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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

【WW2】ハンガリーが枢軸国側で参戦した経緯

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大ハンガリーの領土回復への夢と絶望

第二次世界大戦の枢軸国の主要参戦国は、日本、ドイツ、イタリアばかりがクローズアップされますが、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、クロアチア、タイなども枢軸国側に立って参戦しています。 

ハンガリーも枢軸国の一員になった国で、ソ連とアメリカに宣戦布告し主に東部戦線でドイツ軍と共に戦いました。

ハンガリーも他の枢軸国側と同じく親独・親伊一辺倒だったわけではなく、ハト派や保守派が何とか国を中立に維持させようと努力しますが、結局強力なドイツの外圧と国内急進派によって国を牛耳られていきました。

今回はハンガリーが枢軸国の一員になって破滅的な戦争に向かっていった経緯をまとめていきます。

話はオーストリア=ハンガリー帝国時代に遡ります。

 

 

1. 帝国の支配層としてのマジャール人

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1-1. 自治を求める戦い

ハンガリーの支配的民族であるマジャール人は、オスマン帝国の支配から脱した後の1699年からハプスブルグ帝国の支配下に入り、オーストリアの従属国という地位に甘んじることになりました。

伝統的にハンガリーは貴族社会で独立心が強く、他のオーストリア支配下の諸民族に比べれて自治を許され独自の憲法と議会を持っていましたが、ヨーゼフ2世の啓蒙統治下で、オーストリアは帝国の国民の生活水準を上げる一方でドイツへの同化政策を推し進め、ハンガリーの指導層である貴族の民族伝統を低下させていきました。

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このようなドイツ化に対し、18世紀末からフランス革命の影響を受けて民族自治意識が高まり、中小貴族ジェントリ層を中心にオーストリアからの政治的独立が主張されるようになりました。

1848年に下院議員のコッシュート・ラヨシュがメッテルニヒ体制を批判しハンガリーの完全な自治を要求。議会は皇帝フェルディナント一世に対してハンガリーの近代改革のための改革法、通称「三月法」が提出されました。

皇帝は周囲の情勢におされて「三月法」を承認。ここにおいてハンガリーはオーストリアの対等の立憲君主国となりました。

ところが同年夏になると情勢は革命側に不利に展開していき、オーストリア軍はウィーンの革命を駆逐した後に軍を展開させ8月13日にブダペストを占領。コッシュート首班の臨時革命政府を追い落とし、ハンガリーは再びオーストリアの一属国の地位になってしまいました。

 

1-2.「アウスグライヒ」の成立

それでもハンガリー人の抵抗は強く皇帝はやむなくハンガリーへの妥協を迫られたため、オーストリアはハンガリーの指導者デアークやアンドラーシと交渉し、1867年にアウスグライヒ(和協)を成立させました。

アウスグライヒによってハンガリーは完全な自治を持った独立国となったものの、国王はオーストリア皇帝が兼ね、軍事・外交・財政も統合されたままでした。

いわゆる「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の誕生です。 

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これにより、ハンガリーは北はスロヴァキア、東はトランシルヴァニア(ルーマニア)、南はボスニアとダルマティアを領する広大な版図を手に入れることになりました。

その中でマジャール人は少数民族のクロアチア人、ルーマニア人、スロヴァキア人、ウクライナ人に対し特権的な地位を持ち、これらの少数民族に対し抑圧的な態度を取り王国のマジャール化を推し進めることになります。

マジャール人は所詮、彼らがドイツ人にやられたことを自分たちもやったにすぎなかったのでした。

 

 

2. 第一次世界大戦、政治大混乱期

アウスグライヒは1918年まで比較的よく機能し、特に経済面では互いが互いを必要としていました。ハンガリーはオーストリアに穀物を送り、オーストリアは工業製品をハンガリーに送る。

 20世紀前半にはハンガリーは工業化を独自に進展させたり、マジャールの軍隊を作る試みも見られましたが、帝国の支配者としてドイツ人と協力するほうが、大多数のマジャール人にとっては得策でありました。

 

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第一次世界大戦が始まると、ハンガリーはドイツ・オーストリア・トルコの同盟側として戦争に参戦しました。

初戦の勝利はマジャール人のナショナリズムを大いに高揚するものでしたが、次第に敗戦の色が濃くなると厭戦気分が高まり始め、また帝国内の少数民族も反ハンガリーに立ち始めました。ルーマニアが1916年に協商国の一員となり、スロヴァキアの独立も協商国に承認され、クロアチアでもマジャールの支配を脱し南スラブ連邦の建設が叫ばれるようになる。

