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ボーア戦争(2)- 第二次ボーア戦争の勃発、苦戦する英軍

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地下資源を巡る利権争いから第二次ボーア戦争勃発へ 

完全独立を要求する南アフリカのボーア人(アフリカーナー)と、ダイヤモンドなどの地下資源の独占を狙うイギリスの戦いの歴史です。

イギリスの支配を嫌がり北に逃げたボーア人ですが、南アフリカ全土の支配を目論むイギリスは強制的にトランスヴァール共和国の併合を宣言。第一次ボーア戦争が勃発します。戦争はトランスヴァールの勝利に終わりますが、講和はイギリスの勝利に終わった形でした。前回の記事はこちらからご覧ください。

その後南アフリカの地を巡る利権争いは激化し、とうとう第二次ボーア戦争が勃発するに至ります。 

4. 金鉱脈の発見

 1886年、トランスヴァール共和国・ヨハネスブルグ西方の町ラントで世界有数の金鉱脈が発見されました。

すぐに多くのゴールド・ハンターが流れ込み、ゴールドラッシュがスタート。ボーア系住民も7,000人がラントに移住しますが、イギリス系は2万人もの住民が移住し、町の多数派になってしまいます。さらにセシル・ローズらのイギリス系大資本が本格的に金採掘に参入し、ますますイギリス系がトランスヴァール内で力を付けていきました。

トランスヴァールのイギリス系は、アイットランダーズ(外国人)と呼ばれ、イギリスと結託しトランスヴァール政府と鋭く対立していくことになります。

 

南アフリカの金は地下深くに眠っており、しかも含有率が低かったので、充分な利益を出すには「大量の人手」と「多額の資本」が必要でした。

そのため資本力のあるイギリス系が生き残り、ボーア系やドイツ系の資本は後に撤退を迫られることになります。

1890年にケープ首相に就任したセシル・ローズは、金採掘の安価な労働力確保を目指し、1894年に「グレン・グレイ法」を成立させました。

これは家長以外の土地を持たない黒人に年1回以上の居住区以外での労働を義務付け、従わない場合は罰金を課すというもので、後のアパルトヘイト政策の骨格となるものでした。

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5.イギリス・トランスヴァール関係の悪化

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ジェームソン侵入事件

トランスヴァール共和国政府は、採掘に使うダイナマイト販売を国で独占し多額の税をかけました。その多くはドイツからの輸入品で、共和国内の鉱山ではドイツ製を使うことが義務付けられ、アイットランダーズは費用の高さに不満を持っていました。

 

さらに当時、トランスヴァール政府は金や農産物をイギリス領を通過せずに港に卸して輸出すべく、トランスヴァールとドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)とドイツ領東アフリカ(現タンザニア)を鉄道で繋ぐ計画が立てられました。

トランスヴァールとドイツは結託しており、ドイツはセシル・ローズの「ケープからカイロまで」戦略の妨害を企てていたのでした。

1894年に完成したデラゴア鉄道は、プレトリアと中立国ポルトガル領モザンビークのロレンソ・マルケス(現マプト)を結ぶもので、セシル・ローズはロレンソ・マルケスの買収をポルトガルに提案するなど抵抗しますが結局果たせず、イギリスとトランスヴァール&ドイツ間の対立は激化していきました。

 

そんな中、セシル・ローズは友人のジェームソンと共和国のアイットランダーズと共謀し、反共和国政府の反乱を起こして武力によりイギリス系資本とイギリス系住民による共和国独占を目論みました。いわゆる「ジェームソン侵入事件」です。

1895年12月、ジェームソンらはイギリス系やアイットランダーズを集めて蜂起するのですが、兵力は当初予定の2万人から大幅に下回る500人で、銃も予定の半分しか集められず、完全な準備不足のままトランスヴァールに侵入しました。

 果たして、ジェームス軍はトランスヴァール軍に一蹴され、死者134名を出し残りは全員捕虜になりました。この企みの失敗でセシル・ローズはケープ政界から追い落とされ、イギリス政府は「ジェームスの事件と我が国政府は何ら関係がない」と釈明を繰り返すしかなかったのでした。

 

