歴ログ -世界史専門ブログ-

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【痛快!】弱いやつらの大勝利 7選【戦い】

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出典 24.media.tumblr.com

弱いやつが強いやつに勝つ!!

相撲で小兵を応援したり、甲子園で公立高校を応援したり、

日本人は「弱いやつが強いやつに勝つ」というストーリーが好きですよね。

判官びいきと言いますが、英語でも同じ意味で"side with the underdog"という表現があって、弱い方を応援するのはどの民族も変わりないようです。

このエントリーでは、その「弱いやつが強いやつを倒す」を、国家規模のでかいスケールでやった事例を紹介します。

 

1.アドワの戦い エチオピア vs イタリア

 

結果:エチオピア帝国の勝利

帝国主義競争に遅れて参戦したイタリアは、アフリカ植民地としてエリトリア・ソマリアを獲得し、次にエチオピアに狙いを定めていた。

1889年の紛争時から軍隊を駐留させていたイタリア軍は、エチオピアを一気に弱体化させるべく、17,978人の軍隊をアドワに派遣した。1896年のことである。

襲いかかるエチオピア軍12万人

ところが、指揮官が文官出身者であったり、武器が古かったり、地図や通信機器がお粗末すぎたり、まともに戦闘できる状態ではなかった。士気も低く、ベテランはホームシックで、新兵はまともな訓練も受けていない状態。

アドワは山に囲まれ川が流れる狭い平野。その中をイタリア軍は不正確な地図を持って夜行進軍していた。そこにメネリク2世が率いるエチオピア軍12万人が襲いかかった。

イタリア軍は大混乱に陥り、7,000人の死者を出して撤退。その後イタリアはエチオピア帝国を承認し、その後のムッソリーニの登場までエチオピアは独立を維持した。

 

2.レッドクラウド戦争 スー族・シャイアン族 vs アメリカ

 

結果:スー族、シャイアン族の勝利 

1863年にアメリカ西部モンタナで金鉱脈が発見され、西海岸がゴールドラッシュで沸き立った。全米各地から一攫千金を夢見る者達が西海岸へ向かったが、その最短ルートがスー族などのアメリカインディアンが保有している、残り少ない貴重な狩り場"パウダー川"であった。

通行者の安全のためと称し、アメリカ政府は部隊を派遣しパウダー川流域に砦を建設。

スー族、シャイアン族を始めとするインディアン部族は、木材伐採隊や郵便配達員、移住者などを襲撃し、砦付近の人の流れを止める作戦に出た。

 挑発に乗って追いかけたそこには…

1866年12月、木材伐採隊が襲撃を受けたとの通報を受け、アメリカ軍は81名の部隊で救援に向かった。

すると、尾根の上に騎馬姿のスー族の戦士が数人。

彼らはアメリカ軍を挑発するように馬上で尻をまくり、尾根の向こうに走り去った。

部隊は挑発に乗って尾根を超えて追撃を試みたが、そこには1,000〜2,000人とも推定されるインディアンの戦士が待ち構えていた。あとは一方的な虐殺であったと推定される。

この敗北によって方面軍将軍クックが解任されるが、最終的に狩り場は白人によって奪われてしまった。

 

3.リトルビッグホーンの戦い ラコタ族・シャイアン族・アラポホ族 vs アメリカ

 

結果:ラコタ族、シャイアン族、アラパホ族の勝利

 1874年、当時の大統領グラントのインディアン政策に反発をするミズーリ軍管区司令官フィル・シェリダンは、カスター将軍に命じてインディアン掃討作戦を実施。当時のインディアンは、シッティング・ブルやクレージー・ホースなど、有名な戦士のもと諸部族が団結してアメリカとの戦いに挑んでいた。

挟み撃ちにあいカスター将軍含め全員討ち死に

功をあせるカスターは、慎重に行くべきという助言を無視し総攻撃をかける。 

インディアン部族連合は、アメリカ軍よりも兵士の数・弾薬の数ともに多かった。カスター隊225名は、スー族の戦士ゴールの隊を追いかけるうち、退却口にも回り込まれ全員討ち死にした。

 

4.ガリポリの戦い オスマントルコ vs イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージーランド

 

結果:オスマントルコの勝利

第一次世界大戦、オスマントルコは同盟国側として戦争に参加し、イギリスやフランス、ロシアを敵に回し戦っていた。

イギリス海軍大臣チャーチルは、トルコのガリポリから進撃しインスタンブールを占領し、ダーダネルス海峡を連合国が通過できるようにすることで、ロシア軍との協力作戦を可能にする作戦をたてた。

