歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

理不尽な理由で始まった戦争・完全版

よく分からない理由で吹っかけられる戦争がある

戦争を始めるには、指導者にどんな下心があるにせよ、一応皆を納得させられる大義名分が必要です。

ただ歴史を眺めてみると、どう考えても理不尽極まりない理由で始まった戦争も少なくありません。戦争は合理的に始まり合理的に終わると考えるのは、合理主義者が陥りがちな罠ですが、どう考えても理性的じゃない理由で戦争をふっかけられる場合もあるものです。

 

1. 野良犬戦争(1925年)

兵士が野良犬を追いかけ回し開戦

第二次バルカン戦争と第一次世界大戦で敵同士だったギリシャとブルガリアは、国境線を巡っていさかいが続いていました。互いに罵り合い、煽り合い、不信感が高まり、どんな些細なきっかけでもエスカレーションが起こる危険性が高まっていました。

この戦争は両軍が睨み合うペトリッチと呼ばれる国境地帯で起こりました。

1925年10月22日、あるギリシャ兵が野良犬を追いかけ回して遊んでいたところ、意図せず国境を越えてブルガリア領内に入ってしまいました。

これを発見したブルガリア軍の歩哨は、国境侵犯としてギリシャ兵を撃ち殺してしまいます。

ブルガリア政府は、銃撃はやり過ぎだったとして「遺憾の意」を表明。しかしギリシャ政府は強硬姿勢に出て、ブルガリア政府の謝罪と賠償金の支払い要求しつつ、ギリシャ軍をブルガリアの町ペトリックに侵攻させ占拠してしまいました。

エスカレーションを避けたいブルガリアは形だけの抵抗にとどまり、すぐに国際連盟が介入して停戦要求が出されました。

この「野良犬戦争」の結果、ギリシャは10日後にブルガリアから撤兵し、ペトリックの町への損害賠償として4万5000ポンドを支払うハメになりました。

この時の犠牲者は、ペトリックの町の民間人を中心に52名でした。

 

2. ジェンキンスの耳戦争(1739年~1748年)

切り取られた耳に世論が逆上し開戦

18世紀前半、西インド諸島周辺のカリブ海ではまだスペインが支配的でした。

イギリスは西インド諸島で貿易を行うために、スペインと貿易契約を結んでいましたが、売り上げの一部をスペインに納めなくてはならず、貿易従事者からは大変な不評でした。

支払いを無視するイギリス船が相次いだため、スペインはイギリス船の拿捕と荷の没収を行なっていました。一方でイギリスは17世紀からカリブ海で私掠船を活用して、スペイン船を拿捕しており、貿易をめぐるイギリスとスペインの一触即発状態は続いていました。

1731年、商船の船長ロバート・ジェンキンスは西インド諸島から帰国する途中、スペイン沿岸警備隊の調査を受けました。スペインは彼の船が密輸をしていると疑い、口論がエスカレートし、スペイン人はジェンキンス船長をマストに縛り付け、耳を切り落としてしまいました。ジェンキンスは自分の耳を塩漬けにして瓶の中に入れて保管し帰国後、直接国王に苦情を訴えました。

それから7年後の1738年、カリブ海の英植民地は国王からの支援を求めており、これに応えた国王ジョージ2世は議会の助言と要請を受け、スペインに対する報復を開始するよう提督に命じました。

開戦の口実を作る際、スペイン人の不義と冷酷さを喧伝するための材料として、「ジェンキンズの耳」が利用されました。イギリス世論は怒りに沸き立ち、「対スペイン報復戦」が開戦されました。

この戦争は10年近くも続きましたが、どちらかと言うと散発的な戦争が起こる程度で、大規模な海戦などは行われませんでした。スペインは勝利を主張しましたが、4,500人の死者と5,000人の負傷者、186隻の船の損失を被い、境界線も変更されませんでした。一方イギリスは2万人の死者と負傷者、行方不明者を出し、407隻の船を失いました。

この戦争はなあなあのまま、終わりも清算もされず、翌年から始まるオーストリア継承戦争に発展し、イギリスはさらにアメリカ大陸での戦争を拡大させました。

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3. 樫の木のバケツ戦争(1325年)

樫の木のバケツが盗まれたため開戦

北イタリアのボローニャとモデナという2つの都市国家は、長年のライバルでした。

この2つの都市は、神聖ローマ帝国とローマ教皇庁との間にあり、地理的な条件からギベリン(皇帝派)かゲルフ(教皇派)かを明確にしなくてはならず、敵対する派閥の都市との戦争の火種は常にくすぶっていました。これはギベリンのモデナとゲルフのボローニャも例外ではありませんでした。

