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ボーア戦争(3)- 英軍の焦土戦とボーア軍のゲリラ戦

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手段を選ばないイギリス、ゲリラ化するボーア

20世紀前半に南アフリカの地で起こったボーア戦争のまとめ、最終回です。

ボーア国家であるトランスヴァール共和国とオレンジ自由国の地下資源の独占を狙うイギリスは、両国に武力を含む露骨な干渉を続け、とうとう1899年10月に第二次ボーア戦争が勃発。

初戦は地の利のあるボーア側が戦いを有利に進めますが、次第に物量に勝るイギリス軍がボーア側を圧倒していくことになります。前回の記事はこちらをご覧ください

追い詰められたボーアはゲリラとなり、戦争は泥沼化していくのです。

 

8. イギリス軍の立て直し

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キンバリー包囲解除

年が明けて1900年になったものの、依然としてレディースミス、キンバリー、マフェキングはボーア軍によって包囲されていました。

また、英領ケープのオランダ系住民、通称「ケープ・ダッチ」軍の一部もボーア側で参戦を始めており、ケープ・ダッチの大軍が参戦しケープタウン〜キンバリー間を封鎖すると、イギリス軍は補給が止まり窮地に陥るという状態でした。

イギリス軍は本国や帝国各地から大規模な援軍を送り込み、反転攻勢を開始しました。

1900年2月、キンバリー包囲解除を狙うイギリス軍は増援部隊18万人を率いて北上

2月11日にロバーツ率いる3万3,000〜7,000の兵は、ボーア軍第一軍クロンイェの小部隊を打ち破り、キンバリーに入城。分が悪いことを悟ったクロンイェは撤退し、4ヶ月続いたキンバリー包囲は小規模な戦闘が起こったのみで解除されました。

 

▽キンバリーに入場するロバーツ

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パールデベルクの戦い、ボーア第一軍の降伏

キンバリーを解放したイギリス軍は、休む間もなく撤退したボーア軍第一軍クロンイェを追撃。ロバーツ軍とフレンチ軍の二手からクロンイェ軍を挟み撃ちにする作戦を立てました。

逃げたクロンイェは2月17日にバールデベルク・コプジェの地に到着し休息を取るも、この地には既にフレンチ軍4万が待機しておりまたたく間にクロンイェ軍を包囲。

戦況は明らかにクロンイェ軍不利だったにも関わらず、クロンイェは降伏せずに川沿いに細長く車陣と兵営地を築き防備を固めました。

この防備は固く、イギリス軍は強行突破を試みるも何度もクロンイェ軍に阻まれ死傷者だけが増えていきましたが、ハイランド旅団はしつこく銃剣突撃を繰り返しました。17日の突撃だけで兵の22%が死傷するという異常な事態。

しかもこの突撃は翌18日も繰り返され、参加した1,262名の将兵のうち30%が死傷。銃剣突撃は1週間も繰り返され、頑強なクロンイェの防陣でも支えきれず、2月27日にとうとうクロンイェは白旗を掲げ、降伏しました。

 

▽降伏するクロンイェ

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ボーア第二軍の撤退

クロンイェ軍の降伏はボーア軍に強い衝撃を与えました。

これまで連戦連勝の空気が一変し士気が低下し、ボーア第二軍・第三軍の退路が絶たれる危険性も生じたのでした。ドゥ・ラ・レイ率いる第二軍はオレンジ自由国の首都ブルームフォンテンに撤退し、防衛に徹することになりました。

勢いづくイギリス。ブルームフォンテンを落とすべくロバーツ軍が進軍すると、ボーア第二軍司令官ドゥ・ラ・レイはアブラハムスクラール付近で首都を防衛すべくイギリス軍と激突。少ない兵力ながら善戦しましたが、多勢に無勢。3月13日にイギリス軍はブルームフォンテンを陥落させたのでした。

これに先立ち、ボーア軍のクリスチャン・ドゥ・ウェットの率いる6,000の軍は、ポプラー・グローブの地でブルームフォンテンに向かうロバーツ軍と戦うのですが、この時ロバーツ軍はドゥ・ウェットを捕らえることができずに逃走を許しています。

後にドゥ・ウェットはボーアゲリラを率いて1902年まで抵抗を続けることになるため、この時に彼を取り逃がしたことでボーア戦争の泥沼化が続くことになったのでした。

 

▽ボーア軍将軍クリスチャン・ドゥ・ウェット

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ポプラー・グローブから撤退したドゥ・ウェットは、モッダー川を下っていきブルームフォンテンから東へ40キロのところにあるサンナーズ・ポストに1,600名の兵を連れていました。ここにおいて、ドゥ・ウェットは後に多用することになるゲリラ戦術を初めて使うことになります。

