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郵便の歴史

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近代の情報革命・郵便制度

新年あけましておめでとうございます。

皆様、年賀状はちゃんと出しましたか?

ぼくは取引先以外の年賀状は全く出していません。

知り合いはだいたいFacebookとかLINEで繋がっていてみんな何をしているのか大体知ってるし。

たぶんぼくより若い人は、もっと年賀状の必要性を感じておらず、手紙なんて古いという人もいると思います。

もはやオールドメディアの手紙ですが、近代国家が形作られていくにあたって郵便は全く新しい時間と土地の概念を人びとに与えた、画期的な情報革命でありました。

 

 

1. 古代の郵便制度 

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Photo from  Radosław Botev

1-1. アケメネス朝ペルシアの駅伝制度 

世界で一番初めに「情報の高速化」を実現したのは、アケメネス朝ペルシア(前550-前330年)の創始者キュロス大王だと言われています。

聡明な大王は、自分が支配下に入れた広大な土地を中央集権的に統治するのは不可能だと考えた。そこで行政地域を分割してそれぞれに長官を立て、その間に騎馬伝令をリレー式で走らせ情報の伝達を高速化することで、素早く不足の事態への対策と対応を行うことを考えました。

1人の騎馬伝令が走れる距離を計算し、距離ごとに厩と宿屋を建てて伝令を駐在させて情報の伝令に当たらせることで、アケメネス朝の首都スーサとメディアの首都エクパタナの間の450キロを1日半で繋ぐことに成功しました。

この古代ペルシアの駅伝制度は、後の郵便制度の雛形となっていきます。

郵便の歴史はかくも古いものなのですね。

 

1-2. 古代ローマの郵便制度

古代ペルシアで始まった駅伝制度は、エジプトのプトレマイオス朝に引き継がれその後、古代ローマに伝播します。

古代ペルシアと違って、共和制ローマでは手紙は支配者だけのものではなく、民間人もカネを払えば誰でも利用可能でした。民間の飛脚業者も参入し、手紙の取引が大きなビジネスになっていました。

カエサル以降ローマが帝政となり国土が急速に拡大していくと、国土の安定的な維持を目指し道路インフラと古代ペルシアを模範にした駅伝制の整備が急がれた。ローマ街道が伸びると、それに応じて街道沿いに厩と宿屋が次々と建設された。帝国全体で莫大になった運営費用は周辺住民の賦役によって維持され、軍事機密情報が馬に乗って各地に飛んで行く

ですが流通する情報が膨大になってくると、必然的に地方が負担する賦役の額は増え、不満が高まっていきます。歴代の皇帝は駅伝利用の利用者を限定したり、国庫からの負担額を増やしたりなどして何とか駅伝制の維持を測ろうとしました。

 

2. ミラノが発明した「時刻伝票システム」

西ローマ帝国崩壊後、西ヨーロッパの大半を制圧したフランク王国で飛脚制度の復活があったものの、その後の分裂で地域間の情報共有の必要がなくなったため、しばらくの間郵便システムは姿を消していました。

ところが12世紀から14世紀にかけ、ヨーロッパ各地では経済と貿易の活性化が起き、それに伴い飛脚のニーズも高まっていきました。

バルト海交易で栄えるドイツ北部のハンザ同盟都市や、地中海貿易でしのぎを削る北イタリアの貿易都市(ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ジェノヴァ)はそれぞれ飛脚の組合を持ち独自に情報の伝達を行っていました。

当時の飛脚はリレー方式ではなく、1人の飛脚が目的地まで徒歩で向かって手紙を渡すというもの。

ただしそのようなゆったりとしたやり方では、広がる商圏に対応しきれないばかりか、商機を逃してしまう場合もある。古代ローマ時代の駅伝制度の復活が強く望まれるようになってきました。

 

14世紀後半、初代ミラノ公爵ジョヴァンニ・ガレアッツオ・ヴィスコンティは「時刻伝票システム」を採用した駅伝制度を採用。伝票には「何時何分にどこの宿駅に到達」ということが書いてあり、各配達人にこの時間を厳守させることで、どの荷物がいつ届くか把握できるようになり、効率がグンとよくなりました。

ミラノはこれまで人類が経験したことのない「時間による物理的な制約」という新しい概念を生み出したのです。

 

