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遊牧民族を統一した匈奴の王・冒頓単于

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 北方遊牧民族を一大勢力にまとめあげた男

 匈奴は紀元前4世紀頃、中国の春秋戦国時代に突如として北方の草原地帯に出現した遊牧民族集団。

強力なリーダー・冒頓単于の元で遊牧諸部族を統合して強大化し、南の漢王朝の軍勢を打ち破って一大勢力になりました。

匈奴が率いた遊牧連合王国はその後内紛で南北に分裂。南匈奴も漢民族の王朝の中に取り込まれていきますが、匈奴で築かれた遊牧民族の諸機構は、その後北方草原地帯を支配する鮮卑、突厥、柔然、契丹、女真、モンゴルに受け継がれていきます。

 

 

1. 匈奴の登場

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1-1. 戦国時代の中国と匈奴

匈奴の出自は諸説あるものの、現在のロシア極東・バイカル湖周辺ではないかと考えられているそうです。

モンゴル高原やアフガニスタン北部、イリ地方にかけて、イラン系・トルコ系など様々な遊牧民族が割拠しており、各々勢力圏を抱えて覇を競いあっていました。

匈奴の名前が初めて中国の文献に出てくるのは紀元前318年のことで、当時の中国はいわゆる韓・魏・趙・斉・燕・楚・秦の「戦国の七雄」の時代。

当時急速に力をつける秦に対し、東方5カ国は連合して秦を滅ぼすべく軍を起こし、北方の匈奴にも援軍要請をしました。匈奴もオルドス地方への進出を図る絶好の機会であり、北から秦を攻めました。

ところが5カ国連合軍は内部の亀裂もあって函谷関の攻防戦で秦に大敗北を喫し、匈奴も北方に撤退しました。

それ以降、中国北方にたびたび匈奴が出現しますが、紀元前295年に匈奴軍を打ち破ったのが趙の辺城将軍・李牧

李牧は匈奴が侵入してきたところわざと負け、数千人の捕虜を連れ去るのを見逃した。調子に乗った匈奴はさらに大軍でやってきたが、李牧は様々な策を駆使して匈奴軍を翻弄し、左右の翼を広げる陣を敷き大いに打ち負かし、10万余騎を打ちとったとされています。匈奴軍はその後10年近く趙の辺境に近づくことはなかったそうです。

この頃から匈奴は既に東胡や林胡など他の遊牧民族と連合し勢力を拡大していました。

 

1-2. 秦王嬴政と匈奴

紀元前221年、秦王嬴政(えいせい)は6国を滅ぼし初めて中国を統一します。

始皇帝と名乗った嬴政は、各地の巡幸を盛んに行いますが、前215年に現在の北朝鮮に近い遼西郡の碣石山に登った時のこと。燕人の廬生という怪しげな占い師が「不死の薬を使う仙人を知っている」と言って始皇帝に近づいた。しかし廬生は不死の薬を始皇帝に渡すことができず、代わりに「籤書(おみくじ)」を残して逃げ去った。そこには「秦を滅ぼすのは胡なり」と記してあった。

始皇帝は将軍の蒙恬(もうてん)に約10万の兵を与えて、匈奴討伐軍を北に向かわせた。蒙恬は現在の河北・山西・内モンゴル自治区にまで征服しますが、丞相の李斯が始皇帝に対し「放浪のまま生き定住地のない彼らの土地を奪ったとて何の利益がありましょうか」と進言したのを聞き入れ、遠征を取りやめて軍を引き上げ、代わりに長城(万里の長城)の建設を蒙恬に命じた

万里の長城は元々、燕・趙・秦の三国にあった北方の長城を拡張して、国ごと城壁で囲って遊牧民の侵入を防ごうという企画で建設が開始されたもの。始皇帝は農耕民族の覇権を遊牧民の世界にまで拡張して統合するという拡大政策を断念したわけです。

始皇帝があきらめた遊牧民族の世界、当時匈奴の単于は頭曼という男。冒頓単于の父に当たる人物です。

 