350名の兵を引き連れ給水所の西側にある急勾配の岸に沿って隠れ、イギリス軍斥候隊の接近を待って側面から襲撃。この攻撃でイギリス軍159名が死傷し、421名が捕虜になり、武器や弾薬など大量に奪われてしまいました。

ドゥ・ウェット軍は4月4日にも約3,000のイギリス軍にも勝利し、士気が沈んでいたボーア軍を鼓舞し、彼のゲリラ戦術をボーア軍全体が真似するようになっていきました。

 

 

9. プレトリア陥落、トランスヴァール併合宣言

 ロバーツ軍は約2ヶ月の静養を経て、5月3日にトランスヴァールの首都プレトリアに向けて進軍を始めました。

ブルームフォンテンを出発したロバーツ軍は、オレンジ自由国の臨時首都クロンシュタットを陥とし、オレンジ自由国軍の残党狩りを行った後、5月28日にトランスヴァールの大都市ヨハネスブルグに突入し占領。

翌日には首都プレトリアに向けて進軍を開始。ロバーツ自身も6月に3,000の守備隊をヨハネスブルグに残してプレトリアに向けて急ぎ、4日にはプレトリア郊外でボーア守備軍との戦闘に入りました。

トランスヴァール政府は、イギリス軍の大軍の接近の報を聞き、約130キロ離れたミッデルブルクに首都を移し撤退。翌5日にはイギリス軍はプレトリアに侵入し占領。

プレトリアにはユニオン・ジャックが掲げられ、ロバーツは大軍を率いて凱旋将軍のごとく入城を果たしました。

 

プレトリア陥落から3ヶ月後の9月1日に、イギリスは「トランスヴァール併合宣言」を出し戦争終結を国内外にアピールしました。

これでイギリス軍の誰もが戦争の終結を思ったのですが、ボーア側は即座に「反対宣言」を出し、ボーアの若き総司令官ルイス・ボータは徹底抗戦を主張し、ドゥ・ウエットもイギリス軍に対するゲリラ戦をスタートさせていました。

 

▽総司令官ルイス・ボータ

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10.  ボーア軍の徹底抗戦、戦争の泥沼化

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ゲリラ戦のスタート

トランスヴァールのクリューゲル大統領は、臨時首都からボーア兵たちに徹底抗戦の檄を飛ばし、それに応える形でボータ、ドゥ・ラ・レイ、ドゥ・ウェットといった司令官たちがゲリラ戦を展開し始めました。

イギリス側はこのボーア側の抵抗はすぐに終わると信じ切っていましたが、「組織的なゲリラ戦」というのはこれまでの戦争で見られなかった新しい戦い方であり、慣れないイギリス軍はこれまで以上の戦死者・負傷者を出すことになります。

 

トランスヴァール領内においてゲリラ戦を指導したのは、ドゥ・レ・ライの元で修行したヤン・スマッツという元弁護士の若き軍事指導者でした。

▽ヤン・スマッツと部下のゲリラ部隊

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スマッツのゲリラ部隊は、ヨハネスブルグ北方のモッダーフォンテン周辺で神出鬼没の戦いを繰り広げイギリス軍を翻弄。オレンジ自由国にも侵入し、英領ケープに住むケープ・ダッチとの合流を目指しました。

スマッツの師匠のドゥ・ラ・レイ将軍もゲリラ戦に打って出、明け方すぐに騎兵をイギリス軍の野営地に突撃させるという方法で成果を上げていました。

総司令官ボータは東トランスヴァールの鉄道線路沿いを中心に攻撃を行い、イギリス軍の補給を脅かしました。

ゲリラ戦の考案者ドゥ・ウェットはオレンジ自由国南端の地ベツーリー付近で民兵を率いて英領ケープのケープ・ダッチとの合流を目指していました。1900年12月、イギリス軍のノックス将軍はドゥ・ウェットの部隊の姿を捉えることに成功するも、ドゥ・ウェットは無事に逃亡しています。

 

ボーア人強制収容所

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ボーア側がゲリラ戦に打って出たことで、イギリスは女・子ども・老人といったボーア人非戦闘員を強制収容所に収容する作戦を実行しました。

