創作の人物の疑いが強い世界史で登場する人物たち
子どもの頃にかつて歴史で学んだ人物が、大人になって実は存在しないことが分かってショックを受ける、ということがあります。
例えば、武蔵坊弁慶や紀伊国屋文左衛門、少しマイナーなところだと後醍醐天皇の孫・尹良親王や、那須与一の弟・那須宗久など、創作の可能性が高いと言われています。
聖徳太子も創作である説もあり、もし本当だったら日本の歴史がひっくり返る大事件です。
日本史だけでも数多くいるのですから、世界史にはとてつもなく大勢の「存在しなかった人物」がいます。今回は前後編でそんな人物たちをピックアップします。
1. 李自成のブレーン・李巌(りがん)
優しく強く、貧しい人たちの味方・李巌
一介の駅卒から身を起こした李自成は、大勢力を誇る盗賊団の首領になり、ライバルの軍閥や盗賊団を蹴散らし、とうとう明王朝を倒してしまいます。その後、北方からやってきた満洲族の清朝に首都北京を追われ、最後は百姓によって殺害されてしまう悲劇の人物です。
この李自成のブレーンとなって活躍したと言われる人物が李巌(りがん)です。李巌の話は伝説に満ちています。
生まれは金持ちだが貧しい人たちの味方で、飢饉の際は家の貯蔵米を放出して人々を救うような仁義に満ちた人物でした。人々からの人気を妬む悪い県知事によって李巌は逮捕されてしまいますが、若く美人の侠客・紅娘子に助けだされ、仁義の人と評判だった李自成軍に身を投じ、彼のブレーンとなって李自成の軍勢の発展に多大な貢献をしました。
ところが、この活躍をやっかんだ宰相の牛金星という男が李自成にあることないことを吹き込み、猜疑心にかられた李自成は李巌を殺してしまった、と言われています。
ところがこれらのお話の出自は清の小説で、明の時代の記録を調べると李巌の物語はほとんど創作であることが分かり、そもそも李巌という人物の存在自体も疑わしいとされています。
李自成と李巌のお話は、高島俊男著「中国の大盗賊」に詳しいです。
2. ローマ教皇・ヨハネス20世
勘違いからその存在が信じられていた幻のローマ教皇
「ヨハネス」という名のローマ教皇は、6世紀のヨハネス1世から15世紀のヨハネス23世までいるのですが、なぜか「ヨハネス20世」という人物は存在しません。
なんでかというと、歴代の教皇の在位期間とその名をまとめた「教皇の書」と呼ばれる書物の「ヨハネス14世の在位」に関する勘違いが原因です。
10世紀後半は対立する教皇同士の戦いが激化し、極めて短期間で教皇の椅子に座る人物がコロコロ入れ替わった時期。
ベネディクトゥス6世(973-974)→ボニファティウス7世(974)→ベネディクトゥス7世(974-983)→ヨハネス14世(983-984)→ボニファティウス7世(984-985)→ヨハネス15世(985-996)
ややこしいことに、「教皇の書」にはヨハネス14世の在位期間が、実際に教皇として仕事をした8ヶ月の期間と、ボニファティウス7世に幽閉されていた4ヶ月の期間が分けて記載されていたのでしばらくの間人々は、8ヶ月就任したヨハネスと、4ヶ月就任したヨハネスと2人いたと誤解していました。
そのため、16人目のヨハネスは自らをヨハネス17世、17人目のヨハネスは自らをヨハネス18世と呼んだのですが、この間違いは11世紀のヨハネス19世の時に訂正されました。
ヨハネス19世は自らをヨハネス20世と呼びましたが、後にこれが間違いであったことが分かったので、15世から20世までのヨハネスたちをそれぞれ1世ずつ下げて、20世を空き番にし、再び21世からカウントを始めることで調整をしたのでした。ややこしいですね。
3. 女海賊・アルビダ
スカンジナビアの人々に信じられる女海賊物語
アルビダは5世紀ごろのスカンジナビアの人物とされ、歴史学者はその存在を疑いますがデンマークやスウェーデン、ノルウェーの人々は彼女は存在したと考えているようです。
アルビダの父シナードゥスはスカンジナビア王で、彼はアルビダをデンマーク皇太子アルフと結婚させようとしますが、アルビダは「政治の道具に使われるなんてまっぴらよ」と父に反発し、小汚い格好で悪友たちを引き連れてバルト海に逃げ出してしまう。