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1918年に入り革命的な機運が帝国内を覆うようになると、急進派貴族のカーロイ・ミハーイはオーストリアとの連携を絶って、ハンガリーの独立を宣言。カーロイは引き続きこれまでの領土を保持すべく、連合国との講和をしようと模索しました。

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ところが政治的混乱が続き、そのどさくさに紛れてベラ=クン率いるハンガリー共産党が政権を奪取し、カーロイを排除し「ハンガリー・ソヴィエト共和国」を樹立してしまった。

ソヴィエト政府は「革命の輸出」と称してスロヴァキアとルーマニアに侵攻。逆にルーマニア軍に攻めこまれブダペストが陥落してしまい、わずか4ヶ月たらずで瓦解してしまいました。

(ハンガリー・ソヴィエト共和国についてはこちらの記事をご覧ください)

reki.hatenablog.com

11月になり、それまでブダペストで略奪をほしいままにしていたルーマニア軍が撤退に応じ、ホルティ・ミクローシュが率いるハンガリー国民軍がブダペストに入城。

翌1月にホルティを国家元首に君主制を維持した「ハンガリー王国」が成立しました。

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3. 屈辱のトリアノン条約

政治的な混乱を経て復活したハンガリー王国でしたが、戦後に連合国との間で結ばれたトリアノン条約は、マジャール人にとって頭をぶん殴られるほどの厳しいものでした。

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Work by CoolKoon

北ハンガリー(スロヴァキア)はチェコスロヴァキアに併合され、アドリア海に面するボスニアとクロアチアをユーゴスラヴィアに割譲され、戦前は自領だったトランシルヴァニアはルーマニアとして独立を認められ、ハンガリーは戦前の地域の72%、人口の58.3%を失ったのです。

 

3-1. 深刻な打撃を受けたハンガリー

これの領土喪失がハンガリーに与えた打撃はとてつもなく深刻なものがありました。

ユーゴスラヴィアに割譲させられたヴォイヴォディナ地方は最も豊かな小麦の生産地だったし、トランシルヴァニアは石油や金銀などの鉱物が豊富な土地、電力を生産する水流も失い、ハンガリー唯一の国際貿易港フィウメも失ってしまいました

 

経済的打撃も深刻でしたが、マジャール人を不安にしたのが、ハンガリーに残った地域が主にハンガリー平原のみだったこと。

周辺のルーマニア、スロヴァキア、ボスニアは山がちな地域ですが、ハンガリー平原はそんな山の中にぽっかり空いた地域。周辺からの侵入は非常に容易であるが、逆にハンガリーから周辺への侵攻は極めて困難でした。マジャール人にしてみたら、敵意を持った隣人の真ん中に丸裸にされた心地だったでしょう。

 

さらにはトリアノン条約で割譲された地域には、多くのマジャール人が居住していましたが、当然新しく誕生したチェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィアの3国はマジャール人の勢力を弱めようとし、弾圧を強めました。支配者の側から一転して少数派になってしまったマジャール人は本国に助けを求め、ハンガリーと周辺各国の緊張は高まりました。

 

3-2. 小協商体制の成立

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屈辱の条約を飲まざるをえず、ハンガリー国内では失地回復運動が盛んになり、失われた領土を回復しようとする意見が多数派を占めました。

一方、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィアの3国は、ハンガリーの領土的野心を警戒し、1920年に相互に軍事協定を結び対ハンガリー包囲網を形成しました。いわゆる小協商体制です。

 

4. 右翼急進派の台頭

トリアノン条約以降多額の賠償金を抱えて経済は混乱し、外国から労働運動の工作員が侵入し農民は土地改革を要求し、民族主義者は急進的傾向が強まり、貴族の間にはハプスブルグ回帰の動きも見られました。

そんな混乱するハンガリー国内をうまく御して安定させたのが首相イシュトヴァーン・ベトレンです。

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4-1. ハプスブルグ家復位問題

1921年3月、突如ハプスブルグ家の旧王カールがブダペストに帰国し、執権を摂政ホルティに要求する事件が発生。

国内の貴族は熱狂的にカールを迎えますが、ベトレンはハプスブルグ帝国復活を警戒する周辺各国が場合によっては軍事干渉に訴える可能性を恐れ、軍事力をもってカールをブダペストから追い出し、あくまでハンガリーはトリアノン条約を守ることを国際的にアピールしました。

