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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

なぜ西アフリカ諸国は奴隷貿易に加担したか

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奴隷貿易という究極の焼畑産業

今回はダークなテーマ「奴隷貿易」についてです。

奴隷貿易自体は古代から世界中のあらゆる地域で存在しましたが、それを主産業に据え、強力に推進したのは15世紀以降の西アフリカ諸王国でした。

彼らは近隣の王国に攻め入っては住民を引っ捕らえ、イギリスやスペイン、フランスに売却して武器などを買い取り、それを元にさらに奴隷獲得戦争に邁進していました。

売られた奴隷たちは南北アメリカ大陸に搬送され、プランテーション農園で働かされました。

西アフリカ諸王国は自分の肉を切って食うような行為を繰り返して栄えた挙げ句、結局列強に国を滅ぼされています。

彼らはなぜそのような、「究極の焼畑産業」に没頭したのでしょうか。 

 1. アフリカの伝統的な奴隷貿易

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時代や地域によって異なる奴隷の概念

「奴隷のようにこき使われる」といった表現があるように、我々が「奴隷」という言葉を聞くと、

自分の意志とは関わりなく、キツい仕事を無給でやらされ、人権が一切なく、死ぬまで社会的底辺で生きる

ようなニュアンスをイメージします。

しかし時代や地域によって、奴隷のあり方や概念も異なっていました。

例えば、アステカ文明では奴隷は結構自由な存在。

貴族や平民の所有物でしたが、保護は手厚く虐待は許されない。奴隷になる人も、例えば借金を抱えたり、軽い犯罪を犯したり、人に損害を与えてその弁償のため、などという理由で簡単に奴隷になって、金の支払いや贖罪が住めばまた平民に戻ったり、結構流動的だったようです。

伝統的にアフリカでも奴隷は権利が担保された存在で、

奪われる権利よりも残る権利の方が多く、奴隷の子孫も次の代になると平民として社会に吸収されるのが常でした。

一方で、アラブ人に買い取られ北アフリカや中東に売り飛ばされた奴隷は、我々が想像するような、人権を一切無視した過酷な労働に死ぬまで従事する生活が待っていました。

 

 

2.  16世紀頃の奴隷貿易

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黒人奴隷を喉から手が出るほど欲しがったポルトガル

16世紀以前にもヨーロッパには黒人奴隷はいましたが、それはほとんどがアラブ商人経由で売買されるもの。

中間マージンが鬼のように乗ったため、超高級品でした。

1443年、ポルトガルのエンリケ航海王子が派遣したヌノ・トリスタンが、アフリカ大西洋岸を航海してアフリカ人奴隷百数十人を持ち帰った際、人々は大熱狂し興奮の坩堝となったそうです。

それはポルトガルがアラブ人を経由しないで、莫大な富を生むアフリカに直接つながる道を手に入れたことを悟ったからでしょう。

 

対等な関係に基づく貿易

ポルトガルが本格的に奴隷貿易に乗り出した当初は、我々がイメージするような家畜を追い立てるような奴隷捕獲が行われたわけではありませんでした。

ギニア海岸地区はすでに、ベニン王国やコンゴ王国といった黒人による政治組織が高度に発達しており、彼らと対等な関係に基づいた貿易を行う必要がありました。

ヨーロッパ人はこれらの国の国王に貢物を捧げて謁見し、海岸に商館を置かせてもらうよう許可を得て、そこで地元の商人が運びこむ奴隷をめぐって売買交渉を行いました。

ごまかしや不正は一切許されなかった上、商館を置かせてもらうための王国への上納金も莫大なものとなりました。

また、ポルトガルに連れて来られた黒人奴隷も勅許によって特別の地位を保証されました。

彼らの代表は「ニグロ伯爵」といった呼び名で知られていたし、奴隷の身分から開放されて自由身分となり、工芸技術を取得してポルトガル女と結婚して、ポルトガル人となる者さえいました。

 

 