 

2. 冒頓、クーデターで単于になる

頭曼の時代、匈奴は陰山山脈北東部、ゴビ砂漠東部からモンゴル高原にかけて遊牧生活を行っていましたが、たびたびオルドス地方を侵略して林胡や桜煩といった部族から略奪を重ねて何とか一族が食っていけるような状態でありました。

当時は東の東胡や西の月氏の力が強く匈奴は東西から圧迫され、また北の丁霊からも押され、部族の力は弱体化していく。

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頭曼単于の太子の1人が冒頓でしたが頭曼は冒頓を遠ざけ、愛する閼氏(あっし)の男子に単于を継がせて冒頓を廃しようと考えました。

とはいえ周囲の反発も必至で簡単に太子を廃することもできないため、西の部族・月氏の和平条約の証に冒頓を人質として送り込んだ。もし匈奴が月氏に攻めこんだら、月氏はきっと冒頓を殺すだろう。

そして冒頓が月氏に送られてすぐ、頭曼は月氏を攻めた。

しかし冒頓は月氏の馬を盗んで匈奴に逃げ帰ったため、頭曼の策略は失敗に終わった。

匈奴の人々は冒頓を「バガツール(英雄)」として歓迎し、しょうがなく頭曼は冒頓に万騎を与えた。

 

それから冒頓は配下の軍勢の掌握を図り始めました。

部下たちを率い「余の射る方向に鏑矢を射よ」と言って獣の狩りで訓練をしました。言うことを聞かない部下は容赦なく切り捨てた。

しばらくして、冒頓は自分の馬に鏑矢を射た。馬は遊牧民の宝。部下たちの中には馬に鏑矢を射るのを躊躇する者が出た。冒頓は躊躇したものを直ちに切り捨てた。

次に閼氏の1人を鏑矢で射た。同じく躊躇した部下を切り捨てた。

最後に、冒頓は父・頭曼の所有する馬を鏑矢で射た。部下たちは迷うことなく直ちに鏑矢を射た。

これを見た冒頓は、これらの者たちは信頼できる部下になったと確信した。

ある日、冒頓は父・頭曼に随行して狩猟に出た。頃合いを見て、冒頓は頭曼を鏑矢で射た。部下たちは一斉に頭曼を射抜いた。

こうして冒頓の父殺しクーデターは成功し、実権を握った冒頓は自分に従わない大臣や継母・弟たちを全て殺害し、単于となったのでした。

秦の始皇帝が崩御した翌年のことでした。

  

 

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3. 漢を打ち破り一大勢力化

 劇的な匈奴のクーデターと内乱はただちに周辺の遊牧部族に伝わり、この内乱に乗じて匈奴の支配権を大いにえぐり取ってやろうと動いてきました。

 

3-1. 匈奴の東胡討伐

特に大きく動いたのはモンゴル高原東部の東胡。

東胡王は早速冒頓に使者をよこし「頭曼が所有していた千里馬をほしい」と申し入れた。周囲の者は止めたが、冒頓は「なぜ拒むのか」と言って千里馬を東胡に与えた。

次に東胡王は「閼氏を1人ほしい」と言ってきた。周囲の者は怒り狂ったが、冒頓は「閼氏の1人くらいいいではないか」と言って可愛がっていた閼氏を1人東胡に与えた。

匈奴を軽く見た東胡王は、軍勢を率いて匈奴の東の領域に攻め込んできて、匈奴と東胡の境界線にある中立地帯を「わがほうで所有する」と言ってきた。

周囲の者は「そこは棄て地ですので、与えてもいいのでは」と言った。冒頓は激怒し「与えてよい」と言った部下を全員切り捨て「土地は国の基本である。どうしてそれをやれようか」と言って国中に命令をくだし、「遅れた者は斬る」といって怒涛のごとく東胡を襲撃。匈奴の力を軽視していた東胡は散々に打ち負かされ、王は殺され捕まった東胡の人は奴隷になり、逃亡したものはあちこちに離散して、後の鮮卑や烏桓となった。