ライバルのヴェネツィアもフィレンツェに負けじと独自の駅伝制度を整備。

もともとヴェネツィアには独自の飛脚制度がありましたが、複数の飛脚問屋を連携させて各地に宿駅・厩・配達人を配置させ、リレー方式で伝達する仕組みを作り上げました。

ヴェネツィアの飛脚問屋はベルガモ出身者が多く、その中で一番有力だったベルガモ人飛脚問屋が、後にヨーロッパの郵便事業を独占するタクシス家であります。

 

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3. 華麗なる郵便一族・タクシス家

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 3-1. 1490年の郵便契約 - 神聖ローマ帝国に拡がる飛脚便

タクシス家はヴェネツィアの飛脚問屋からスタートさせて商売を広げ、北イタリアのみならず南ドイツにも飛脚ビジネスを広げようとしました。

まずハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世に取り入り、チロル伯爵領の飛脚営業権を獲得。そこで実績を上げて1490年にマクシミリアン1世と「帝国全土の郵便事業」の契約を交わすに至った。

タクシス家は帝国各地に郵便網を広げていき、ハプスブルグの新領地ネーデルランドからローマまで40日、南ドイツのアウクスブルグからヴェネツィアまで11日で情報が往来するまでになりました。それまではウィーン〜ニュルンベルグ間が7週間もかかっていたので、雲泥の差です。

扱われた郵便物は主に公文書など政治的な書簡で、当時はまだ民間利用ができませんでしたが、ハプスブルグ家の帝国拡大に比例して郵便網が拡大していきました。

 

3-2. 1505年の郵便契約 - 西ヨーロッパに拡がる商用利用可の郵便網

1492年、アラゴン・カスティーリャ連合王国がイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝を滅ぼしレコンキスタが完了。新生スペインは次なる仮想敵として、ピレネー山脈を挟んだ北のフランスを視野に入れました。

「敵の敵は味方」ということで、神聖ローマ帝国のハプスブルグ家とスペインは手を結んだ。マクシミリアンの嫡男フィリップ美公と娘マルガレーテが、スペイン王女フアナと皇太子ドン・フアンとそれぞれ婚姻をする二重結婚の相互相続契約を交わしました。

ところが皇太子ドン・フアンは早死したため、フィリップ美公はカスティーリャ王フェリペ1世となった。ハプスブルグ家はスペインをも手に入れた

 

このような状況で、1505年にフィリップ美公はタクシス家当主フランツ・フォン・タクシスと新たな郵便契約を結びました。この契約で、郵便網の拠点はフィリップ美公の拠点地ブリュッセルとなった。そこからマクシミリアン1世の拠点インスブルッグと、フランス王の拠点パリ、そしてスペイン宮廷へと郵便網が伸びる。

この郵便網では民間利用も可能で、商人にとってはこれによって為替決済が可能になり経済活動が活発になっていくきっかけとなりました。

フランツは年間1万2000ルーブルの委託金を受けて帝国各地の郵便事業に責任を持つ代わりに、半ば自律的な特権を手に入れ、事業から上がる収入をものにできた。

国庫からカネが出ている以上国家事業でしたが、運営はタクシス家に一任されていたので、半官半民的な要素を持っていました。しかも運営権がタクシス家の世襲の権利となり、「郵便一族・タクシス家」の名はヨーロッパ中に知られるようになりました。

 

4. ハプスブルグ世界帝国の郵便システム

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4-1. 1516年の郵便契約 - 裁判権すら有するタクシス家独占業務へ

フィリップ美公の跡を次いでハプスブルグ家当主となったカール5世は、1516年にフランツ・フォン・タクシスと甥のヨハン・バプチスタと新たな郵便契約を結びました。

それには、タクシス家の事業独占と郵便局員に対する裁判権の付与、またサービスの民間開放が明記され、さらにイタリア半島のローマやナポリにまで伸びる定期便の設置が命じられた。これは歴史上「近代郵便の大憲章」と言われ、近代郵便システムの骨格が成り立った画期的な契約であるとされています。

 これにより西ヨーロッパ各地は一つの郵便網で結ばれ、萌芽していた地域経済同士が太く結ばれてカネが勢い良く流れ始め、飛躍的な経済発展を遂げていくことになります。

 

