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釣り糸の歴史 - 昔の人は何を使って魚釣りしていたのか

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「釣り糸」がない時代の釣り糸とは?

歴史の教科書の一番最初のページには、アウストラロピテクスとか、洞窟絵画とか、打製石器とか、骨で作った釣り針とかが載っています。

文明が起こる前から釣り針は動物の骨が使われていたというのは、そうだろうねと思いますが、じゃあ釣り糸は何が使われていたんだろう?って思ったことありませんか。

今はナイロン製の細い釣り糸が主流ですが、まさか原始時代の人たちがあんな細い糸を作れたとは思えない。

かといって太い植物の蔓なんか使ったら魚にモロバレじゃないか。

長年気になっていたので、釣り糸の歴史の本を読んで勉強してみました。

 

 

1. 釣りの技術はいつどこで生まれたか

世界で最も古い釣り針は後期石器時代、現在のウクライナで出土したもので、動物の骨で出来たもの。肉厚で針幅5cm、軸幅は8cmの立派なもので、こんなデカイ釣り針にかかるデカイ魚がいたのか、と首をかしげたくなるほど。

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次いで古いのは中石器時代、デンマークやノルウェー南部などの北欧諸国。

新石器時代になると、バルト海沿岸、ロシア・オガ湖畔、スイス・チューリッヒ湖、中央アジア・アラル海沿岸に拡大。

さらに新石器時代後期になると釣り針の技術は東に拡大し、ロシア・バイカル湖、カンボジア・トンレサップ湖畔、南オーストラリア・デヴォンダウンズ遺跡、中国河北省唐山市大城山遺跡、黒竜江省安寧市大牡丹屯遺跡などなどに伝播。

新石器時代にはユーラシア大陸のあらゆる場所で釣りが行われるようになったと考えられます。

 

釣り糸は出土するのか?

釣り針は動物の骨なのでよく出土しますが、糸は繊維質だし細いから土に還ってしまう場合がほとんどで、出土例は極端に少ないそうです。

ただ極稀に出土する場合があり、その例を見ると釣り糸の素材に地域差があることが分かります。

・亜麻布

 中部ヨーロッパ・ドナウ川沿岸

 中部エジプト・ナイル川沿岸

 イラン高原・シアルク遺跡

 スイス・チューリッヒ湖畔

・大麻

 日本・福井県三方町鳥浜貝塚

 韓国新石器時代後期

 中国甘粛省東郷林馬家窯文化期遺址

・絹

 中国浙江省呉興銭山漾(ぜんざんよう)遺址

・綿

 パキスタン南部・モヘンジョダロ遺跡

・羊毛

 中国青海トーランヌームホン晋石器時代遺址

 イラク・ユーフラテス川流域アル・タール遺跡

大きく、「エジプト〜ヨーロッパの亜麻糸文化」「東アジアの大麻文化」「中国の絹文化」「南アジアの綿文化」「中国西域〜ユーフラテス川の羊毛文化」に分類でき、それぞれの自然環境と植生が大きく反映されていると言えると思います。

 

2. 釣り糸の素材

人が釣りに使ってきた糸の素材はいくつかありますが、その素材をピックアップして説明していきます。

 

2-1. 亜麻糸

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亜麻は成長すると1mほどになる草で、幹は繊維質を多く含んで頑丈なため、古来より衣料繊維として用いられてきました。一説によると、世界最初の栽培植物だそうです。

原産地は中部ヨーロッパで、その後メソポタミア、エジプトなど東方にも伝わりました。ヨーロッパ・エジプトでは最も馴染み深い繊維品であったので、釣り糸についても亜麻を活用するのは自然な流れでした。

 

2-2. 大麻糸

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 大麻は単に麻とも言いますが、現在でも広く繊維用に栽培されています。

種をまいて3〜4ヶ月で成熟し1〜2mにまで成長します。茎からは強靭な繊維質が採取でき、その強さは他の植物よりも勝っており、伸びも亜麻よりも優れています。

綿糸より腐敗しやすいという欠点がありますが、水分を吸収すると一層締まって固くなるという点から、ロープに用いられることが多いです。原産地は中国かインドで、日本でも縄文時代から栽培されています。

東アジアの人にとっては、繊維といえば麻だから、釣り糸にも麻を使ったと考えられます、

 

2-3.綿糸

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綿の原産地は東南アジアかアフリカで、衣類用の繊維品として極めて重要な植物です。

古来からインド綿はその品質の高さが知られており、ヨーロッパの上流階級は競ってインド綿であしらえた服を買い求めました。

綿はインドの富の源泉であったのですが帝国主義の時代になると、綿はイギリスがインドやエジプトなどの国を経済的隷属状態に置くため商品作物となりました。詳しくはこちらの記事をご覧ください。

reki.hatenablog.com

 南インドでは綿は盛んに栽培されていたので、釣り糸も綿が主流だったようです。

ちなみに日本には江戸時代初期に伝わりましたが、これが釣り糸に使われたという記録はありません。

 

