素朴な太平洋の島が一大リゾート地になるまで
土日の午後あたりにテレビつけてたら、ハワイ特集みたいなのやってませんか?
オアフ島にある知る人ぞ知る穴場ビーチ!とか、ワイキキにオープンしたオシャレなカフェ!とか。
よくネタが尽きないもんだと感心しますが、我々のハワイへの興味がずっと尽きないのもまた不思議なもんです。
もうほとんど日本と変わらないのに、それでも南国の楽園リゾートに憧れてみんな続々と訪れるのです。
それにしても、いつからハワイは「楽園」みたいに言われるようになったのでしょうか?
19世紀のヨーロッパ人による太平洋のイメージ作りから、その代表地たるハワイの観光地化までの歴史を追っていきたいと思います。
1. 野蛮と自由
白人浮浪者「ビーチコウマー」
19世紀半ば、太平洋は欧米列強による植民地獲得戦争のただ中にありました。
豊富に採れる海産物の他、サトウキビやコプラ(ヤシの実の胚乳)、羊毛などがヨーロッパの資本家たちをひきつけ、太平洋の諸地域はそれぞれヨーロッパ各国の支配下に入っていきました。
それに伴い、多くの白人たちが太平洋の諸地域を訪れるようになりました。大部分が植民地政府の統治のためだったりビジネスのためだったりしましたが、そういう用事ではない明らかな「流浪の白人」がミクロネシアやポリネシアで見られるようになりました。
彼らは何をするでもなく、日がな海岸をウロウロし、原住民と共に生活をし、かなり長い間滞在をしていました。こういう人々を「ビーチコウマー」と言いました。
ヨーロッパでの窮屈な生活から逃れて太平洋に安らぎを求めて逃げてきた連中で、今でもカトマンズとかラサに長期間滞在してる外人いっぱいいますけど、そういう「外こもり」なヤツらだったのでしょう。
宣教師による「野蛮」の駆逐
自由人・ビーチコウマーが愛したのは、太平洋の島々の社会の自由さ、純朴さでしたが、キリスト教宣教師からすると、そのようなものは「野蛮で下品」であり、キリスト教によって今すぐ文明化されるべきものでした。
宣教師たちは武器や医薬品などを土産に酋長たちに近づき、彼らの影響下でキリスト教化が進んでいきました。
ただし、ヨーロッパの文脈でキリスト教が正しく理解されるはずはなく、当地の伝統に則った理解の仕方がなされました。
例えば、ある島では「死者の出た家を訪問すると死ぬ」という言い伝えがありましたが、宣教師が訪れたら死ななかった。それは聖書を持っていたからだ!といったふうに。
このようにキリスト教はその地の土着文化の上に根付き、「キリスト教なんだけどキリスト教とは違う何か」に変容していきました。
2. 太平洋にやってきた芸術家たち
太平洋に魅せられた芸術家たち
フランスの画家・ゴーギャンが永住の地をタヒチに求めたことは有名です。
彼以外にも様々な芸術家が太平洋の島々に移ってきて創作を行いました。
アメリカの作家マーク・トウェインはハワイで紀行文を書き、
イギリスの作家ウィリアム・モームはハワイとタヒチで「月と六ペンス」「雨」「太平洋」などの作品を書き、
同じくイギリスの小説家ロバート・スティーブンソンは、太平洋の島々を巡りながらインスパイアをかき立て、かの有名な児童小説「宝島」を書き上げました。
スティーブンソンはサンフランシスコからヨットに乗り、太平洋の島々を巡って最終的にハワイにたどり着きます。
最初は原住民を蔑視していたスティーブンソンですが、次第に彼らの考えや文脈に共感するようになり、ハワイ滞在時には白人支配に批判的なハワイ王を支持するにまで至ります。
なぜ芸術家たちは太平洋に魅せられたか
スティーブンソンやゴーギャンなど、太平洋に暮らした芸術家に共通するのはビーチコウマーと同じような「ヨーロッパ文明からの逃避」でした。
当時ヨーロッパでは厭世的な雰囲気が広く漂っており、彼らの作品はそういう社会の中で広く受け入れられ、「自由な島々での素朴な暮らし」への憧れを抱かれました。
ただし、彼らには別に「南国の楽園での暮らし」をことさらに強調する意図はなく、ゴーギャンはインドや日本の作品からのインスパイアされており、かなりハイブリッドな作品が多くありましたが、
とにかく、売れたのは「南国の楽園・太平洋」が強調された作品だったわけです。
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3. "観光写真"の発明
画像転載元:vintag.es
「世界びっくり写真集」
1839年にフランス科学アカデミーで発表された「ダゲレオタイプ」は、現在の写真の元祖的な存在ですが、
この写真技術は目覚ましく進歩し、19世紀後半にはヨーロッパ人の異国趣味を満足させるような異国の写真が広く出回るようになりました。
フランス人の作家マキシム・デュ=カンは、エジプト・北アフリカ・パレスチナを旅して写真を撮影し、帰国後に写真集を発売。大ヒットとなりました。
これ以外にも、中東、インド、中国、日本といったオリエンタリズムを感じさせる写真集が次々と発売になりました。
観光写真の発明
当時、ハワイを始めとする太平洋の島々は、ヨーロッパとキリスト教の進出により、その元々のオリジナリティを失い始めていました。
例えば伝統的な家に住む人も減っていただろうし、祭りもその役割や意義を失っていたでしょう。
これらの紀行写真家たちは、衰退する伝統文化の記録や保全に自らの役割を見いだし、近代文明による伝統社会や文化の破壊への警鐘を鳴らしたのでした。