 

3-2. 白登山の戦い

紀元前202年、中国では農民出身の劉邦が、名門武人出身の項羽の軍を垓下の戦いで倒し、翌年皇帝の座に就きました。漢王朝の誕生です。

秦王朝はこれまで地方での名望家であった有力者を無視して、自身の息のかかった官史を派遣して直接統治を図りましたが、旧権威に対する「敬意のなさ」が地方での反乱に繋がり、結局短命に終わってしまいました。漢王朝はその反省を活かし、旧国の有力者を取り込んで各地方の守備や統治に当たらせました。

 

紀元前201年9月、モンゴル高原を支配した匈奴が突如として南下し馬邑に押し寄せました。馬邑を統治していたのは、旧6国の韓王族・信。

高祖は信に匈奴討伐を命じますが、信は匈奴との戦いが無謀であることを理解しており、和平の道を選んだ。激怒した高祖は信の罪を問うために問責使を派遣しますが、信は副将の王黄とともに匈奴に下ることを決意したのでした。

韓王信の投稿で生じた中国北部の情勢の変化を捕らえ、いち早く冒頓は動いた。

匈奴と連合する遊牧部族の軍に加え、韓王信と投稿した燕兵の総計40万の軍で平城に南下しました。高祖はこれに対し、歩兵を中心にした32万の軍で迎え撃った。

冒頓は前衛にわざと弱兵をたて、本隊が到着していない漢軍に攻撃させた。弱兵は敗れ撤退し、侮った漢軍は匈奴軍を追いたて白登山にまでおびき寄せられた。

白登山には匈奴軍本隊が待機しており、ここで漢軍は7日間に渡って包囲をうけた。

包囲された高祖は使者を使わせて冒頓の閼氏の1人に接触し「もし冒頓単于が漢を征服したら、漢の美女に夢中になりあなたはきっと冷遇されることでしょう」と言った。

恐れを感じた閼氏は冒頓に兵を引くよう進言し、それを聞いた冒頓は韓王信が到着しないことをあやしみ、彼らが漢と結託していることを思い兵の一部を撤退させた。

高祖はこの「穴」から全軍で脱出し何とか長安に逃げ帰ったのでした。

 

3-3. 漢と匈奴の和約

この敗北のあと、高祖は郎中の劉敬を使わせ和平条約の締結を求めた。

2年後に和約が結ばれ、匈奴側に優位な形で条約が締結されたのでした。

 

第一条 漢帝室の一女を公主と称して、単于の閼氏として差し出し、両国は姻戚関係を結ぶ

第二条 毎年、漢は匈奴に真綿、絹、酒、米、そのほかの食物などを献上する

第三条 漢皇帝と匈奴単于の間に兄弟の盟約を結ぶ

 

冒頓はこうして豊かな中原の富を「平和的に・安定的に」獲得することに成功したのでした。これは北方遊牧民の歴史上画期的なことで、これをきっかけに中原と北方との民間交易が開かれるようになりました。

商業取引は国境沿い・長城沿いで活発に行われ、匈奴側からは毛皮やラクダ・羊などが売られ、漢人は米・酒・綿などが売られましたが、鉄・金・塩・兵器の流出は厳しく、漢側はときおり厳しい交易制限をかけました。

 一方で匈奴側は基本的に交易は自由で開放的であり、草原の産物だけでなくキャラバン交易で手に入る希少なペルシアや地中海の産物は特に高価で漢人も特に欲しがったものでした。

 

 

4. 遊牧部族大連合の成立

冒頓は東胡を壊滅させた後、西方に軍を転じ月氏の制圧にとりかかりました。 

月氏は強大で数回の遠征軍が送られたようですが、とうとう月氏をモンゴル高原から追い出すことに成功し、秦の蒙恬に征服された南部を再併合、また北部・西部の中小部族をたちまち支配して周辺の遊牧部族の覇権を握ることに成功したのでした。