タカ派アルフレッド・ミルナーのケープ長官就任

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1897年8月、保守党出身で元エジプト財務次官のアルフレッド・ミルナーがケープ植民地長官に就任しました。

セシル・ローズは「ケープ、ナタール、トランスヴァール、ローデシアの植民地自治論者」で、大英帝国の介入を嫌い独自に植民との経営を目指す立場でしたが、ミルナーは「大英帝国の一部としての南アフリカ合衆国の建設」を目指す立場でした。

ミルナーは新聞を活用し「イギリスによるトランスヴァールの完全併合」の世論を作るキャンペーンを展開。共和国のアイットランダーズを奮起させます。

そうして世論が盛り上がったタイミングで、ミルナーはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国との会議の中で「アイットランダーズの市民権獲得のためには武力行使も辞さない」としました。

イギリス植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは、ジェームソン侵入事件以来慎重だったトランスヴァールへの介入の方針を撤回し、強硬派ミルナーの意見を受け入れ「トランスヴァール併合戦争」の方針に動いていきました。

 

 

6. 第二次ボーア戦争の勃発

最後通牒

イギリスは着々と戦争の準備を進め、相対するトランスヴァール共和国もオレンジ自由国も戦争が不可避であることを悟り、ドイツやフランスからの武器の輸入を開始。

先に最後通牒を出したのはトランスヴァール。

  1. 係争の問題はすべて仲介裁判所によって処理されること
  2. 共和国国境のイギリス軍を即時撤退させること
  3. 6月1日以降に到着したイギリス軍増援部隊を南アフリカより撤退させること
  4. 現在輸送中にイギリス軍を南アフリカに上陸させないこと

 48時間以内に回答がない場合は宣戦布告とみなす、というもの。

そしてイギリスによる回答はなく、1899年10月に第二次ボーア戦争が勃発したのでした。

開戦当初のボーア側の兵力は約5万。ドイツからの武器の援助があったものの、イギリス軍が圧倒的に有利で、イギリス国内では「2ヶ月以内にプレトリアを占領できる」という楽観論が支配的でした。しかし、予想に反してボーア側の抵抗が凄まじく、この戦争は3年半以上も続くことになります。

 

初戦・苦戦するイギリス軍

最初の本格的な戦闘は、ナタールのタラナ丘陵での戦闘でした。

老将軍ジュベールの指揮の元、ボーア3個軍団約4,000が、レディースミスとダンディーのイギリス軍の合流を妨害すべく、追いついて襲撃するという作戦。

ボーア軍ウォルラマンズ少佐の1,500名はタラナ・ヒルに到着し、イギリス軍に丘の上から攻撃を加えました。

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 まったく不意を突かれたイギリス軍のペン・シモンズの旅団は、始めは混乱するものの、隊を立て直し丘を占領。しかしこの戦いではボーア軍の死者が150名でったのに対し、イギリス軍の死者は500名にも上りました。しかしイギリス側はこれを勝利として大々的に報じたのでした。

 その後もイギリス軍の苦戦は続きます。

 イギリス軍は守備隊駐屯都市として、ナタール北部のレディースミスという町を選び、この地からフランク・カールトン大佐は、1,120名の部下を率いてニコルソン峠に向かって進軍していました。ところが荷駄のラバが逃亡し、補給を失った隊はレディースミスに撤退を始めました。ここにボーア軍500〜1,000が襲いかかり猛烈な発砲を浴びせ、イギリス軍は死者38名、捕虜1,000名を出す文字通りの大敗を喫しました。

大勝利したボーア軍はレディースミスを包囲し、イギリス軍1万1,000がレディースミスで孤立することになってしまいました。 

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7. 「ブラック・ウィーク」

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シュトルムベルクの戦い

1899年11月末、ボーア第二軍はオレンジ川にかかる橋を渡ってシュトルムベルクに向かって南進を続けていました。これを迎え撃つイギリス軍は、ジョン・フレンチ少将の西部軍とウィリアム・ガタクル中尉の東部軍。