3. 奴隷貿易の美味しさに気づいたダホメー王国

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アフリカ的民主主義国・ダホメー王国

伝統的にギニア海岸地帯は、小さな地方の氏族が郷村単位で支配をしており、

たまに近隣を飲み込む強大な王国が現れ郷村の氏族を支配していき、同じような近隣の王国と絶えず勢力争いを繰り広げる、という歴史を繰り返していました。

15世紀ごろに現在のベナン付近で強大な勢力を持ったのがダホメー王国。

この王国は東のヨルバ人と西のアカン人の連合王国だったようで、優れた行政組織を持ち、外国貿易によって外貨を稼ぎ、それを軍事に転換する能力を保有していました。

ダホメーの王は非常に立場が弱く、実質的な裁量権は王族評議会と一般評議会にあり、これらの評議会は王を廃する権利すら持っていました。

王は即位の際に以下のように宣誓しなくてはなりませんでした。

住民は誰でも鬱積したものを王に投げつけることができる。…王が住民の意志に反する行為に出た場合、人々は王がそのために制限を受けたり、罰を受けることがありうると警告しなければならない

 

ダホメー王国の奴隷貿易

ダホメー王国は17世紀前半から近隣の首長を威圧して貢納を強要し、周辺に勢威を拡張しますが、17世紀後半になると近隣の諸部族との衝突もあり、これまでの拡張政策に限界が見えてきました。

この頃、ダホメーの海外地区に隣接するウィダー、ジャキン、アラーダといった氏族が、ギニア湾岸に進出してきたポルトガル人と奴隷貿易に乗り出し始めました。

その時の奴隷は、北方の小部族への襲撃により獲得してきた捕虜を売り払っていましたが、ダホメーの王は「これはカネになる」と気づいたのでしょう。

1716年だけでもフランス人に6,000人、イギリス人とポルトガル人に7,000人、オランダ人には1,500人の奴隷を輸出しています。

その後ダホメー王国は直接貿易を望み、ウィダーやアラーダを武力制圧し奴隷貿易に本格的に乗り出しました。

 

殺して食うため?

当時のアフリカ人たちは、なぜヨーロッパ人がそこまでして奴隷を求めるのか理解できず、きっと「食用」だろうと考えていたフシがあります。

奴隷貿易行に従事していたフランス人ジョン・バボットが1683年頃に記した手記には

我々がアフリカからアメリカ大陸に運ぶ奴隷の多くのあいだでは、殺して食うためだと信じているものが多い

と記されています。

 

 

4. アクワム王国とアシャンティ王国

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 内陸出身アクワム王国の拡張

現在のガーナ付近も、ダホメー王国のように小規模な氏族単位での統治が基本でした。

またガーナでは、北方にはダゴンバ人、ゴンジャ人。海岸地域にはンズイマ人、フアンティ人。中央にはアカン語系諸民族など、多種多様な民族が混在していました。

16世紀後半から力をつけたのが、内陸マンデ系のアクワム王国

内陸出身の彼らは、アシャンティやデンキエラ等、東西の諸王国との争いを避け、海岸部を目指して制覇行を続けました。

1677年に海岸部にあるガ国の首都アックラを襲い、後に併合。

ヨーロッパ人と直接貿易を行うための拠点を手に入れたアクワム王国は、各地の制覇行で手に入れた捕虜を売り払い、その代わりにヨーロッパ人から武器を入手しました。

18世紀初頭にはアクワム王国は強大になり、湾岸のヨーロッパ商館もアクワムの権威を認め、王の保護を条件に各20ポンドの黄金の取引につき1オンスを支払っていました。

しかし1733年には無理な遠征がたたり、アクワムはアキム国との戦争に敗れ、一気に覇権国の地位から転がり落ちてしまいます。 

 

奴隷貿易で繁栄したアシャンティ王国

アクワム王国に変わって覇権を握ったのが中部アカン語系のアシャンティ王国。

1700年、アシャンティ王国は強力なリーダーであったオセイ・トウトウ王に率いられデンキエラ王国を破り、海岸地帯を支配下に置き奴隷貿易に本格的に着手します。

18世紀前半に登場したオプク・ワレ王の時代には、北のゴンジャ王国やダゴンバ王国といった辺境王国まで版図に入れ、それら辺境諸王国から奴隷を入手しては海岸地方でヨーロッパ各国に売りさばいていました

18世紀末にはアシャンティ王国は東西200キロ、南北150キロにまたがる広大な版図を持ち、さらにその外に数多くの従属国を従えていました。

 

列強によるアシャンティ王国侵略

1869年ごろ、フランスがギニア湾北部に攻め入り、諸部族国を制圧して次々と支配下に収めていました。

イギリスも負けじと軍隊を派遣し、アシャンティ王国とたびたび衝突します。当時のアシャンティ王メンサ・ボンスウはこれ以上のイギリスとの戦闘を望まず妥協しようとしたため評議会は王を罷免。宥和派と強硬派とで10年もの間内戦が続きます。