2-4. 絹

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絹を釣り糸に使うなんて贅沢な気がしますが、かつてはかなり一般的でした。 

養蚕技術を発明したのは中国で、その高品質の絹は高値で取引されはるかヨーロッパまでシルクロードに乗って運ばれたのはご存知の通り。

九州に養蚕技術が伝わったのは古く弥生時代。古墳時代には関東にも伝わり、各地で生産が行われるようになりますが、広く庶民が絹織物の服に手が届くようになるのは、江戸の元禄時代の頃。この頃に釣り糸としての絹の利用も始まりました。

絹糸そのままでは弱すぎて使えなかったので、生糸に強くヨリをかけて渋か樹皮で染めた「管糸」か、生糸をよく揉み塩水に浸してゼラチン質を除去し渋で染めた「マガイ糸」が使われました。マガイ糸は柔らかく取り扱いも便利で、最近まで鯛の一本釣りの漁師に重宝されていました。

 

2-5. 葛

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葛は日本の山野に自生する多年生の植物。根からデンプンが採れ、葛餅や料理のとろみ付けに用いられます。

葛の繊維は柔軟性があり、分離もしやすく強いですが採れる量が少なく、50キロの蔓からわずか1キロ程度しか採れない。葛の繊維は布の材料としても重宝され、袴地や裃(かみしも)が作られます。

日本では一部の地域で葛を釣り糸に用いていたようで、鹿児島県喜界島では釣り糸のことを「ハツダ」と言い、葛の蔓のことを指しているそうです。

 

2-6. 馬の尻尾

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馬の尻尾から作った釣り糸は古代ローマの時代からあり、その後近世までヨーロッパで一般的な材料でした(第三章参照)。

あまり馬の尻尾に馴染みがないので、どれだけ強靭かイメージができないのですが、後に釣り糸として一般化するテグスが広まった時でも代用品として使われていたようなので、そこそこ使えるものなんでしょう。

日本でも江戸時代に馬の尻尾を釣り糸として使う文献が登場しています。

京保2年 津軽采女著「何羨録」

 馬の尾を継いで糸にする有。浮子釣りに用いる事有。錘釣には弱し。又は根巻に用ふる事有。宜しからず。但し浮子釣りには根巻に用ひてよし。黒き馬の尾には太く強気有といえでも弱し。白きも雪白は弱し。

 死馬の尾は弱し。切り尾は強し。抜き尾は弱しと云へり。馬の尾延びて戻ると云。伝有。馬の尾を強くするには、豆腐の湯にて成程よく煮てよし。

 豆腐の湯で煮ると強くなるとか怪しげなことが書いてますが、実際にタナゴ釣りなど小魚釣りにはよく用いられていたようです。

 

2-7. 人髪

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女性の髪の毛で釣りをしていたのは、江戸の金持ちのオヤジたち。 

当時の江戸の男の間で風流な趣味はタナゴ釣りで、金持ちのオヤジどもは筏の上に金の屏風を張り巡らせ、芸者を侍らせ酒を飲みながら優雅に釣りを楽しんだのでした。

竿はお箸程度の大きさで金銀細工を施した豪勢なもので、魚が掛かって折れてしまってはいけないので、糸として女性の髪を紡いだものを使いました。

これは特殊な例でまったく一般的ではありません。しかしまあ、悪趣味極まりないですね。

 

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3. 古代の釣り糸

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古代の書物にも、釣り糸について言及されているものがいくつかあります。

古代ローマのブルタークが釣り糸について述べた言葉。

出来る限りコブを少なくした白馬の毛が良い。しかし同じ白馬の毛でも、種馬の尻尾のものの方が雌馬や去勢馬のそれよりもずっと強い。雌馬の尻尾の毛が何故良くないかと言えば、それは常に彼女の小便によって、濡れて弱くなっているからである。

古代中国の道家の書物「列子」にも釣り糸についての言及があります。

セン何(カ)は楚の人なり。釣りを学ぶこと五年、しかる後にその道を尽くす。一つの繭を以って釣りの糸となし、尖った針を釣り針となし、米粒を割いて釣りの餌となし、百仭の淵に盈車の角を引く

同時期の「関子」にも繭を使った釣り糸が記されています。

魯の人の釣りは香ぐわしい餌を用い、医者が腫れ物を破るに用いる黄金の針を釣り針に改め、以って白く光る水面にヒスイの糸を垂れる

当時から釣りの道具や技術を改善し、道を究めようとする人が大勢いたことが見て取れます。

 

4. 中世・近世の釣り糸

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昔は基本的に釣り人は、自分で使う釣り糸や釣り針を自分で作らなければなりませんでした。

身近な素材の中でどれをどのように加工すれば頑丈な釣り糸になるか、を論じた本がいくつか残っています。

1557年、イギリス・ハンティングドン州の牧師ウィリアム・サムエルが著した「釣魚道」。デースという名の川魚を釣る時の釣り糸についての問答です。

旅人…その時のハリスは何本縒りがいいんでしょう?