 

4-2. 経済政策

ベトレンはトリアノン条約を厳密に守る態度を示すことで国際連盟にも加入を果たし、2億5000万金クローネの借款を得てハンガリー通貨を安定させ、自主関税を設けて国内産業を保護しました。このことでハンガリーの工業生産は飛躍的に増大し、特に軽工業と繊維工業が発展していきました。

とはいえ輸出の3/4は小麦などの農作物が主で、工業品も時代遅れのもので、対外貿易は赤字続きな状態でありました。

 

4-3. 外交政策

ハンガリーは戦勝国であるイタリアとの関係を重視しました。

イタリアはバルカン半島に野心を持っており、特にユーゴスラヴィアとの対立があったし、ハンガリーは小協商国の包囲政策に対抗するために、お互いに手を結んだわけです。ハンガリーは旧領のフィウメ港の利用権も与えられ、国外への輸出に活路を見出すことができたのでした。

ハンガリーはさらにポーランドとイタリアの仲介役を買って出、小協商国をさらに外側から包囲しようと画策しました。

ベトレン政権はトリアノン条約を遵守する姿勢を見せつつも、その外交政策は旧領土回復を念頭に置いたものであったわけです。

 

4-4. 右翼の台頭

ベトレン政権は保守政権を基盤としながらもリベラルな特徴をも併せ持ち、長期に渡る安定した政権運営を実現しました。

 ベトレンは急進右派は敵視していたものの、彼らの勢力は強いものがありました。

特に旧領土からハンガリーに逃げ帰った人の多くがまともな職に就けず、特に戦前に旧領土のマジャール化のために必要な行政官として養成されたインテリは急進右派の強力な援護者になりました。ハンガリーの貿易と工業の多くはユダヤ人の独占状態であったこともあり、特にインテリほどユダヤ人を恨み右派に近づくものが多くなる結果となりました。 

 

5. 戦争への道

1929年、ニューヨークから始まった世界恐慌の大波は、ベトレンの指導の元安定し始めていたハンガリーにも押し寄せました。

輸出の大半を占めていた小麦の価格が没落して国庫の赤字が大幅に膨らむ。

大地主は没落し土地を売り払い、食えなくなった中小農民は土地改革を要求。工業品も不調で、労働者は守りに入ったユダヤ資本に反発を強め反ユダヤ感情を強める。

ベトレンは国内の不満を抑えきれずについに退陣し、以降政権は右派と左派の間で流動的な状態に突入していきます。

左派は摂政ホルティ自身とベトレンの政策を受け継ぐ保守派・貴族・民主主義者が中心。

右派はナチスドイツへの接近を図るファシスト・グループと軍部、急進派が中心。

最初はこれまでのメインストリームであった左派が主導権を握りますが、ヒトラーの力が中欧を覆っていくとともに、右派がイニシアティブを採るようになっていきました。

 

5-1. 急進右派ゲンベシュ内閣の成立

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ベトレンの後を継いだカーロイも事態を改善できず、次に首相に就いたのは急進右派のゲンベシュ。ヒトラーとムッソリーニの賛美者で、ヒトラーのミュンヘン一揆にも関係のある男です。

ベトレンとカーロイの保守的政策で事態を打開できず、国内で高まった極右的風潮を背景にして誕生したのですが、経済政策としては予想に反して反ユダヤ政策やファシスト的政策は採らず、これまでのベトレンの政策を維持しました。

そのため景気は一向に回復せず、中産階級を中心に極右の支持者が増加。特に軍士官のサーラシが展開する「矢十字運動」は多くの一般支持を得るに至りました。

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 対外的にはゲンベシュはこれまで以上にイタリアに接近し、ムッソリーニと会談し経済協約を結びますが大きな成果は得られませんでした。

ゲンベシュはハンガリー穀物のお得意先であるドイツとの関係改善が最優先と考え、ドイツとの同盟を模索しベルリンに飛びますが、当時のドイツはハンガリーの失地回復運動に反対していたため同盟は実現できず、失意のうちにゲンベシュは死亡しました。

 

5-2. ハト派政権下での強硬政策

次に摂政ホルティが首相に任命したのはより穏健なダラーニで、彼は反ドイツ的立場をとりましたが、前任者ゲンベシュが作った方向性に抵抗すること能いませんでした。

ハンガリーの政治家たちは、イギリス・フランスとドイツ・イタリアのどちらについた方がハンガリーに利益があるかを考えた時、もはやドイツ・イタリアしかないのでは、と考えるようになっていたからです。