オスマン軍の頑強な抵抗により撤兵

1915年4月25日、イギリス軍に加え、フランス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍はガリポリに上陸作戦を開始した。しかしオスマン側は上陸地帯に強固な陣地を構築しており、数カ所の拠点を占拠したものの、それ以上はオスマン軍の抵抗の前に戦線は膠着した。数度の大攻勢も全てオスマン軍に阻まれ、10ヶ月後に連合軍はガリポリより撤退する。

19世紀より欧米列強によりやられっぱなしだったオスマントルコにおいてこの勝利は格別なものがあり、この戦いを指揮したムスタファ・パシャはやがて軍を率いてトルコ共和国を建設し大統領の座につくことになる。

 

5.丙寅洋擾(へいいんようじょう)李氏朝鮮 vs フランス

 

結果:李氏朝鮮の勝利

ペリーの来航に始まる幕末の動乱と同じく、朝鮮も欧米列強の干渉を受けていた。国内ではキリスト教徒が増え続けていたが、王である大院君は伝統的な儒教体制と華夷秩序を重視。キリスト教徒を平穏乱す者とみなし、フランス人宣教師9名を処刑した。

フランス軍の連戦連敗

宣教師の処刑に対し、フランスは兵800名を派兵し首都ソウル付近を封鎖。朝鮮側の謝罪・賠償、あわよくば朝鮮の保護国化を目論んでいた。

ところが、朝鮮側の頑強な抵抗にあい、首都封鎖どころか朝鮮側の防衛戦の突破すらできなかった。朝鮮側は兵士の数に勝り、防衛戦沿いに築かれた要塞を拠点にフランス軍に打撃を与えた。最終的に、フランス軍は38名の死傷者を出して撤兵

この勝利はフランスの保護国化を防いだ成果はあったものの、守旧派の大院君の権威を高め、近代化を遅らせる一つの要因ともなった。

 

6.タイ・フランス領インドシナ紛争 タイ vs フランス

 

結果:タイ王国の勝利

第二次世界大戦が勃発して、フランスに親ドイツのヴィシー政権が出来たことがきっかけで、タイは以前フランスに割譲させられた、旧領土ラオス・カンボジアの返還を要求。だがヴィシー政権はそれを拒否したため、タイ空軍が仏印領を爆撃することで戦闘が開始された。

一進一退の攻防、そして日本の仲裁

陸戦では物量に勝るタイ軍が、ルアンパバーン・バッタンバンに進行し仏印軍を圧倒。後に反転攻勢をかけた仏印軍との間で戦闘は膠着したものの、仏印軍はヒト、モノともに不足しがちであった。

一方海戦は、フランス海軍ラモット・ピケの奇襲を受け、タイ海軍の戦艦トンブリが座礁しフランスが勝利。空戦では一進一退の攻防が続いた。

だが、同盟国同士の戦争を憂慮した日本の仲介により講話がなされ、タイはラオス南部、カンボジア北西部の州の割譲を勝ち取った

 

7.ディエンビエンフーの戦い ディエンビエンフー vs フランス

 

結果:ベトナム民主共和国の勝利

ベトナムがフランスからの独立を目指した第一次インドシナ戦争において、ベトナム軍は農村を拠点としたゲリラ戦で力を蓄え、フランス軍の拠点を次々と占拠していった。フランス軍は砲火や飛行機からの爆撃などで対抗したものの、兵達の士気は低く大規模戦闘においても連戦連敗を重ねていた。

1953年、フランス軍は起死回生の策として、ディエンビエンフーの拠点にベトミン軍をおびき出し、包囲殲滅を図る作戦をたてた。

適地として北西部山岳地帯とラオス平原地帯が選ばれ、ラオス国境に近い盆地帯のディエンビエンフーを拠点とし、べトミン軍がこの攻撃に現れたところを砲爆撃で粉砕し、周囲数十km一帯やラオス平原地帯に空挺部隊を降下させ、べトミン正規軍を撃滅する計画となった。ディエンビエンフーは旧日本軍が設営した飛行場跡があり、大規模な空中補給と空挺降下が可能で、作戦航空機のハノイへの往復路としては限界点であり、ここを補給拠点にすることとなった。

ベトミン軍の巧みな包囲攻撃

ベトミン軍は、フランスがディエンビエンフーに築いた陣地を見下ろす山頂付近に、見ただけでは分からないように巧みに陣地を築き、大砲、山砲、ロケット砲などの火砲を一斉にフランス陣地に浴びせた。フランス軍の兵士は戦意を失い、拠点は次々に陥落。

この戦闘がきっかけとなり、インドシナからのフランスの全面撤退へと繋がった。