歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

歴ログ-世界史専門ブログ-は「はてなブログ」での更新を停止しました。
引き続きnoteのほうで活動を続けて参ります。引き続きよろしくお願いします。
noteはこちら

【右翼】大トルコ民族主義の発生と展開

f:id:titioya:20151003160251j:plain

 Photo from THE GURDIAN, photo by Carsten Koall/AFP/Getty Images Carsten Koall/Getty

日本人の想像よりもはるかに強いトルコ民族主義

トルコの人たちは大変に愛国心が強いです。

ぼくもトルコの友人が多くいてSNSでつながってるんですけど、

国の記念日になるとみんな、アタチュルクの肖像とか国旗をシェアして、タイムラインが真っ赤に染まってしまいます。

おんなじことを日本人がやったら、ドン引きされちゃいますね。

ごく普通の人たちですらそれですから、トルコで右派と言われる人はスーパーナショナリストです。

今回は、我々からすると目がくらむような強烈なナショナリズムはどこから発生したのかを辿って行きたいと思います。

 

記事三行要約

  • オスマン帝国の衰退によって、人びとは新たなアイデンティティの模索を余儀なくされた
  • 中央アジアに起源を持つトルコ民族のアイデンティティがクローズアップされた
  • ロシア・ソ連に弾圧される中央アジアのトルコ系民族との大同団結を図る民族主義が台頭した

 

 

1. トルコの右派はどんな連中か

f:id:titioya:20151003162207p:plain

Work by Nub Cake

右派政党・民族主義者行動党(MHP)

現在のトルコの主要政党で、トルコ・ナショナリズムを全面に押し出し、ナショナリストたちの票の受け皿となっているのが、1969年設立の右派政党・民族主義者行動党。

2015年の国政選挙では、公正発展党(AKP)、共和人民党(CHP)、国民民主主義党(HDP)に次ぐ第4党。定員550の議席のうち、79の議席を持ちます。

創立者はキプロス出身の軍人、アルパスラン・テュルケシュ。

彼はトルコ民族・トルコ文化の優越性を訴え、1968年に「分離主義者」と対決すべく武装組織「灰色の狼」を設立しました。

f:id:titioya:20151003162413p:plain

狼はトルコ民族の始祖伝説に登場する雌狼のことで、彼らは1969年以降、親ソ派の左派学生や教師、知識人に対してテロを敢行。左派からも報復攻撃があり、血で血を洗う暴力沙汰に発展していきました。

一方でテュルケシュは親団体として「民族主義者行動党(MHP)」を設立。トルコ・ナショナリズムを押し出した政治活動で支持を広げ、特に貧しく少数民族問題を抱える東部地域で高い支持を得ています。

急進的民族主義者はトルコ民族の大同団結をその思想の根本にしています。

具体的には、以下の青い箇所に住むトルコ系民族との連帯と、チャンスがあれば政治的統合を目指すのがその基本原理。

f:id:titioya:20151003192730p:plain

Work by Atilim Gunes Baydin

2015年7月、タイ政府がウイグル自治区からの亡命者を中国に強制送還した際、タイ領事館が暴徒に襲撃を受け一時閉鎖する騒ぎになりましたが、犯人は右派の民族主義者たちです。

MHPは政治的には現実路線を打ち出しているものの、このような民族主義者を支持母体としています。

このような民族主義政党はどこの国にも見られますが、トルコではキャスティングボートを握るほど大きな勢力を誇り、安定した支持基盤があるのが特徴的です。

ではなぜ、MHPのような右翼勢力が広く支持を得られる土壌ができているのでしょうか。

 

2. 「オスマン人」の没落 

f:id:titioya:20151003171742j:plain

2-1. デヴルシメ制度とミッレト制度

13世紀末から20世紀初頭にかけて大帝国を築いたオスマン・トルコは、最盛期にはアナトリア半島を中心に、イランを除く西アジア、バルカン半島、北アフリカまで広大な土地を支配。

