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【イスラム教】予言者ムハンマドの生涯を学ぼう

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あまり馴染みがない、イスラム教の予言者ムハンマド

一般常識として全部ではなくとも、なーんとなく、キリストやブッダの生涯は知ってますよね。

けれど、ムハンマドの生涯については、あまり知らないことが多いのではないかと思います。

商人で、神の啓示を受け、メッカの商人と対立してメディナに逃れ、その後仲間を引き連れてメッカを征服した。

くらいしか僕も知りません。

今後、仕事でイスラム教徒の人と関わることもあるかもしれません。

一般教養として、予言者ムハンマドの生涯について、ちゃんと知っておきましょう。

 

 1. いわゆる「逆玉」に乗って幸せな生活 

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幸せな結婚生活

ムハンマドはクライシュ族の中でも有力なハーシム家の生まれですが、幼い頃にすでに没落していました。父も母も祖父も幼い頃に死に、優しい叔父によって育てられました。

25歳のころ、40歳の未亡人ハディージャと結婚。ハディージャは亡き夫の遺産を元に事業で成功しており、ムハンマドはいわゆる「逆玉」に乗ることに成功。

しかもこの結婚はかなり幸せだったようで、5人の子どもすらもうけました

ムハンマドの人となり

ムハンマドはどのような人だったのか。語り継えられたところによると、

身長は中くらいで、どちらかといえば痩せすぎず肩幅が広く、筋骨がたくましく、胸が張っていた。頭髪は黒く、すこしちぢれており、肩までたれていた。晩年になっても少し白髪が交じった程度であった。眉は長く、昂奮すると眉間に血管が盛り上がるのが見えた。まつ毛も長く重たげで、目は黒くおおきかった。

歩調は早く、弾力があり、足取りはしっかりしていた。振返るときは体ごとであった。表情は温和で、思慮深げだった。微笑が普通で、あまり高笑いしたことがなかった。

生活は簡素、飲食・服装・調度などは、大きな権力をもった晩年でも、すこしも奢侈に渡ることはなかった。例外的に贅沢ともいわれるものは、よい武器を持っていたことと、アビシニアの帝王から贈られた黄色い深靴が一足あったことだけであった。匂いには敏感で、香辛料が大好きだった。

 

 2. 40歳で神の啓示を受ける

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神から啓示を受ける

ハディージャと結婚して以降、ムハンマドはメッカでも有力な旦那衆の一人となります。生活にも余裕が出てヒマな時間も増えたため、ムハンマドはよくヒラー山(上記写真)の洞穴で瞑想にふけるようになります。

そして40歳のある日、アッラーの使者として一般の人たちにその教えを伝達する宿命を負っていることを伝えられた、といいます。

それまで彼は実直な人物であるとしてメッカの市民から信頼されていたものの、「神の啓示」を言い始めてからは、ムハンマドを嘲笑し始めます。

最初のムスリムたち

妻のハディージャは夫を信じ、最初のイスラム教徒として入信します。

2番目の信者は10歳の従兄弟アリー。3番目の信者は解放奴隷のザイド。

次に信者になったのは、ムハンマドの人柄に惚れていた有力者のアブドゥッラー。彼は後のアブー=バクルとして知られムハンマドの側近中の側近として活躍。ムハンマドの死後は初代カリフとなります。

 

3. ヒジュラ(聖遷)とウンマ(共同体)の形成

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ヒジュラ(聖遷)の開始

布教開始後4年で獲得できた信者はわずか三十人程度でした。

一族の長アブー=ターリブは、入信は断るものの「お前の教えはよく理解できる。私が守るから伝道を続けなさい」と言ってくれます。

しかし、このアブー=ターリブと妻のハディージャが相次いで死亡。次いでハーシム家を継いだのは、ムハンマドの活動に反対しているアブー=ラハブでした。

アブー=ラハブとムハンマドはことごとく意見が合わなかったため、これ以上メッカでの活動は難しいとし、ムハンマドはメッカ以外に活動の拠点を作ることを決意

信者を徐々に、メッカからメディーナに移住させます。これが622年のヒジュラ(聖遷)で、これがイスラム暦の元年とされています。現在(2014年)は、イスラム暦で言うと、1392年ということですね。