トリアノン条約で失った領土を幾分か取り戻すには、今後しばらく中欧に覇権を持つであろうドイツと同盟するならば可能性がある、と考えたのです。

ヒトラーと会談したダラーニは、ドイツがチェコスロヴァキアを併合する意図があることを知り、国内右派の勢いを抑えきれずに1938年3月に再軍備計画とユダヤ人職業制限法を提出しました。

次のイムレーディ政権もこの流れを止められず、ドイツがチェコスロヴァキアを攻撃した際には、チェコスロヴァキア政府に対しハンガリー居住地域の割譲を要求し、南スロヴァキアを獲得。

その次のテレキ政権はついに日独伊防共協定に正式に加入し、国際連盟を脱退。より急進的な反ユダヤ法を設立するに至ります。

 

5-3. 止められぬ戦争への道

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1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、当初はハンガリーは中立の立場を表明ました。 

ところがドイツが連戦連勝を重ねると国内世論は「対ドイツ協力」に傾いていき、ドイツに便乗してルーマニアからトランシルヴァニアの北部2/5を割譲させ、さらにはユーゴスラヴィアに侵攻しヴォイヴォディナを占領。イギリスから激しい抗議を受けます。

事ここに至ってはハンガリーは対ドイツへの協力を止められず、ついにハンガリーは対ソ連宣戦布告。この時にはすでにハンガリーはドイツの戦時体制に組み込まれており、農産物や石油などの戦時物資をドイツに供給せねばならなくなっていました。

1941年12月にはイギリスがハンガリーに宣戦布告。12日にはハンガリーはアメリカにも宣戦布告。泥沼の戦争に突入していきます。

 

5-4. ソ連による占領

ところがスターリングラード以降ドイツ軍は連敗を重ね敗色が濃厚に。

摂政ホルティはこの空気感を読んで、自由主義者のカーライ・ミクローシュを首相に任命し、ドイツとの戦争協力への消極策を採るようになりました。自国の防衛を専念する方針を打ち出し、ユダヤ人にもある程度の保護が与えられ、マスメディアにも自由が認められるようになりました。

 

カーライはハンガリーを戦争から離脱させようとし、連合国に秘密裏に交渉を持とうと画策しますが、ドイツはカーライの動きを危険視し、ドイツ軍をブダペストに侵攻させ占領しストーヤイ将軍の親独傀儡政権を押し付けてしまった。

その後ますますドイツの敗色は濃厚になったため、摂政ホルティはストーヤイ内閣に代わってラカトシュ内閣を成立させソ連との間に休戦協定を調印しますが、ドイツはこれに対し矢十字党にクーデーターを行わせ、ホルティを国家元首の地位から追い落としてしまった。

こうして1944年10月から矢十字党の党首サーラシによるファシスト政権が成立しますが、すでに東部ハンガリーにはソ連軍が侵入しており、ハンガリー軍は瞬く間に蹴散らされ、翌2月には全土はソ連軍により占領されてしまった。

ハンガリー軍はドイツに撤収され、ベルリン陥落の最後まで戦いナチスと運命を共にしたのでした。

 

 

まとめ

 かなり長くなってしまいましたが、ハンガリーの19世紀〜20世紀前半の歩みをみていきました。

ハンガリーがなぜ悲惨な戦争に突入したかの主要因は、右も左も「失った領土の回復」を目指した点にあります。 

ソヴィエト政権の悪夢もあって社会改革に踏み出すことに人々は恐怖し、痛みを伴う改革から逃げ続け、かつての栄光のハンガリー王国を取り戻そうとしたところが、急進右派の台頭を招きファシズムへの接近を招いた主要因であると考えられます。

また当時、右派や左派で戦った層の多くは貴族層、大地主、中小地主、インテリが中心で、国内の大部分を占める農民層は昔ながらの時間軸で生きており、大衆運動というものが存在せず、共産党も農民や労働者にほとんど浸透していなかった。その点もデマゴーグな政治的メッセージを放つ矢十字党が広範囲に支持を拡大した一つの理由と言えます。

 

参考文献 世界現代史26 ハンガリーチェコスロバキア現代史 矢田俊隆 山川出版社

ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史 (世界現代史26)

ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史 (世界現代史26)

 

 

 

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