1325年、モデナの兵士たちが敵対するボローニャの町に闖入し、樫の木桶を持ち去りました。モデナ兵たちは戦利品を故郷に持ち帰り、自慢げに展示しました。

ボローニャの人々は冗談のネタにされたことに憤慨し、バケツを取り戻すために、そして自分たちの尊厳を取り戻すために、軍隊を呼び出してモデナに進軍したのです。

バケツ奪還のためにボローニャが集めた軍勢は3万以上の歩兵と2千人以上騎兵。軍隊を指揮するのは教皇ヨハネ22世自身でした。一方のモデナが集めた兵は5千人の歩兵と2千人の騎兵のみ。

11月15日の午後遅く、イタリアのザッポリーノ付近で両軍は激突しました。ほぼ6対1の数でしたが、モデナ軍は約2時間の激戦でボローニャ軍を撃退してしまいました。

ボローニャ軍は町に向かって潰走。モデナ軍は追いかけ、ボローニャの城門を包囲して、再び敵を大声で罵ったそうです。

この戦いで双方とも2000人の兵士が命を落としました。

結局ボローニャ市はバケツを取り戻せず、今でもモデナ市に展示されています。

 

4. 逃亡妻戦争(1879年)

逃亡してきた妻を殺害されたため開戦

19世紀末、ズールー王国は強大な軍事力を背景に、ボーア諸国やイギリスのケープ植民地から北上してくる入植者と対立し、小競り合いを続けていました。

1879年2月、ズールー族の酋長シハヨ・カソンガの2人の妻が、夫のもとから逃げ出し、イギリス領に逃亡しました。

女性たちはイギリス領で安全が確保されると思っていたようですが、カソンガの弟と息子たちが彼女たちを追いかけてきて、ひっ捕らえ、ズールーランドに連れ戻して、掟に従って処刑してしまいます。

ズールー側は、酋長に恥をかかせ共同体のルールを破った者に対する罰を与えたということになるのですが、イギリス側からすると自分たちの領土に不法侵入された上に亡命者を殺されたということになります。

もともと領土侵犯、暴行事件、牛泥棒などの事件が多発し、国境線をめぐる火種を抱えていたイギリスは、この他の事件を含めてズールー王国への侵攻の根拠とし戦争に突入しました。

これが、1879年6月から始まるのアングロ・ズールー戦争(ズールー戦争)に発展していきます。

 

5. 旗竿戦争(1845年~1846年)

勝手に旗竿を立てるなと開戦

 1840年、ニュージーランドの先住民族マオリと、英国女王との間にワイタンギ条約が結ばれ、これによりニュージーランドはイギリス領となりマオリは英国女王の臣民となる代わりに、マオリが持つ土地の権利が保障されました。

しかし首都の移転やイギリス人が課す税金は、マオリ首長の既得権益を侵害したため、マオリのイギリス人に対する不信感は高まり、イギリス人がさらにマオリの土地をも奪っていくのではないかという懸念を生じさせました。

そのような不信感から、コラレカの町の上にある旗竿の丘に掲げられたユニオンジャックは、マオリがヴィクトリア女王のタウレカ(奴隷)になった証拠であるという噂が流布しました。

そこでマオリ族の酋長であるホネ・ヘケは、コラレカの町の中心部に行き、旗竿を切り倒してしまいました。イギリス人はまた旗を立てるも、再びヘケに切り倒されてしまう。今度はイギリス人は旗をさらに強固に固定するために、鉄で補強し武装した衛兵を置きました。

イギリス議会は状況を落ち着かせるために宣教師を送り込みました。しかしこれは逆効果で、ヘケは宣教師がイギリスの支配を受け入れるようにと言ったことに猛反発します。

1845年3月11日、ヘケは部族とともにイギリス人居留地コロラレカに侵入し、イギリス人を全員殺害しました。そして再び旗竿を切り倒し、勝利を宣言しました。

その後10ヵ月以上にわたるイギリスの報復戦争が展開され、イギリスはいくつかの戦いで勝利を収めるも82人の犠牲者を出しました。マオリは60人から94人の犠牲者を出したものの、ある程度イギリス側にも損害を与えて首長ヘケの威信が大きく高まったため、停戦を求める声が高まり、翌年戦争は終結しました。

 

6. 黄金の床几戦争(1900年)

photo by Wendy Kaveney

神聖な椅子をイギリス人に汚されたと開戦

アシャンティ王国は現代のガーナにあった国です。

アシャンティ王国では権威の象徴として黄金で作られた神聖な床几(しょうぎ)を奉っていました。この床几は国王の現世の権力と権威だけでなく、アシャンティの霊的世界も支配すると考えられていました。当然誰でもが座れるようなものではありません。しかし、当時のイギリス人はこの感覚を全く理解していませんでした。

