名で、民間人11,271名。民間人は軍団兵の妻子を含んでおり、この戦いの中で1,600名が現地妻を娶って子供を儲けていたのでした。

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まとめ

 祖国解放の理想に燃え参戦したチェコスロバキアの男たちでしたが、革命とロシア内戦に遭遇してしまい、広大なロシアの大地で孤軍奮闘することになってしまいます。

西部戦線への参加を望んでいたにも関わらずとうとう間に合わず、国もすでに独立してしまっていました。ここまで運命に翻弄された軍団もそうそうないのではないでしょうか。

 しかしチェコスロバキア軍団は帰国後は新国家の国防や政治、教育、産業を担っていくことになります。

彼らの祖国への思いと献身があってこそ、現在のチェコとスロバキア国家はあるといって間違いないでしょう。

 

参考文献
"The Czech Legion 1914–20" David Bullock

"THE CZECHOSLOVAK LEGIONS: MYTH, REALITY, GOLD AND GLORY" Czech Radio