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韓国・朝鮮の売国奴・李完用はなぜ親日派になったのか

「日帝に国を売り渡した男」李完用

韓国・北朝鮮で最悪の売国奴と呼ばれる人物といえば李完用(イ・ワニョン)です。

李完用は朝鮮王朝末期と大韓帝国の時代の政治家で、韓国・北朝鮮では日帝に国を差し出した張本人として大変に忌み嫌われています。
韓国では、李完用が地位と財産を得るために国王と国を売り飛ばしたという評価が一般的です。しかし実は、一応彼なりに列強から国を守ろうとさまざまな試みを行なっています。ただしタイミングや方法がまずいところがあって、結果的に亡国の引導を渡してしまいました。李完用はなぜ売国奴になってしまったのでしょうか。

 

1. 高宗の側近・李完用

李完用は1858年に貧しい知識人一家に生まれています。

幼い頃から聡明だった李完用は、儒教の経典の学習に大変な才能を示し、その聡明さを伝え聞いた有力な親戚の李鎬俊(イ・ホジュン)の養子となり、より高い教育を受けました。1882年、当時の国王高宗(コジョン)の好意を得て、側近として活動するようになります。当時の彼は、朝鮮王朝の伝統的な儒学の知識を用いて天下国家を論じる、典型的な儒教的官僚でした。

なぜ高宗は李完用を登用したのか。朝鮮王朝の国王と官僚の関係性があります。

朝鮮王朝は伝統的に、国王が弱く、国王に侍る官僚たちが強いという構造があります。

朝鮮国王は絶帝君主というわけではなく、代々国のトップを務める継承職にすぎません。官僚たちは党派を形成したり、郷土や家族の利益を代弁したりして、国王に自らの権益を認めさせようとします。

国王は天下国家の代表であるため、官僚たちの利益誘導と戦わなくてはいけないのですが、儒教国家である朝鮮では政策論争も儒教の経典に則って議論しないといけません。

国王は、子供の頃から儒学をそらんじてきて科挙試験にパスした頭のいいエリート官僚に勝てるわけがないわけです。

なので国王は、自らの味方となる官僚を常に見つける必要がありました。有力な官僚一家出身ではない李完用は、高宗にとっては頼れる人材だったし、李完用も高宗の権威を借りて出世を果たすことができたわけで、WIN-WINの関係があったわけです。

 

2.親米露派へ

1886年、李完用は28歳の時には英語と西洋学問に初めて触れ、翌年にはアメリカ留学をしています。

都合2年間の留学で、彼は西洋文明の開化の必要性を強く認識させると同時に、朝鮮が遅れた国であり、このままでは独立を維持できないという思いを強くすることになりました。帰国後、彼は親米派と親露派が主軸になった貞洞(チョンドン)派という派閥を率い、国王高宗と閔妃とのパイプ役を果たしていきます。

ところが1894年に日清戦争がおきた翌年、朝鮮内でのアメリカとロシアの勢力の強まりにあせった日本は、反日勢力の中核とみなされた閔妃の暗殺を決行します。

そして日本は高宗の父で反閔妃の興宣大院君(フンソンテウォングン)の政権を成立させました。

このとき、李完用はアメリカ大使館に身を預け、高宗をロシア大使館に逃すことに成功しています。

この功績により、李完用はその後新たに成立した親露・新米内閣にて外務大臣に任ぜられ、学部大臣・農商工部大臣にも任命されることになります。

しかし政権内では開化派は劣勢で、守旧派が多数を占めていました。そこで李完用ら開化派は交流の場として独立協会という組織を立ち上げ、朝鮮の開化と国民啓蒙を目指すための活動を開始しました。

このような団体に外務大臣が参加している意義は大きく、当然組織の中心的人物は李完用でした。独立協会の機関誌である独立新聞には、このように李完用を称賛する言葉があります。

外部大臣李完用氏は平素から愛国愛民の精神に溢れる人物であり、国を救い百姓を助け、国権が外国に奪われない様に尽力している

独立協会は当初は啓蒙団体でしたが、のちに政治結社的な立ち位置に変わり始め、守旧派が指導する政権を批判し、次第に王朝や国王に対する批判をするようになっていきます。

李完用は国王高宗とツーカーの関係にあったこともあり、独立協会の中で立場が微妙になっていき、協会の批判が王朝のかつての政策や方針にまで及ぶと、これまで高宗の片腕だった李完用も批判されるようになり、とうとう独立協会を辞めざる得なくなります。

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3.一転して親日派へ

日露戦争に勝利した日本は、ロシアの政治力を朝鮮半島から排除することに成功し、大韓帝国政府に対して内政改革の政策を押し付けようとしました。

しかし守旧派で占められた大韓帝国政府は日本の意に従うことはなく、日本は朝鮮半島を直接統制下におくことを目指すようになります。

この日本の意向に叶ったのが李完用でした。もともと日本当局は李完用を親米・親露派だと考えていて、どっちかというと警戒すべき対象だったようですが、伊藤博文が保護条約締結の特使として韓国に赴いた時、李完用はこのように述べています。