4度にもわたるイギリスとアシャンティの戦争で、国王プレンペー1世は亡命を余儀なくされ、国王不在のアシャンティはイギリスの属国となりましたが、これに反発するアシャンティ人との対立が深まっていました。

1900年3月、新たに赴任したイギリスのゴールドコースト総督フレデリック・ホジソン卿は、アシャンティの人々に対して英国王の権威を認めさせようと、「黄金の床几は英国女王が座るべき」と発言しました。

この発言に対するアシャンティ人の反発は凄まじく、王母ヤァ・アサンテワは軍を集めイギリス軍を倒し、亡命王を呼び戻して再独立をせよと呼びかけました。

男たちはこぞって王母の呼びかけに応じて戦いに身を投じ、戦闘で駐留していたイギリス軍は壊滅しました。

生き残った18人のイギリス兵と、ハウサ族の兵士数百人はクマシにある要塞に逃げ立てこもりました。砦の包囲は3ヵ月半続き、援軍が到着した時には、食料も弾薬も底をついていました。ジェームズ・ウィルコックス少佐は援軍を率いてクマシに駆けつけ、包囲軍を撤退させました。

この戦争ではイギリス側の死傷者が1007人、アシャンティが2000人でした。しかし、アシャンティ人は戦前から保有していた自治権は維持し、さらに大事なことに黄金の床几をイギリス人に触らせなかったので、実質的な勝利と考えました。

 

7. 菓子戦争(1838年〜1839年)

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菓子屋の主人の訴えがきっかけで戦争に発展

メキシコは1821年の独立から政治的不安定が続き、たびたび政治形態が変わり、憲法が目まぐるしく制定され、反乱が相次ぎました。戦渦は一般民衆にも及びますが、メキシコ政府はその賠償を補償しなかったし、する能力も持ち合わせていませんでした。

1838年、フランス人のお菓子職人ルモンテーラは、メキシコシティに構えていたお菓子店がメキシコ軍のせいで破壊されてしまった、とフランス政府に泣きつきました。

これを受けフランス王ルイ・フィリップはメキシコ政府に60万ペソという法外な金額の賠償を請求。これに応じない場合はメキシコの全ての港湾施設とサン・ファン・デ・ウルーア要塞の砲撃を行う、と最後通牒を突きつけました。

既に何百万ドルという借金を抱えていたメキシコはこれを拒否し、フランスに宣戦布告。

散発的な戦闘が起こりますが、最期はイギリスの仲介によって和平が成り立ち、結局お菓子職人のルモンテーラに60万ペソを支払うことで合意しました。

 

8. リハル・フランス戦争(1883年~1981年)

スペイン王が侮辱されたことに腹を立て開戦

リハルはスペイン南部アルメリア州にある人口400人未満の小さな町です。

この町があろうことか大国フランスに対して宣戦布告をしたのです。

1883年9月29日にスペイン国王アルフォンソ12世が公式訪問のためパリに滞在したとき、パリ市民はスペイン王室の訪問を快く思わず、国王に罵声を浴びせ、石を投げつけさえしました。

この事件を聞きつけたリハル町長は10月14日、町ぐるみでフランスと戦争すると宣言しました。町長は相当血の気が多い人だったようで、「シエラの恐怖」と呼ばれました。

宣戦布告は行われましたが特に重火器を使った戦闘が行われたわけではなく、一発の弾丸も撃たれず、一滴の血も流れない平和な戦争が93年も続きました。

1976年、スペイン国王フアン・カルロスがフランスを訪問し、この時は全く何も起こらず、市民からも歓迎を受け、平和裏に訪問が進みました。

その4年後、リハルの人々は自分たちの王が威厳ある良い扱いを受けたと判断し停戦を宣言し、フランスとの戦争を終結させました。

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まとめ

政治的経済的な圧迫に対する抵抗や反発という軋轢がこれまでもあった上に、カルチャーギャップや勘違い、個人の怒りの沸点の低さという、制御しづらい事柄によって簡単に戦争が起きてしまったことがよくわかります。

現代ではなかなか気軽に戦争を起こせない仕組みになっていますが、ロシアによるウクライナ侵攻で、独裁者の意思ひとつで諸々のバリアをなぎ倒し、古典的な戦争が起こってしまうことを世界中の人は理解しました。

理不尽な理由で戦争は起こる。

再び不安定な時代に我々は突入しようとしているのかもしれません。

 

参考サイト

"Beyond the Pail – The Unbelievable War of the Oaken Bucket" Millitary History Now

"The Northern War" The Newzealand History Online

"This African Queen Fought the British Empire in the War of the Golden Stool" HISTORY COLLECTION