ムハンマドから続くカリフを擁するイスラムの盟主であり、広大な地域に住む多種多様な民族・宗教・宗派を含む多民族・多宗教国家でありました。

帝国の中で上位層を築いたのは非トルコ系のキリスト教徒奴隷で、若いうちから皇帝直下の軍団や官僚予備軍として教育を受け、皇帝に忠実なエリートとなっていきました。これはデヴルシメ制度と呼ばれるもので、支配層を形成したエリートたちは「自分たちは他の粗野なトルコ人とは違う」という独自の「オスマン人」意識を形成していました。

一方で、トルコ人を含むイスラム教徒の非支配者層は民族意識はなく、漠然と「イスラム教徒で、所属は◯◯地区」みたいな意識を持っていました。

同じく非支配層を形成する非ムスリムはそれぞれの宗派の教会組織を通じて支配をされていたため、漠然と「◯◯地区のギリシア教会所属」みたいな意識でいたようです。

 

2-2. 帝国の斜陽・民族意識の向上

18世紀中頃以降、バルカン半島諸地域は西・中央ヨーロッパの帝国との経済的結びつきを強めていき、ヨーロッパの最新の思想を受け入れて徐々に民族意識を向上させていきます。

以降、帝国のキリスト教徒による独立運動の激化と、ヨーロッパからの政治的・軍事的圧迫は強くなり、皇帝はとうとう重い腰を上げて近代化に着手することとなります。

ところが改革でトクをしたのは非ムスリムのキリスト教徒で、トルコ人を含む大多数のムスリムは経済的にも隷属状態に置かれ、伝統社会を破壊されてふんだり蹴ったり。

こんなはずはない。オスマン・トルコは我々の国だ。この国の主人公は我々、オスマン人だ!

19世紀半ば、そう考えるヨーロッパ帰りのインテリ層を中心に「新オスマン人協会」が設立され、自由と平等に基づく立憲制を主張する政治運動をスタートさせました。

彼らの意識する「オスマン人」「トルコ人」とは、帝国に住む人びと全てを指しており、オスマン・トルコの政治的維持を目指したもの。

アラブ人だろうがギリシャ人だろうが、彼らからするとオスマン人であり、トルコ人でありました。

 

アブデュルハミト2世のパン・イスラム主義

f:id:titioya:20151003192606j:plain

エリートたちによる「オスマン人」運動は、アブデュルハミト2世に議会の開設と憲法の発布を認めさせましたが、露土戦争勃発で結局皇帝による専制政治が復活してしまい、改革半ばで挫折してしまいました。

アブデュルハミト2世はパン・イスラム主義を掲げ、当時イスラム改革指導者として人気のあったアフガーニーの思想に乗っかり、帝国を護ることはイスラムを護ることである、のような文脈で帝国内外のムスリムの求心力を高めようとしました

アブデュルハミト2世の視野にはもうバルカン半島やキリスト教徒は写っておらず、アナトリア半島を含む、北アフリカ、西アジアの維持を目指していました。

 

3. トルコ民族主義とパン・トルコ主義

f:id:titioya:20151003192452p:plain

18世紀半ばから「オスマン人運動」や「パン・イスラム運動」とはまた違う、新たな運動が起ころうとしていました。

それが後の1908年に青年人トルコ革命を起こしイニシアチブを握る、トルコ民族主義運動です。

運動の主人公は、若い青年将校、知識人、下級官僚など、これまでのエリートとは異なる、エリートだけどより民衆の側に近い人たちでした。

彼らはバルカン半島の民族主義運動に影響を受けて、帝国内のアラブ人やギリシャ人と自分たちは違う、タタールを先祖に持つトルコ人との意識を持ち始めました。

彼らの背後には、キリスト教資本家の進出に苛立つトルコ系資本家がおり、事態を打開しきれないオスマン帝国への諦めと、新勢力への期待があったわけです。オスマン人運動が上からだとしたら、これは下からの運動です。

彼らの視野からはバルカン半島はおろか、北アフリカや西アジアも除外されていました。

 

