「はい、株式会社◯◯で御座います」
このブログをご覧になっている方も、多くはどこかの会社に所属されていると思います。(いちおう、このブログはビジネスマン向けなのです)
そしてその形態の多くは株式会社だと思います。
普段から発注書やメール、電話でも「株式会社◯◯」と会社名の前か後につけて呼びますよね。
では株式会社とはいったい何なんでしょうか。
そしてなぜ株式会社というものが発生したのでしょうか。
1. 株式会社とは何か
株式会社の定義は、以下の5つの特性を持つとされます。
- 法人格
- 出資者(株主)の有限責任
- 持ち株の自由譲渡
- 取締役会への経営権の委任
- 出資者(株主)による所有
Kraakman et al. (2004)
この定義は時代や国によって微妙に変わります。
3の「持ち株の自由譲渡」ですが、例えば日本では「非公開会社」と言って株式の譲渡制限を付けることができます。
4の「取締役会への経営権の委任」では、昔は株主の経営への干渉権が強くあり、場合によっては株主が直接経営に参画するケースもありました。
しかし今では特殊な例を除き、取締役会に大部分の経営が委ねられています。
2. 近代以前の会社
昔の「法人会社」とは
世界最古の会社は、578年に創業した日本の「金剛組」です。
聖徳太子が四天王寺建立のために百済から呼んだ宮大工が起源で、現在も存在します。
フランスには850年創業の「バザクル水車」という会社があり、1150年には会社の権利を株式にして販売しています。
1400年以降のパリ株式証券取引所にも上場され、現在も存在する伝統ある会社です。
昔は「法人」という概念が曖昧で、始めはローマ法王から集団での自治が認められたギルドや特許会社、都市、大学、宗教共同体など様々な集団が含まれました。
株式の売買の始まり
13世紀頃になると、株式の売買が見られるようになります。
これまでは国家や王によって株式の募集は制限されていたのですが、
株式を自由に売買できるようになると投資者の数が増え、資金を確保しやすくなり、より大きな事業に参画できるようになっていきます。
ところが、当時の株式は「無限責任」でした。
仮に事業が失敗した場合、その損害分を経営者はもちろん、債権者も全て負担しなくてはいけない。
なので投資家は、投資先の企業の経営を注意深く監視、場合によっては干渉しなくてはいけません。
経営側も経営側で、株式を投資家に売る場合、万が一のことがあったとき、その投資家に支払い能力があるかを見極める必要がありました。
売る方も買う方も必死だったわけです。
3. 近代株式会社の元祖・オランダ東インド会社
この株主の無限責任を回避し、世界で初めて株主の有限責任を定義したのがオランダ東インド会社でした。
1580年、ポルトガルがスペインに併合されると、スペインと敵対していたオランダはポルトガルから胡椒を購入できなくなります。
そこで自分たちで船を組織し、喜望峰を経由して直接貿易に乗り出しました。
その際、オランダ東インド会社は、株式を発行するにあたって「出資額以上の損失を株主に与えない」と約定することで、気軽に購入できるものにしたのです。
また、オランダ東インド会社は21年間の航海を1つの事業と見なしました。
これは現在「永久資本制」と呼ばれる継続性のある事業を持つ「会社」に近い存在です。
オランダ東インド会社の設立と同年の1602年には、アムステルダム証券取引所が成立。
当時のオランダはGDPが世界で最も高く、経済史家のアンガス・マディソンのデータによると、イギリスの1,440ドルに対し、2,175ドルもあったらしいです。
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4. イギリス東インド会社の大規模化
レヴァント会社の成立
イギリス東インド会社の前身であるレヴァント会社は、オランダ東インド会社の成立の2年前の1600年に設立しました。
218人の出資者から6万8000ポンドを集め、5隻の船団を組織して東インドの貿易を行いました。
オランダとは違いレヴァント会社には有限責任はなく、また1回の航海ごとに追加の出資を求めるもので、旧来の株式会社と同じものでした。
当時の取引量はオランダの10分の1程度で、 イギリスの貿易は当時はまだまだ弱小だったのです。
発展するイギリス東インド会社
1612年、オランダを真似て、イギリス東インド会社も出資を1航海に限定せずに複数回にまたがるようになりました。
また、株主総会が開かれ24人の取締役が選出されました。
総裁と副総裁は、会計、購買、通信、船舶、財政、倉庫、私貿易に7つの専門委員会を通じて業務を行いました。
1662年には株式が有限責任化し、1680年には50%の配当を支払うようになり、イギリス東インド会社の株を持っているだけで、毎年どんどんカネが懐に入ってくるようになりました。
1662年に購入した株を1688年に売却すると、1200%もの利益があったのです。
5. 株式取引所の開設
金融の中心地・アムステルダム
中世ヨーロッパではシャンパーニュの大市のような大規模な市が定期的に開かれ、
ヨーロッパ各地から商人が集まり、そこで為替手形を利用した遠隔地決済が行われていました。
これが次第に固定されて常設化され、現在のベルギーのアントワープにそのような金融業者が集まるようになりました。
その後、ブリージュ、アントウェルペンと金融の中心地は移り、スペイン軍によるアントウェルペン占領に併せて、当時金融業を営んでいたユダヤ人が一斉にアムステルダムに逃げ出します。
当時の商人にとって、都市の自治権は自分たちの財産権を守ることでもありました。
王権が強い国家が介入することは、大きなリスクであったわけです。
そういうわけで、金融業者が多く流れ込んだアムステルダムは、金融の中心地として大いに賑わいました。
為替、株式、海上保険、ニシンの塩漬けに代表される先物取引。
あらゆる種類の金融商人が売り買いされました。
6. 世界で最初のバブル - チューリップ
チューリップ・バブル
このような急速な金融取引の発展は、アン・コントローラブルな現象ももたらしました。
それが、世界で初めてのバブルとして有名な「チューリップ・バブル」です。
当時オランダ経済は絶好調。
不動産価格は上昇を続け、インフラ投資も大規模なものが計画中。
アムステルダムには様々な金融商品が販売され、人々の懐はホクホク。
そんな中、人々が次の投資先として注目したのが「チューリップの球根」でした。
1630年代に入ると球根の値段は上がり始め、1636年にそれは起こりました。
バブルの崩壊
1636年11月、12月、翌1月、2月まで球根の価格はグングン上がり続けます。
ところが、2月3日をピークとして価格が急落したのです。
それまで価格の上昇を見込んで、小さな球根1つに莫大なお金を投資していた人の破産が相次ぐ、まさに阿鼻叫喚。
なぜ価格が暴落したのか。
理由は簡単です。そろそろ発芽する時期だったから。
賢明な投資家たちは、球根が発芽して「商品として手放せない状態になる前」に、それまでの利益を回収しようとして一気に売却したのでした。
価値があるのはチューリップの球根そのものでなくて、「価格が上昇し続けているモノ」であって、芽が出ちゃったら価値がなくなるわけです。
タイミングの見極めを見失った者やそもそも先物取引の本質が分かっていなかった者が、大損をこいたわけですね。
まとめ
いかにリスクを軽減しつつ資金を各方面から集めて、経営を健全化・透明化し利益を上げていくか。
この「株式会社」という形態は、昔の商人たちの英知が詰まっているのですね。
とはいえ、全部が全部こういう形態では適応できないから、様々な逃げ道が用意されているのが社会やシステムの面白いところであり、やっかいなところであります。
参考文献:金融の世界史:バブルと戦争と株式市場 板谷敏彦 新潮社