4-2. 定期便の設置

民間に開放された郵便は、当初はフッガー家やヴェルザー家のような大商人だけが利用していましたが、次第に利用者の裾野が広がっていきました。

利用者が多くなると、いつ回収されいつ届くか分からない郵便には不満が出てきて、定期便が求められるようになる。

1531年にネーデルランドのアントワープに証券取引所が出来ると、定期便の需要は飛躍的に高まると、1534年にアウクスブルグ〜アントワープ間の定期便が設置され、38年にはアウクスブルグを経由しヴェネツィア〜ローマに通じる定期郵便コースも設置されました。

加えて郵便料金の一律化がなされると、ますます人びとは郵便に群がるようになり、社会全体が郵便という情報通信網に依存するように。カール5世の支配するハプスブルグ帝国(ドイツ、ネーデルランド、北イタリア、スペイン)を枢軸に、ヨーロッパ各地に郵便網が発達していきました。

 

5. その後 - 郵便制度の近代化

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5-1. 帝国の分裂と郵便事業の危機

カール5世の引退後、ハプスブルグ家はスペイン・ハプスブルグ家とオーストリア・ハプスブルグ家とに分裂。

カール5世が築いた帝国の郵便網は引き裂かれ、スペインの国庫で成り立っていた帝国の郵便網は一躍危機に陥りました。郵便網があちこちで引き裂かれたのはもちろん、郵便局員に給料が払えずにストが多発し、 郵便物が届かなくなってしまった。

 困ったのは既にビジネスを郵便網に依存していた商人たち。彼らは団結して独自に飛脚ネットワークを構築し始めました。これまでのようにリレー式輸送、料金表の設定、定期便の設置がなされ、ネーデルランド北部7州やドイツのプロテスタント諸侯もこれを積極的に支援。都市飛脚は一時は帝国郵便をも駆逐しようとしていました。

 

5-2. ルドルフ2世の郵便改革

帝国郵便の危機にあって、改革に乗り出したのが皇帝ルドルフ2世。

彼は1597年、郵便事業は国王に属するとし他のあらゆる郵便事業を禁ずる「郵便大権」を発令しました。

ところが皇帝に郵便事業の利権どころか機密情報を筒抜けにされる!と諸侯は一斉に反発。諸侯の反発は根強く、結局ルドルフ2世の改革は中途半端に終わり、ドイツでは帝国郵便と領邦郵便の2種が混在することになりました。

 

5-3. 郵便事業の独立採算化問題

またもう一つの問題が帝国郵便を運営するための運営資金。帝国郵便を運営するための助成金は滞りがちで、給料不払いやインフラの老朽化で機能不全が起きていた。

利益は上がっているもののタクシス家の懐に全て入ってしまい、事業経費に還元されない。タクシス家の郵便事業はもはや世襲でなくなっていたので、権益を守るために貪欲に富を蓄えるようになっていた。

そこで、タクシス家に郵便事業の世襲を認めることで独立採算性に移行させることが提案されました。今や郵便事業は国家のインフラになった。手紙の輸送量は増え続け、莫大な利益が生まれている。中長期プランを策定することで、国庫の援助がなくても郵便事業はやっていけるはずである。 

ところがルドルフ2世はあくまで「皇帝の郵便」というプライドから帝国が郵便事業に助成金を支払うことにこだわり、財政の健全化にまで着手できなかった。

一方で、ドイツに大きく遅れをとっていたイギリスとフランスは、この郵便事業の独立採算制を採用し大きく発展するばかりか、ビジネスとして成功させ逆に国庫を潤すまでに成長していきました。

 

 

まとめ

古代から近代のハプスブルグ家による近代的な郵便制度設立までの過程をまとめてみました。17世紀以降の歴史はあまりにも長くなりそうだったので割愛します。 

民間のビジネスマンのニーズから拡大したシステムを国家がとり込んだり、国家の治安維持のために設立されたシステムに民間が乗っかってきたり、その発展は一様じゃないところが面白いです。

共通して言えるのは「人が情報を渇望する生き物」だということでしょうか。

一度「情報」の旨味を知ると、そこから後退することはない。仮に後退するということは、それは文明自体が寿命を迎えて衰退していることを意味するのでしょうね。

 

参考文献 ハプスブルグ帝国の情報メディア革命ー近代郵便制度の誕生 菊池良生 集英社

 

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