これは、ボーアの農村がボーア民兵の隠れ蓑になっているため、ボーアの農村を破壊しないと抵抗活動は終わらないというイギリス軍の判断によるものです。

1901年8月までに約8万人の非戦闘員が収容所に移され、年末には16万人にまでなりました。収容所は電流が走る鉄条網に張り巡らされ、衛生状態は最悪で肺炎などの病気が蔓延。食料は常に不足しており飢餓状態で、死亡率は34.4%にも上りました。

 

▽飢餓状態になったボーア人の女子

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強制収容所の存在はイギリスのジャーナリストによって告発され、人権擁護派はイギリス軍の行為を主に新聞紙面で非難しましたが、政府擁護の立場の人間は「ボーア人の非戦闘員の扱いは正しい」と主張。イギリス国内でもこの戦争に対して懐疑的な意見が出、世論が別れ始めていました。

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11. 総力戦へ

1900年後半から本格化したボーアゲリラは、ケープ・コロニーの西部にも侵入し全土で活動を活発化。フランスやドイツからの援助や世界各地からの義勇兵が続々とやってきて、活気に満ちてすらいました。

そんな中、イギリス兵をますます絶望させる出来事が起こります。

 

ヴィクトリア女王死去

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1901年1月22日、ヴィクトリア女王が死去しました。

女王は晩年、ボーア戦争の行方末を非常に案じており、新しい年を迎えるにあたり「私はひどく身体が弱り、心の悩みも激しく感じられ、新しい年を悲しい心をもって迎える」と記していました。

女王の死がイギリス兵にいかほどの影響を与えたか定かではありませんが、ボーア側のゲリラ攻撃は日増しに勢いを増し、イギリス兵は防戦一方になり、一日も早い戦争の終結を目指し、「なんでもやる」しかなかったのでした。

 

焦土戦

イギリス軍はボーア人の非戦闘員を強制収容所にぶち込むことに加えて、焦土戦つまり、農村や農場の焼き払いを実行しました。

農村がゲリラの本拠地になっていたことは事実で、ゲリラを匿い衣食住を提供し、非戦闘員を情報収集に使ったり、時には家に隠れ近づいてきたイギリス軍に銃撃を浴びせたりしました。

多くのイギリス兵は農村焼き払いに賛同し、ボーアゲリラは彼らの家族が焼きだされているのを見かねて戦闘を辞めるだろう、という予測をしていました。

当たり前ですが、そんな予測は全く当たらず、激怒したボーア民兵はますます激しくイギリス兵に抵抗するようになり、戦争をさらに泥沼化させることになったのです。

イギリス国内においては焦土戦の採用は物議を醸し、野党自由党からは激しい非難が起こり、ウィンストン・チャーチルも「いやしむべき愚挙」と非難しました。ジャーナリストの中にもイギリス軍の残虐行為を糾弾する人がいて、紙面上で戦争の反対を訴え続けました。

イギリス世論の中には戦争反対の声が増えていきましたが、現場のイギリス兵からすると「国の連中はいかにこの戦争が呪われているか分かっていない」と不満で、どんな手を使ってでも戦争を終わらせないといけないと主張しました。

 

後に引けないボーア軍の最後の抵抗

1901年3月以降、イギリス軍はさらに24万もの援軍を追加。ボーア軍もいよいよ後に引けない状態になってきました。

オレンジ自由国で縦横無尽に暴れまわっていたスマッツ軍は、とうとう英領ケープへの侵入に成功しますが、この時には兵数はわずか340名に減っていました。それでもスマッツ軍は9月17日、イギリス軍第17槍騎兵との戦闘で、死傷者62名を与える一方、スマッツ軍の死傷者はわずかに7名。

長期間のゲリラ戦で磨かれ少数精鋭の部隊となっていたスマッツ軍のケープ侵入はイギリス軍を恐怖に陥れ、多くの人数をスマッツ軍討伐のために割かなくてはなりませんでした。

 

ボーア側の抵抗はスマッツ軍だけではなく、ドゥ・ラ・レイ、ボータ、ドゥ・ウェットも9月に入り一斉に攻撃を開始しました。

特に活躍が目覚ましかったのがボータ軍で、ナタールに侵攻しイギリス軍のユベール・ゴフ中佐の騎兵隊285名と衝突し約20分で半数の将校を殺し降伏させました。

イギリス軍はボータ軍討伐のために1万6,000名の増援部隊を送ったのですが、討伐するどこから逃げられ、襲撃によって238名のイギリス兵を死傷させ、120名を捕虜にしたのでした。