たまたまアルビダたちは船長を無くした海賊船に出くわし、当初はアルビダを認めなかった海賊どもも、次第に彼女の気っぷに惹かれてアルビダを船長と認めたのでした。アルビダを頭目とした海賊団はバルト海を散々荒らし、「恐怖の女海賊団」の噂はデンマーク王の知るところとなりました。
デンマーク王は皇太子のアルフ(当然イケメン)をアルビダ討伐に仕向けます。アルフは精強な軍勢を率いてアルビダ海賊団を追い詰めますが、頭目アルビダの勇敢さに感銘を受けてプロポーズし、船の上で結婚式をあげたというお話です。
漫画みたいな話ですね。物語としてはめっちゃ面白いんですよね。
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4. ロンバルディア同盟軍を率いたアルベルト・ダ・ジュッサーノ
Photo by Alessandro Squassoni
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍を打ち破ったミラノの英雄
アルベルト・ダ・ジュッサーノは12世紀の北イタリア・ミラノの人物とされる男で、1176年のレニャーノの戦いで北イタリア諸都市のロンバルディア同盟軍を率いて、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの軍を打ち破ったとされています。
この敗北によりフリードリヒ1世は北イタリアの支配を諦める転換点となった戦いです。
この戦いは、19世紀にリソルジメント(イタリア統一運動)が始まった時に「イタリアが団結し外国を打ち破った」として格好のネタになりました。そしてそれを率いたアルベルト・ダ・ジュッサーノはイタリア統一のシンボル的存在になったのですが、実際のところレニャーノの戦いを率いていたのはグイド・ダ・ランドリアーノという傭兵隊長でした。
アルベルト・ダ・ジュッサーノという名前が初めて登場するのは約200年後、14世紀のミラノの年代記からであるので、創作の可能性が高いと考えられています。
5. エチオピアの初代国王・メネリク1世
3000年の歴史を持つと言われたエチオピア皇帝家の始祖
エチオピアの皇帝家の歴史は長く、紀元前950年のメネリク1世に始まり、1975年に廃位されたハイレ・セラシエ1世まで約3000年続いたとされています。
メネリク1世はソロモン王とシバの女王の息子で、エチオピアで成長した後にエルサレムに父王に会いに行き、そこで「契約の箱」を授かって帰国し、ソロモン朝を開き初代王となったと言われています。
実際にエチオピアはアブラハムの宗教と同じ文脈を有しているので、ソロモン王の血筋と契約の箱の存在は歴代のエチオピア王にとって重要な支配正当性であり、自らメネリク1世の末裔であることをその支配根拠としました。
しかし、紀元前5世紀ごろにエチオピアで栄えたアクスム王国以前、現在のエチオピア北部とエリトリアに「D'mt」と呼ばれる国があったことはわかっていますが、それがアクスム王国とどのような関係があるかすらも分かっていません。
実際にエチオピアにキリスト教が伝わったのは325年か328年のことと言われています。
6. 薔薇十字団を創設したクリスチャン・ローゼンクロイツ
不老不死を研究する謎の秘密結社の創設者
薔薇十字団とは、17世紀にヨーロッパでその存在が噂された秘密結社で、錬金術や魔術を駆使して不老不死を研究し、人知れずこの世界の発展に貢献しているという団体です。その創始者と言われたのが、クリスチャン・ローゼンクロイツという男。
彼は14世紀のドイツの貴族の生まれで、エルサレムに赴いたあと、アラビア半島のダムカルという所で3人の賢者の元でアラビア語や数学や化学を学び、その後北アフリカのフェズで錬金術を駆使する不思議な住民に触れて知識を学び、その後ドイツに帰国し「友愛団」と名乗る団体を結成し不老不死研究を始めたとされています。