釣り師…二本縒りか三本縒りですかな。というのは竿を振り込み、魚が素早く食いつき、そしてそれに合わせをくれて流れに逆らって抜きあげるわけですから、道糸はどうしてもある程度の強さが要るのです。(中略)少なくともハリスは三本縒り以上、それも上等のハリスで、よく縒られたもの、傷のないもんを使わないといけません。

旅人…そんな場合、雌羊の毛の道糸ではダメですか?

釣り師…ええ、ダメですね。雌羊の毛で作った道糸は水をよく吸うのでね。去勢馬の毛の道糸もよくありません。

同じくイギリスから、1653年にロンドンの布地商アイザック・ウォルトンが著した「釣魚大全」。この本は当時の釣りにまつわるあれこれが書かれた本なのですが、以下は釣り糸の「染め方」について細かく記しています。

強いビール三合、煤(すす)百匁、くるみの葉をすりつぶした汁少量と同じくらいの量のミョウバンを、全部一緒にして土瓶でも鍋でも、土鍋でもいいのですが、その中に入れて約30分ほど煮立てます。それから十分に冷ました後で、釣り糸をその中に浸します。釣り糸は、水色、ガラス色、ないし緑がかった色に染まってくるでしょう。長く浸しておけばおくほど、色は濃くなってゆきます。他の色に染まることはできますが、それをお教えしてもあまり役にはたたないでしょう。水色ないしガラス色に染めた釣り糸が、何といっても一番良く、釣り師には実用的なのです。

現代のナイロン製の釣り糸もだいたい薄い水色が多いですし、昔から魚に警戒されない糸の色が経験で分かっていたようです。でもそれを自分で染めなくちゃいけないってのは、本当に情熱がないとできないことですね。

 

4. 近代の釣り糸・テグス

戦後ナイロン製の釣り糸が一般的になるまで、釣り糸と言えば「テグス」でした。

テグスとは、テグス蚕から採取する繊維品で通常の蚕とは品種が異なる。

絹は繭を作った蚕を茹で殺して繊維を採取しましが、テグス蚕は繭を作る前の状態で茹でて殺す。で、体を小刀で割いて体内にある糸を取り出す、というもの。

 中国では古来から養蚕が盛んでしたが、この方法が確立するのは南宋の初めの頃(1100年代)で、明代には漁民が魚網を作るのに一般的な素材になりました。

日本にテグスが入ってきたのは江戸時代・寛永〜元禄年間と考えられ、その繊維の丈夫さと使い勝手の良さからすぐに普及し、大阪には中国から輸入するテグスを扱うテグス専門の卸問屋がいくつも出来たほどでした。

テグスの需要が急拡大するが中国側からの供給量にも限りがある。

そのため、国内でテグスを生産する試みが既に天明年間(1782〜1788年)に信州・上田で始まっています。ですが、技術が未熟で国産テグスはあまり広がらず、相変わらず中国製に頼っていました。

明治時代になると政府による殖産興行政策で養蚕と製糸工業が奨励され、釣り糸用のテグス生産も全国各地で行われ、次第に中国産に頼らなくても自給できるようになりました。

昭和に入ると機械化や台湾での大量生産の成功などで釣り糸も安価になり、これまで用いられてきた植物性の釣り糸は使われなくなっていきました。

テグスの釣り糸は、戦後より安価で丈夫なナイロン糸が出回るまで、釣り師達に愛用されました。

 

 

まとめ

必要は発明の母と言いますが、魚に気づかれないような細さで、 しかも強く、耐久性のある繊維をいかにして作るか試行錯誤が行われていたことが分かります。

昔のほうが大きな魚がたくさんいたでしょうし、また釣り糸も弱かったわけで、

「うわ〜!畜生!さっきかかったヤツめっちゃ大きかったのにい〜!」

 と悔しがる人も今よりはるかに多かったんでしょうね。

技術が進歩して大きな魚を逃さないだけの頑丈な釣り糸が出来たのに、その技術を作る過程で大きな魚が少なくなってしまったのは、歴史の皮肉でしょうね。

 

 

参考文献 テグス文化史 勝部直達 渓水社