3-1. ロシアのトルコ民族の大量亡命

さらに、トルコ人のトルコ人意識を大きく変えたのが、東方ロシアの政治的影響でした。

民族主義の高揚は帝政ロシアでも盛んで、その影響で帝政ロシアでは領内に住むトルコ系民族の大弾圧が発生。

1856年には、クリミア半島に住むクリミア・タタール人が暴力的に土地を剥奪され、14万人もオスマン帝国に亡命する事件も起きていました。

悲惨な状態にあるロシアのトルコ系民族は、オスマン帝国の精神的指導のもとロシア帝国内のトルコ諸民族を糾合して弾圧に抵抗すべく、トルコ民族の大統合を模索するようになりました。

青年トルコ革命後トルコ系アゼリー人など、ロシアからの亡命者が相次いでイスタンブールに入り、機関誌「母国トルコ」を発刊。ロシアのトルコ系民族との連帯を訴えるようになりました。

 

3-2. トルコ民族の国土はトゥランなり!

f:id:titioya:20151003193447j:plain

パン・トルコ主義の精神的主柱になった思想家が、ズィヤ・ギュカルプ(1876〜1924)。

彼の最も偉大な功績は、それまでオスマン人意識やイスラム意識の中で揺れていたトルコ・ナショナリズムを理論化したことです。

ギュカルプはトルコ民族主義を推し進めることはイスラムの国際性を高めることになる、として民族主義とイスラム主義の合一化に成功

さらに、ヨーロッパ文明を受け入れることで逆にトルコ人がイスラム文明をヨーロッパに還流させることができ文明は発達する、と論理展開しトルコ人がヨーロッパ文明を受け入れることを良しとしました。

ギュカルプは1911年に発表した長編詩「トゥラン」において、

トルコ民族の国土はトルコに非ず、トルキスタンにも非ず、彼らが国土は広くして永遠成る土地トゥランなり

と述べました。このトゥランとは、「トルコ系民族の住む土地」という漠然とした意味を持つ言葉。

ギュカルプは、相次ぐ西洋列強の進出と経済的隷属で自信を失っていた同胞に対して、

「我々はムスリムでもなければ、オスマン人でもない。トルコ人だ。トゥランの土地に住むトルコ人で大同団結して列強に立ち向かおう」

と鼓舞をしたわけです。

 

4. エンヴェル・パシャの大トルコ帝国構想

f:id:titioya:20151003205448j:plain

4-1. 青年トルコ人、政権を奪取する

ギュカルプの思想を行動に移したのが、青年トルコ人政府のエンヴェル・パシャ。

オスマン・トルコは1911年のトリポリ戦争、1912年の第一次バルカン戦争にことごとく敗れたことでパン・オスマン主義者が衰退し、トルコ人主体の中央集権派が台頭。

1913年、青年トルコの将校たちはクーデーターを敢行して政権を奪取すると、トルコ人の主導によるオスマン帝国の保全を目指し「オスマン主義的パン・トルコ主義」を推し進めます。すなはち、アラブのトルコ化を進めると同時に、抵抗するアラブ民族主義者をことごとく弾圧しました

 

4-2. エンヴェル・パシャの夢

エンヴェル・パシャはこの時の「青年トルコ人」の中心人物で、1918年に参謀総長となり軍人としてのキャリアの最高峰に上り詰めました。

第一次世界大戦にドイツ、オーストリア=ハンガリーの側に立って参戦したオスマン・トルコは、敵となったロシアを内部から崩壊させるべく、ロシア領内のトルコ系民族に宣伝活動を強化しました。

エンヴェル・パシャの目的は、ロシアの後方撹乱だけではなかった。

混乱に乗じてロシア領内のトルコ諸民族を蜂起させ、救援する形でトルコ軍をロシア領内に展開。各地の勢力を吸収し大軍勢となって中央アジアのロシア領を東に横断しウイグルにまで到達する。

戦争に勝った暁には、西はエディルネから東はウイグルまでの広大な領土をオスマン・トルコ帝国に組み込み、首都をサマルカンドに置いた、トルコ人による「大トルコ帝国」を築くという壮大すぎる夢を持っていました。