ウンマ(共同体)の形成

このヒジュラは困難が伴い、というのもみんなで一斉にワーッと逃げ出せることができず、逃げる準備もそうですが受け入れ先の準備も難しく、このヒジュラ期に教団の結束は一段と高まったと言われています。

これがウンマ(共同体)の形成で、これまで一族や部族単位での結束が基本だったアラブ民族で、1つの教えを元に集団がまとまる、ということ自体が革命的な出来事でした。

 

4. メッカ衆との戦い

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メッカ衆のキャラバン(隊商)を襲う

メディーナに拠点を移したイスラム教団は、そこから大小61回もの合戦を行います。

そのうち、ムハンマドの命令で行われたガズウ(襲撃)は27回で、メッカから紅海の海岸沿いにシリアに向かうキャラバン(隊商)を襲い、その積み荷を奪い取りました。

1回キャラバンを派遣するために、現在のお金で1億円は下らない金額がかかっていたため、たまらずメッカ衆はイスラム教団の討伐隊を組織します。

バドルの戦い

624年3月、パレスチナのガザを出発した大規模なキャラバンが、メッカを目指して南下中との情報を獲得。

ムハンマドはイスラム教団約300人にガズウ(襲撃)を呼びかけますが、ウマイヤ家のアブー=スフヤーンはこれを察知し、約1000人の救援軍とともに紅海沿岸を北上します。

大規模な討伐隊が北上していることを知ったムハンマドは、斥候隊の情報を元に作戦を練ります。

翌朝日がまだ登らない頃、ムハンマドの軍は一斉に水場に殺到し、すべての水源を押さえてしまいます。そうしておいてメッカ衆を平原に誘い込んでおいて、決戦となりました。

メッカ衆は死者70人、捕虜70人を出して大敗。一方のイスラム側の死者は14人に過ぎず、イスラム側の大勝利で終わります。

勝利したムハンマドの軍はその名声を大いに轟かせるのでした。

 

5. メッカ凱旋、カーバ神殿をイスラム化

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ウホドの戦い、メディナ攻防戦

バドルの戦いで敗北したメッカ衆は、通商路を絶たれ存続の危機に立たされます。

625年3月メッカ衆は、兵士3000人、ラクダ3000頭、馬200頭もの大規模な討伐隊を組織し、通商路の奪還を目指すべく、メディナを目指します。

これに対し、イスラム教団側は寡兵ながらよく戦い、戦いは結局引き分けに終わります。

その後メッカ衆は、さらに兵士1万、馬3000頭を率いてメディナを包囲。

この時ムハンマドは、メディナの周囲に塹壕を堀り、槍ふすまを作ることで騎兵の突撃に対抗。これは当時のアラブでは斬新な戦法で、ペルシャ人ムスリムの入れ知恵でした。

メッカ征服

イスラム教団の武勇と権威は高まり、アラブの部族や有力者たちが帰依するようになってきました。

とうとう、クライシュ族をはじめ、有力なメッカ衆が次々とイスラムに帰依

630年1月、約1万の大軍を引き連れてメディナからメッカに向かったムハンマドは、抵抗らしい抵抗は受けずにメッカに入場

その足でカーバ神殿に向かい、中に安置されてた360におよぶ偶像を打ち壊します

カーバ神殿の最高神フバル神の像が倒れた時、「真理が来て、虚偽なるものは去った!」と叫んだと言います。(コーラン第17章3節)。

 

6. イスラムの家の拡大、そして死去

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アラブ各地の諸部族は以降も続々とイスラムに帰依し、アラビア半島全体でイスラムのウンマ(共同体)が形作られていきます。

632年2月、メッカ大祭にはムハンマドは4万人もの大衆を引き連れてメディナを出発し、大祭の指揮に当たります。その際、信者に呼びかけたそうです。

皆の衆よ聞きたまえ。あなたたちの血と財産とは、あなたたちがこの世の主(アッラー)と相まみえるときまで神聖で犯すべからざるものである。(略)妻をいたわり、奴隷を虐げることなかれ、温かい心で世に処すべき。(略)皆の衆よ、すべてのムスリムは他のすべてのムスリムの兄弟である。御身はすべて等しい者である。

これが最後のムハンマドのメッカでの姿となりました。

メディナに戻ってすぐに容態が悪化し、激しい頭痛に襲われ、幼な妻のアイーシャの看護もむなしく死去。

遺骸は臨終の部屋の床を掘って埋められました。

 

 

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