これらのノスタルジーが入り交じった写真はヨーロッパ社会で大流行し、観光写真の大量販売と消費が行われるようになりました。
画像転載元:vintag.es
ハワイでも多くのヨーロッパの写真家が活動し、自然や風景、先住民の生活や文化が多く撮影され、アメリカやヨーロッパで販売されました。
画像転載元:vintag.es
4. 映画に描かれた楽園・ハワイ
「太平洋のたそがれ」
20世紀に入ると、映像技術の発達により多くの映画制作者がヨーロッパ人目線で、太平洋の島々を舞台にしたラブロマンスや冒険劇の撮影を試みました。
最初に太平洋を舞台にした映画を撮影したのは、カナダ人のロバート・フラハティ。
彼はマルサケス諸島での先住民を主題にして記録映画「モアナ」、次にラブロマンス映画「南海の白影」を撮影。
ヨーロッパ文明により衰退する先住民の伝統社会を描き、ロマン主義・ノスタルジーな世界観が多くのシンパシーを得、興行的にも成功を収めました。
ここで描かれた「太平洋のたそがれ」は、後に続くハリウッドのハワイが舞台の映画に引き継がれ、欧米の人々への「楽園・ハワイ」のイメージを決定づけることになりました。
ハリウッドのハワイブーム
ハワイはアメリカの支配下にあり、手頃に撮影が可能であったためハリウッドの映画関係者は好んでハワイを題材にした映画を撮影するようになりました。
最も古い映画は1913年の映画「ザ・シャーク・ゴッド」「ハワイアン・ラブ」で、1915年には有名な「アロハオエ」が公開。
1920年代には19本ものハワイ映画が撮影され、音が加わるようになってハワイの音楽や踊りが目玉になりました。
その成功に裏打ちされ、1930年代には、歌や踊りがふんだんに盛り込まれたハワイ映画が公開されました。
1930年 "レッツ・ゴー・ネイティブ" 先住民の踊り
1937年 ディスニー・アニメ "ハワイアン・ホリデー"
1939年 "ホノルル" 女優エレノア・パウエルの歌と踊り
ただしこれらの映画の撮影は、確かに現地ハワイで撮影されるものもありましたが、大部分はアメリカ本土の「スタジオのセット」で撮影されており、
白い砂浜、ヤシの木、黒い岩、背後にそびえる火山など、昔の写真などを参考にして作った「作り物」であり、そのような撮影セットが「ハワイ」のイメージを視聴者の中に作り上げていきました。
5. ハワイ観光ブームの到来
ハワイの観光地化
写真や映画で繰り返し流れる「楽園・ハワイ」のイメージ宣伝は、
当然それに憧れて訪れるリゾート観光客を増やしたため、ハワイの為政者にとっては歓迎すべきものでした。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ハワイの観光業は大いに発展。
1903年には現在のハワイ観光局の前身となる「プロモーション・コミッティ」が設置され、各種のプロモーション活動を行いました。
ホテル・港湾施設の整備、客船の就航が急いで進められ、急速に観光地として発展を遂げ、どんどん観光客が増えていきました。その際は、「映画で見たハワイを体験したい」という要望から、先述の「ハリウッド映画の舞台セット」のような演出がなされたのでした。
アメリカで作られたハワイのイメージが逆上陸するとは、何と言うかコマーシャリズムの極みですね…
欧米のトレンドの流入
多種多様な人が訪れるようになったら、「洗練された」都会派の人たちのため、流行を取り入れた建築やデザインが必要になってくる。
1920年代に流行ったアール・デコ様式は、ホテルや客船の客室に採用され、また絵はがきや観光ポスターのモデルも「洗練された白人女性がハワイをオシャレに楽しむ様子」を題材に描きました。
以下はノースウェスト航空の広告ポスターです。
このように、メディアと観光業が相互に補完しあう形でハワイの「楽園のリゾート」のイメージは作られていったのでした。
6. 太平洋戦争、その後のハワイ
日本軍によるハワイ・真珠湾の攻撃で太平洋戦争が開戦したわけですが、ハワイは太平洋艦隊の基地として、多くの米軍将兵を迎い入れ大変な好景気に湧きました。
ハワイは前線から戻った兵たちが休暇したり、傷を癒す場としても機能したため、戦後にアメリカ兵が家族や友人に語った「ハワイのよき思い出」は一般レベルで大きくハワイのイメージ向上に役立ったと思われます。
戦争が終わってからは一気にハワイは不況に陥ってしまいました。
そこでハワイの為政者たちは、戦争中の兵士の休暇村の知見を活かし、戦前までは富裕層向けだったリゾートを大衆向けにして売り出すことで起死回生を図りました。
この戦略は当たり、航空機の大衆化とともにアメリカ本土の観光客が怒濤のように押し寄せ、ハワイの観光業は農業を抜いて基幹作業にまで発展。
高度経済成長期の日本人も南国のリゾート・ハワイに憧れ、こぞって押し寄せるようになったのでした
まとめ
ぼくも2回ハワイに行ったことあるんですが、
何て言うか、あんま日本と変わらねえし、風は気持ちいいけど、何かスペシャルなものがあるかといえば正直ないなと思いました。
ただ帰ってきたら「ああ、ハワイ良かったなあ。南国の楽園だったなあ」というぼんやりとした印象が残るのです。
これ、すごく不思議。
これこそがメディアの力というか、深く刷り込まれた「イメージ」が、ぼくの記憶に干渉しているのでしょう。
そしてそれこそが、多くの人がハワイを愛してやまない理由の1つではないのかと思うわけです。
参考文献:ヨーロッパからみた太平洋 山中速人 山川出版社