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冒頓の出身氏族は攣鞮氏(れんていし)で、冒頓は恒久的に匈奴が諸部族を支配するには祖先神が他の部族神よりも上位に位置すると提示する必要があると考えました。

そこで匈奴は5月に各部族を招集した会議を開き、ここで攣鞮氏の祖先神を拝むことを強制しました。

会議を欠席することは離反行為を意味するし、出席して攣鞮氏の祖先神に礼拝することは各部族の祖先神が攣鞮氏の支配下に入ることを意味しました。

匈奴の単于は絶対に攣鞮氏の血統でなければいけませんでしたが、有力部族の呼衍氏、蘭氏、須卜氏、丘林氏とは婚姻関係を結び、匈奴が直接影響力を行使できない特に西方については、有力部族との婚姻関係を使った間接統治を図りました。

匈奴は臣下に収めた周辺部族に軍役と貢納を課し、毎年高価な毛皮などの皮革類を上納させ、また対中国の戦闘で戦闘員の供出を命じました。

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紀元前121年、漢の武将・霍去病が渾邪王を打ち破った際、渾邪王は単于の怒りを恐れて漢に下ったこともあり、単于による恐怖支配の実態が伺い知れます。

一方で各部族は匈奴に支配される以前の統治機構や部族構成を温存され、ある程度の分割統治が許されていたようです。

そのため、単于が知らないところで部族が勝手に漢に攻め入って、その対処に単于があたふたして漢皇帝に謝罪するなどといったことが起きていました。

 匈奴の後継であるモンゴル帝国では、各部族の行動は厳密にコントロールされ、勝手な行動をとると即死刑になっていましたが、匈奴の時代はまだ中央集権の度合いが不十分であったようです。

 

とはいえ冒頓単于は、それまでバラバラで互いに争いながら暮らしていた遊牧部族を統一し、膨大な富を持つ漢人の王朝と対等以上に渡り合って優位な立場に立ち、遊牧部族の組織化と以降続く遊牧世界帝国の先鞭を付けたと言えると思います。

実際に、以降登場する遊牧部族の軍事組織や社会機構は冒頓単于の時代に築かれたものが基本になっていて、モンゴルのチンギス・ハンから始まる遊牧大帝国の成立と、以降の世界に与えた影響の大きさを考えると、冒頓単于という1人の人間の存在がいかに大きいかというのが分かります。

 

 

 

まとめ

 今回は表面的なところしかまとめきれませんでしたが、なぜ冒頓単于が「遊牧諸部族を統合して漢民族王朝に対抗する大勢力を築こう」と考えるに至ったかという視点は非常に重要だと思います。

文明の中心地は中原で、以前は7国に分かれていたからそんなに漢人は怖くなくて、遊牧諸部族も好き勝手に略奪やってればよかったけど、秦王嬴政がどんどん6国を飲み込んでいき中原が1つの強大な国として統一されるのを見るに至り、冒頓は「このままではいずれ農耕民族に確固撃破され、我々遊牧民族は絶えて無くなる」と危機感を持ったのではないでしょうか。

遊牧統一王国の出現は、初の中国統一帝国・秦の出現にモロに影響を受けたもので、自分たち自身の命や文化・文脈を守りぬくための措置だったのではないかと思います。

そしてその自衛のための措置は発展しやがて世界帝国につながっていくわけですが、冒頓もきっとそこまでの考えていたわけではなかったに違い。歴史というのはどのように転んでいくか分かったものではありませんし、「風が吹けば桶屋が儲かる」的に時代と場所を経て組織や制度が作られ、物語が紡がれていくのが一番の醍醐味ですよね。

 

 

参考文献 

冒頓単于―匈奴遊牧国家の創設者 (世界史リブレット人)

冒頓単于―匈奴遊牧国家の創設者 (世界史リブレット人)

 

 

 

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*1:4th century Mongolic Xianbei archer