大使ノ詳細ナル御説明ト云イ、又、李法部ノ之ニ対スル返答ト云イ、共ニ予ノ首肯スル所、要スルニ日本ハ、韓国問題ノ為前後ニ二回ノ大戦争ヲ経テ、遂ニ彼ノ強露ヲ挫キ今ヤ斯ノ戦勝ノ結果ヲ以テ我ガ国ニ臨ム何事ヲ為スモ唯タ其撰ム所ナリ、何処モ妥協ヲ主トセラルル貴国皇帝陛下始メ、政府ノ意向ハ察スルニ余リアリ、就テハ、我政府ニ於テモ慎重事ニ当リ妥協ヲ力ムルを要ス

このような李完用の態度は日本側に好感をもって受け入れられます。当時の韓国の代表者の大部分は、議会において保護条約について否定的な意見が多かったものの、李完用は日本に肯定的な意見をすることで進行役を進める伊藤博文の大きな助けとなりました

 

4.韓国併合

完全に政治的に親日派となった李完用は、伊藤博文の信頼を得て、韓国併合へと突き進んでいきます。

1907年、皇帝高宗の密使がハーグで開かれた国際平和会議に現れ日本の韓国に対する侵略を訴えるハーグ密使事件が起こります。

この事件は日本の大韓帝国に対する様々な干渉に対して皇帝高宗が行なった様々な抵抗の中で最大級のものだったわけですが、李完用はこれに対し皇帝廃位を日本側に提案しました。

日本は保護化に抵抗を見せる韓国をどう攻略するか苦慮していたわけですが、これは渡りに船だったわけです。

こうして李完用の主導で高宗の廃位が実現しました。


そして1910年に総理大臣として閣議を招集し、日韓併合に関する御前会議を招集し、合併案を可決させました。これによりイ・ワニョンは日本政府から勲一等伯爵の伯位と、残務処理手当60円、退職金1458円、総督府の恩賜公債15万円を受け取りました。

そして併合後は朝鮮貴族として不自由ない暮らしを送り、1926年に他界しました。

 

5.李完用が守ろうとした国のかたち

なぜ、開化派で高宗の側近だった彼が親日派になり、日本に迎合して皇帝の退位を自ら進めてしまったのでしょうか。

結果論から見ると李完用が併合を進める大きな原動力になったのは否定できないのですが、実は彼は積極的に併合に賛成していたわけではなく、できるなら併合を避けた方が良いと考えていました

ところが李完用は、強大な日本の圧力に抵抗することは韓国には無理であるため、なるべく韓国に有意な条件で韓国の利益を最大化できるポイントで妥協ができないかと考えていたわけです。

李完用が守ろうとしたのは「国家」という枠組みです。

現在では国家は領土や主権や国民にあると考えます。

しかし朝鮮自体の儒教教育を受けてきて骨の髄まで染み付いていた李完用にとっては、皇帝・国王が生き延びて、大臣をはじめとした政権の幹部らがその職を安堵されること、王族が王という号を用いること、韓国が独自の国号を保持することで、韓国という国家の枠組みが生き残ると考えました

その他の事柄、例えば外交権の譲渡や、国民を日本臣民にすることや、領土を日本の管理下に置くことなどは、妥協できるポイントであると考えたのです。

名と実でいうと、名のほうをとったというわけです。

ただし現実の国際社会の中で、儒教的な名の論理が通用するわけはなく、実質的な政治権・外交権を奪われた韓国は、日本に政治的・経済的に併合されていきます。

李完用が守ろうとした国号や王号も、アジア太平洋戦争後の独立の機会には見向きもされず、南北ともに共和政国家が樹立されました。

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まとめ

李完用はソウルで死亡するのですが、太平洋戦争後にあまりに多くの人が墓を荒らしたり小便をかけたりするため、アメリカに住む子孫が遺骸を火葬し墓を撤去してしまったそうです。

韓国では親日派という言葉は売国奴と同義で、大韓帝国末期に併合を推進した人だけでなく、日本統治下で朝鮮総督府のために働いたり、富を得たり、日本人のために何らか便宜を働いて金を受け取ったり利益を得たりしている人がいたら、その子孫の資産が没収されたり、社会的に糾弾されたりなど、かなりひどい制裁を喰らいます。

李完用のような高い見識と知性がある人間だからこそ、当時の社会と国を取り巻く環境を冷静にみると、どう考えても日本と併合するのは必然であることは分かったと思います。

ではその中で自分の利益をどう最大化するか、と彼が考えたとしても不思議はないです。

誰かがやるのであれば自分がやってもいいのではないか。自分が利益を得ても誰も文句は言わないのではないか

なるべく国や国王への貢献はしつつも、自分への利益還元をどうするかを考え行動した結果ではないかと思います。

そういう行動を韓国・朝鮮の人は非難しますが、一人のキャリア官僚として、人間として、李完用の選択は普通にありうるし、同じ立場ならそうする人のほうが多いのではないでしょうか。

売国奴と呼ばれる人々は「時の不運」により、後世に名指しで批判されてしまう人々であります。

 

参考文献

『政治経済史学』木村幹「李完用に見る韓国併合の一側面(1)」1963年2月 P24~42

『政治経済史学』木村幹「李完用に見る韓国併合の一側面(Ⅱ)」1963年2月 P1~18

『韓国の教科書に出てくる 人物コリア史3 近現代』 尹姫珍 著, 大図建吾 訳 彩流社 2013年1月31日初版第1刷