結局強硬派が勝利し、彼らが任命するプレムベー・クマシが王に就任しますが、イギリスはアシャンティが条約を履行していないと難癖をつけて攻め入り、イギリスの保護下に無理やり組み入れてしまいました。

当時の西アフリカは、列強による植民地獲得競争の「狩り場」であり、

「自分が取らないと誰かが取るから、取れるんなら取っておけ」

的な状態でした。

 

 

5. 新大陸でのニーズの高まる奴隷

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労働力が不足するアメリカ大陸 

16世紀以降、アメリカ大陸のヨーロッパの進出と、それに伴う農場や金鉱・銀鉱の大規模開発は、初期の頃から圧倒的な労働力不足に悩まされていました。

そもそもスペイン人がインディオを殺しまくったのが原因なのですが、ともかく無いものは補うしかない。

1510年にはスペイン人によって大量のアフリカ人奴隷が西インド諸島に送り込まれ始めました。まずは50名。次に200名。1518年には4,000人にも達しました。

船のテクノロジーが進歩しないのに量だけが増えると、必然的に「積載物」 の取り扱いの質が下がっていく結果となります。

奴隷たちが船中で受けた扱いは最悪のもので、逃亡したり反抗したりする者もいましたが、それでも貿易量は年々増加。

武器をアフリカに売り、その資金で奴隷を買い、アメリカ大陸で売買。アメリカでは金銀や砂糖、タバコを購入し、ヨーロッパに持ち帰る。

この三角貿易がスペインやポルトガルにもたらす富は莫大でした。

そしてますます大量の武器をアフリカに持ち込み、アフリカの諸王国はそれらの武器を使ってますます戦争を拡大して奴隷を調達する、という悲劇が生む富の連鎖が生まれたのでした。

 

6. アフリカ海岸地帯の荒廃

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奴隷貿易で潤うイギリスとフランス 

17世紀以降、スペインとポルトガルの代わりに奴隷貿易の主役に踊りでたのは、イギリスとフランスでした。

新大陸での砂糖とタバコの栽培は両国の国庫を大いに潤したため、奴隷貿易は政府肝いりの国家事業として進められました。

1670年の勅令でフランス国王がこう述べています。

ニグロの労働力以上に…これら植民の成長を助けるものはない

フランスはこの時、年間3,000人以上の奴隷を新大陸に運んでいました。

イギリスでも奴隷積載船のニーズが増し、リヴァプールの造船業は急速に成長。

対アフリカ販売用として、マンチェスターの綿工業も大いに湧きました。

 

荒廃する西アフリカ諸国

一方で、自国の人々を売るという「究極の焼畑」を長い間続けていた西アフリカ諸国は荒廃する一方。

最も儲かる産業が奴隷貿易だったため、伝統的な手工業は長い間のうちに忘れさられ、農業以外に大部分の人が食っていく産業がない。当然、内陸の物流はストップ。

また住民が連れ去られた後の村落や田畑は荒れ果て、特に辺境の内陸地方はいくつもの村が壊滅。多くの民族と伝統文化が失われたでしょう。

また売った側と売られた側の対立も激しくなり、伝統的な民族対立が先鋭化し武力衝突に発展。

すると、平和維持のためと称して列強が介入し支配を強め、キリスト教を建前とした完璧な収奪システムを築き上げる

地獄とはこういう状態のことを指すのかとすら思います。 

 

 

 

まとめ

世界史の暗部とも言える奴隷貿易を切り込んで書いてみました。

利益を追求し、強いものが弱いものをひたすら収奪する巨大な怪物のようなシステムが冷徹に命をカネに変えていく様を見ると、こういう状態を打破するためにラディカルな社会主義が生まれ発展していったのも、なんとなくわかる気がします。

しかしここまで露骨じゃないにしても、現代でも似たような収奪のシステムは存在するし、命をカネに変える仕組みが本質的に資本主義に備わっている以上、完全にこれを無くす方法はないでしょうから、最後は人間の理性がどれだけ発揮されるかに委ねられるのではないかと思っています。 

 

参考文献:世界の歴史6黒い大陸の栄光と悲惨 講談社

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