シュトルムベルクから12.8キロの距離にあるモルテノまで行軍をした東部軍は夜中に目的地から3キロほど外れた地帯に辿り着き、長い行軍で疲れた隊はその場で休息をしました。しかしそこはボーア部隊2個の中間地帯にある危険な場所。

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果たして、夜明け後にボーア軍約800名から激しい攻撃が始まりました。数発の榴散弾が爆発しヘンリー・イーガー中佐ら7名が負傷し、残された者は斜面を駆け下りて逃亡。イギリス軍により農地を荒らされたボーア農民も武器を持って襲撃を開始し、1時間半の戦闘でイギリス軍は死亡約135名、行方不明571名を出す大敗を喫したのでした。

 

マゲルスフォンテンの戦い

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シュトルムベルクの戦いの翌日に、キンバリー南東部のマゲルスフォンテンにて、ボーア軍8,000とイギリス軍8,000の戦いが始まりました。イギリス軍司令官はアンディ・ワウチャウプ少将で、アフリカの現地勢力との戦いの経験を多く持ったベテランの司令官。

イギリス軍ハイランド旅団4,000が12月11日未明、雨の降る中をコプジェに向かって進軍していました。ボーア軍は塹壕に隠れてイギリス軍の接近を待っており、ブリキ缶のトラップの音を合図に一斉に攻撃を開始しました。

至近距離からの一斉砲撃は凄まじく、ハイランド旅団の将校たちは1/4以上が死傷。総勢971名が死傷。一方でボーア軍はその1/4たらずの死傷者でした。

この敗北はイギリス軍は強い衝撃を与え、キンバリーやマフェキングの包囲が続いているにも関わらず、全面的な撤退を迫られることになったのでした。

 

コレンゾの戦い

ボーア軍の老将軍ジュベールから第三軍を引き継いだのは、37歳の将軍ルイー・ボータ。ボータはイギリス軍ビューラー将軍率いる2万の大軍がレディースミスの救援のためにコレンゾの近くを通ることを予測し、歩兵・砲兵・榴弾兵からなる部隊を待機させました。

そして12月15日早朝、ビューラーの旅団がツゲラ川の方角に進行中の時に、ボーア側の砲弾が着弾。同時に、待機していたボーア小銃隊の発砲が開始され、イギリス軍のロング砲兵隊は善戦したものの、退却を余儀なくされます。

次いで到着したハート少将の第二ダブリン歩兵連隊は、ツゲラ川を渡ろうとするも浅瀬が見つからず、川沿いに行軍を続け、これが原因でボーア狙撃兵の格好の的になってしまい、532名のうち216名が死傷する最悪の結果を招きました。

さらには、右翼から進軍してきたダンドナルド隊も、ボーア軍の突然の発砲により狼狽し多くの犠牲者を出しました。

このコレンゾの戦いでイギリス軍は1,139名が死傷し戦争始まって以来の最大の犠牲者を出した一方で、ボーア軍の死傷者はわずか29名

「イギリス軍がそれまで従事した中で最も不幸な戦闘の一つであり、そこで展開されたもの以上に嘆かわしい戦略的表示というものは見られなかった」と酷評されました

 

これら一連の敗北は「ブラック・ウィーク」と呼ばれ、イギリス国民に怒りをかきたて、「ボーア戦争は大英帝国の威信をかけ、何としてでもボーアを叩き潰さねばならない」という世論が沸騰。

ブラック・ウィークをきっかけに、イングランドからだけではなく、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、ビルマなど、大英帝国の各地から義勇兵の募集がかかり、文字通り「大英帝国の戦争」となっていったのでした。

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つなぎ

 相次いで発見されたトランスヴァール共和国とオレンジ自由国の地下資源。

イギリスは資源の独占を狙い、露骨な干渉を続け、とうとう武力で奪い取ることにしたのでした。初戦は兵数・武器の質共に劣るものの、地の利があるボーア側が有利で、イギリスに痛打を与えました。

 しかし、戦争の後半になると物量に勝るイギリスが戦争を優位に進め、ボーア側はゲリラ戦に打って出ることになります。

20世紀前半の「ベトナム」が始まろうとしていました。

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参考文献

 ボーア戦争 岡倉登志 山川出版社

ボーア戦争

ボーア戦争