ボーア軍は1901年9月〜10月にかけて勝利を重ね、兵糧や弾薬の乏しい中でイギリス軍50万を翻弄したのでした。

しかし、イギリス当局はケープ・ダッチの反乱を起こした指導者を処刑し、オランダ系住民への締め付けを強化したこともあり、スマッツやドゥ・ウェットが頼りにしたケープ・ダッチの人々の一斉蜂起は実現せず、多勢に無勢でジリ貧状態になっていくのでした。

 

 

12. 懊悩たる戦争の終結

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講和に向けて

 1902年に入っても、50万もの軍勢を投入しているにも関わらず戦争終結の見通しは立ちませんでした。

イギリス国内では陸軍大臣チェンバレンが軍需産業と癒着していたことがリークされると、戦争自体に対する非難が高まり、政権が揺らぎ始めており、一刻も早く戦争を集結させる必要がありました。

一方のボーア側は、戦闘には勝利しているものの、兵糧も弾薬も乏しく、何より兵数が限られており、このまま続けても打開策はないという状態。

そんな中で1902年3月、イギリス軍総司令官キッチナーはトランスヴァール共和国大統領代理シャルク・ブルゲルとオレンジ自由国大統領スタインに対し、「講和」を申し入れました。

4月12日から始まった講和会談では、「イギリスはボーアの両国の独立を一切認めない」「ボーア国民の承諾を得ない限り独立は放棄できない」と従来通りの主張が繰り広げられました。

2回めの会談で「ボーア側が国民大会を開き、休戦条件を検討する」」ということが決まり、5月15日にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国の国民会議が開催されました。国民会議では「独立の放棄はしないまでも、イギリスと妥協し、協力関係を結ぶ」という方針で交渉に望むことが決定されました。

交渉委員はボーア軍の将軍たち、ボータ、ドゥ・ラ・レイ、ドゥ・ウェット、スマッツ、ヘルツォーグの5名が選出されました。

 

プレトリア講和の成立

5月15日から始まった会談は難航し、一時は交渉決裂の危機に陥るも、キッチナーがスマッツに対し「2年以内にイギリスでは自由党が政権を執るだろう。その時にはおそらく南アフリカのボーア人に対し寛大な処置をとるに違いない」と秘密裏に囁いたことがきっかけで、ボーア側の態度が軟化し、講和の成立にこぎつけました。

講和の要点は以下の通り。

  1. トランスヴァール、オレンジ両州は直轄植民地としてイギリスの統治下に入る。ただしできるだけ早い時期に立憲自治体を許す
  2. 降伏または基準した両市民は個人的自由および財産を剥奪されない
  3. 軍法会議に付せられるべき反逆行為を除いて、刑罰・課税そのほかすべての報復を行わない
  4. 両州の学校および裁判所にて、アフリカーンス語の使用を認める
  5. 原住民に対する選挙権許与の問題は、自治政体設置後に決定せられること
  6. 両州市民に対し、戦費負担のための特別課税を行わないこと
  7. 独立を放棄した代償として300万ポンドを支出し、追加300万ポンドを低利で貸し付ける

結局、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国は「消滅」することになり、2年7ヶ月の戦闘を戦ってきたボーア人たちの中には、怒りを露わにする者も多くいました。

 

この戦争の犠牲者は以下の通り。

イギリス:戦死6,000名 負傷死・戦病死16,000 負傷23,000

ボーア:戦死6,000 病死20,000

 

イギリスは2つの国を滅ぼすのに死者2万2千という多大な犠牲と、2億2,300万ポンドという莫大なカネを使ったのでした。

この戦争によって得をしたのは、イギリス系の鉱山資本家と軍需資本家のみ。資本家は世論を焚き付けて好戦的な雰囲気を煽るのみで自ら血を流すことはせず、彼らを富ますために大英帝国の国民が多く死に、戦費は国民の血税から賄われたのです。

またこの戦争でもっとも被害を受けたのはボーア人と原住民。多数の人が死に、開拓した農場や土地は壊滅的な破壊を受けたのでした。

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まとめ

かなり長くなってしまいましたが、20世紀前半に起こった「ベトナム」ことボーア戦争についてまとめました。

イギリス資本家の強欲、帝国の慢心、そしてなまじ成功を治めただけに引くに引けなくなっていくボーア側の抵抗。

20世紀の国民同士の総力戦の兆しのようなものが、この戦争では見て取れます。

非戦闘員を巻き込む焦土戦、住民の強制収容所への収監、組織的なゲリラ戦。

南アフリカの地で起きた悲劇を、20世紀ではなぜ繰り返してしまい、そして我々は今でも続けてしまっているのでしょうか。

 

参考文献

 ボーア戦争 岡倉登志 山川出版社

ボーア戦争

ボーア戦争