そもそも薔薇十字団やクリスチャン・ローゼンクロイツの名前の出自は、17世紀前半に神聖ローマ帝国のカッスルで出版された作者不明の「全世界の普遍的かつ総体的改革」「友愛団の名声」という謎のテキスト。このテキストには創設者の名前が「C.R.C」とだけ書かれていましたが、1615年に同じくカッスルで出版された「化学の結婚」という本でクリスチャン・ローゼンクロイツという名前が登場し、「C.R.C」という頭文字はクリスチャン・ローゼンクロイツのことであったのだと考えらるようになりました。
いずれにせよ、謎の怪文書に書かれた人物名であり、その存在はまったく確認されていません。
7. 玄宗帝に寵愛された梅妃
楊貴妃のライバルだった玄宗の寵姫
唐の玄宗と言えば楊貴妃を愛しすぎたあまり国を傾かせ、安禄山の反乱を招いたことが有名ですが、実は楊貴妃が寵愛を受ける前には梅妃という人物が帝の愛を独占していたというお話があります。
梅妃は梅の花を大変好み、自分の部屋の周りに植えていたことからそのあだ名がつきました。詩作に秀で、スレンダーな女性であったそうです。
ところが楊貴妃が後宮にやってくると、彼女はまたたくまに玄宗を虜にしてしまう。帝は天秤棒を使って平等に愛そうとするも、楊貴妃はそれを許さず、様々な奸計を用いて玄宗と梅妃を遠ざけようとする。
ある時、梅妃はその使いの者に「陛下はもう、わたしをお見捨てになられたのでしよう
か」と尋ねた。「いいえ、決してそんなことはございません。ただ、食妃さま(楊貴妃)の手前を憚っておられるだけでございます」すると梅妃は笑って言った。「あの肥捭の風馬牛が怖くて私をお遠ざけになるということは、やはりお見捨てになられたことです」。
とうとう梅妃は後宮から追い出されてしまいました。
これらの逸話は「梅妃伝」という書物のみに存在し、唐時代の歴史を集約した「旧唐書」や「新唐書」「資治通鑑」には記載がなく、後代に作られたお話である可能性が高いと言われています。
8. スイス独立の父ウィリアム・テル
息子の頭の上に置いたりんごを撃ち抜いたお話で有名なスイスの英雄
高校の世界史の教科書にも掲載されているウィリアム・テルも、その存在が疑われている人物の1人です。
ウィリアム・テルは現在のスイスのウーリ州アルトドルフに住んだ男で、悪代官ゲスラーに礼をしなかったとして逮捕されてしまう。ゲスラーは息子の頭の上にりんごを置いてクロスボウで居抜き、もし成功すれば自由の身にするとテルに下衆な提案を持ちかける。テルはこれを受け入れ、しかも見事成功してみせたのですが、怒りがおさまらぬゲスラーはテルを連行してしまう。ところが度胸にあふれる男テルは、機転を利かせてゲスラーを討ち、アルトドルフの人々の歓呼と共に帰郷。これがきっかけで人々は立ち上がり、スイスはハプスブルグ家の支配から脱しようと独立運動に繋がった、というものです。
テルはスイス人の誇りで、スイス・ルーブルのコインにも描かれているし、ウーリ州アルトドルフの町にはウィリアム・テルがりんごを射抜いたと言われるマルクト広場という場所があって、テルの銅像の前は常に観光客で賑わっています。
しかし、このお話は実際の出来事の250年後の16世紀後半ごろに初めて登場し、それ以前は存在しないため、創作の可能性が高いと考えられています。
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まとめ
もしかしたら、この記事で「え、この人って本当は実在しなかったのか!」とショックを受ける人も出てくるかもしれません。
なぜかショックなんですよね、こういうの。
とくに子どもの頃に知って親しんでいたのならなおさら。
スイス人が頑なにウィリアム・テルの存在を信じ続けるのも、この辺に理由がある気がします。
さて「実は存在しなかったと考えられる人物」は後編に続きます。
参考文献
"The History of Ethiopia" Saheed A. Adejumobi
参考サイト
"In Search of William Tell" Smithonian
"Alberto da Giussano, l’eroe inventato dei padani" LINK IESTA