 

4-3. エンヴェル・パシャの夢敗れる

f:id:titioya:20151003213301p:plain

1914年11月、この東征を実施すべくオスマン・トルコ軍約10万がカフカス地方に侵入(サマルカシュ作戦)。ロシア軍とロシア指揮下にあるアルメニア人部隊との戦闘に突入します。

慣れない寒さと兵站を無視した無謀な作戦の結果、トルコ軍は6〜7割が死亡するという悲劇的な結果に終わりました。また、この時アルメニア人との衝突が発生し、現在も国際的な論争になっている「アルメニア人虐殺事件」が発生したのもこの時です。

結局エンヴェル・パシャは指揮官の任から解かれ、戦後ベルリンに亡命。

その後、自分の夢を追ってさらにトルキスタンに移り、そこで反ソビエト運動「バスマチ」に加わり、「トルキスタンのエミール(支配者)」と名乗ったりしましたが、結局1922年にソビエト軍との戦闘で命を落としました。

 

5. 新生トルコのナショナリズム

f:id:titioya:20100922185043j:plain

5-1. 新たなトルコ民族の文脈構築

第一次世界大戦の敗北後、分割の危機に陥ったオスマン・トルコ。

大戦でも活躍した軍人ムスタファ・ケマルは、アナトリアのアンカラに入って「トルコ大国民議会」を設立し、連合国と連合国の傀儡状態となったオスマン帝国との戦闘に突入。圧倒的不利にも関わらず粘り強く戦闘を続け、とうとうギリシャ軍をイズミルから追放。奇跡的な勝利を収めた。

トルコ共和国を設立したケマルはオスマン王家を追放し、1924年にカリフ制を廃止しパン・イスラムと離別。さらには憲法の条文から「イスラムを国教とする」の文言を削除すらしました。

このように、「オスマン帝国的」「イスラム的」な過去の文脈をいずれも否定したトルコ共和国は、新たなイデオロギーの構築に迫られました。

それは、アナトリアの土地に根ざしたトルコ民族の文化の発掘と整理をすると同時に、オスマン帝国以前のトルコ民族史や、中央アジアのトルコ系民族の歴史や文化を研究することで、トルコ人の「過去」と「現在」をつなげようとする試みでありました。

 

5-2. 反コミュニズムとしてのパン・トルコ主義

ケマルが存命中はパン・トルコ主義は鳴りを潜めていましたが、第二次世界大戦に突入するとトルコ民族主義者の間で反コミュニズムの動きが広がります。

戦後、トルコはNATOに加入して西側陣営に与しましたが、反コミュニズムの文脈とトルコ民族解放を訴える声が合体し、

悪の共産主義の元で苦しむトルコ同胞を救出せよ

という戦後のパン・トルコ主義が完成しました。

そういう文脈で、冒頭に出てきた「灰色の狼」は左派を執拗に攻撃したわけです。

 

まとめ

このように、大トルコ民族主義の根は深いものがあります。

日本の民族主義はせいぜい、明治維新後の日本の行為の正当化と、連合国が構築した戦後秩序への反抗といった陰気でケチくさいものですが、

ユーラシアを横断するトルコ諸民族の大同団結を訴えるトルコ民族主義はスケールが大きくて、笑う以外にないくらい壮大です。

現実的には政治的統合なんて可能性はゼロに近いでしょうけど、 同胞の安全と発展を祈る素朴な感情は多くのトルコ人が持っているもの。

領事館襲撃はちょっとやり過ぎですけど、そこまで遠くの同胞を思う気持ちは我々にはちょっと持ち得ないものです。

他民族を大量に抱える空前の大帝国を築いて戦闘に明け暮れたトルコ民族と、ほぼ単一民族の島国の中でのんびりやっていた日本民族との相違を、良くも悪くも感じます。

 

参考文献:世界史への問い8 歴史のなかの地域 柴田三千雄 岩波書店

歴史のなかの地域 (シリーズ 世界史への問い 8)

歴史のなかの地域 (シリーズ 世界史への問い 8)