トルコ建国の父ムスタファ・ケマル・パシャを逮捕しようとした男
ダマド・フェリト・パシャはオスマン帝国末期の政治家で、第一次世界大戦後に大宰相を務めました。
彼がなぜ売国奴と呼ばれているかというと、大戦に敗北したオスマン帝国の存続のために、イギリスをはじめとした連合国に迎合し、セーブル条約という極めて不利な条約にサインをしたこと。
そしてアンカラに共和国政府を建てたムスタファ・ケマル・パシャとトルコ民族解放闘争に反対したたことがあります。
現在のトルコ共和国は、アンカラ政府を基に続いている政体で、ムスタファ・ケマル・パシャは独立の英雄とされているので、彼を逮捕しようとしたダマド・フェリト・パシャは売国奴とされています。
オスマン帝国末期と内戦を経てトルコ共和国が成立するまでの動乱期の歴史を追っていく必要があります。
1. 青年トルコによる革命
ダマド・フェリト・パシャ、本名はメフメト・フェリドと言い、1853年にオスマン帝国の首都イスタンブールに生まれています。一族はモンテネグロのポシャシ村出身だとか、アルバニアの出身だとか、資料によっていくつか見解が分かれています。
彼が生まれた時代、オスマン帝国は危機に瀕していました。19世紀前半にはギリシャが独立し、エジプト総督ムハンマド・アリーが事実上独立させ、ヨーロッパからアフリカ、中東まであった領土がどんどん縮小していっていました。
またヨーロッパ諸国に恩恵を与える名目で始まった通商特権であるカピチュレーションは、19世紀になるとオスマン帝国に不利な不平等特権となり、経済的にヨーロッパ諸国がオスマン帝国内部に深く進出するきっかけとなりました。
オスマン帝国内部からも改革の動きは強まっていました。
1839年に即位したスルタン、アブデュルメジト1世は、帝国全盛期のスレイマン大帝の時代への復活を掲げて、ギュルハネ勅令を発布し、政治制度、軍制度、経済制度の大改革を実施しました。これをタンジマートと呼びます。
帝国の中央集権化とヨーロッパ流の制度の導入を目指すもので、日本の明治維新など他のアジア諸国の改革運動の先駆的な取り組みでした。
1876年位即位したスルタン、アブデュルハミト2世はタンジマートを継続し、同年にアジア初の憲法であるオスマン帝国憲法、通称ミドハト憲法を制定しました。
ところが、ロシアの南下により露土戦争が勃発すると、アブデュルハミト2世は憲法の停止を一方的に宣言して皇帝専制を復活させ、独自のパン=イスラム主義を掲げ、イスラム教徒の団結と連携によって西洋の進出から国体を維持しようとしました。
このアブデュルハミト2世の独断的な政治に対して、タンジマート期にヨーロッパで学んだエリート層が1889年に結成した秘密結社「統一と進歩委員会」です。
世界史の授業で学ぶ「青年トルコ」は、この統一と進歩委員会以外の複数の改革派政治団体を総称した呼称です。
秘密結社には有力な軍人も多く含まれており、1908年にニヤーズ・ベイとエンヴェル・ベイらが軍事蜂起し皇帝に対しクーデターを敢行します。これがいわゆる青年トルコ革命です。
1年後に反革命運動が勃発すると、エンヴェル・パシャが首都に軍を進軍させ、アブデュルハミト2世を廃位し統一と進歩委員会が政権を握りました。
こうしてオスマン帝国は立憲主義と議会制民主主義を基にした国として再出発をすることになりました。
2. 第一次世界大戦の敗北
ところが政権をとった統一と進歩委員会は、若く政治に不慣れで広大で多様な民族を有するオスマン帝国の舵取りを上手に取ることができず、メンバーの中には統一と進歩委員会を見限って独立し独自の政党を立てる者や、メンバーではあるものの距離を取るものも多く現れてきました。
後のトルコ共和国初代大統領になるムスタファ・ケマル・パシャもこの時、距離を置いた人物の一人です。
民主政権下でも帝国の没落は止まりません。1911年にはイタリアの侵攻を受けてリビアを奪われ、1912年には第一次バルカン戦争でアルバニアの独立を許しました。
相次ぐ敗北と領土の蚕食によって信頼を失った統一と進歩委員会の政権は、失った領土の奪還に固執し軍事に注力するようになり、経済問題やインフラ開発、東部アナトリアへの投資など重要な改革をおざなりにするようになっていきます。
1914年に軍人エンヴェル=パシャのクーデターにより軍事独裁的な政権が成立すると、10月にオスマン帝国は失地の回復を約束したドイツ、オーストリア=ハンガリーと組んで第一次世界大戦に参戦するに至ります。
ところがオスマン帝国軍はシリア方面でイギリス軍とベドウィン反乱軍に。東部ではロシア軍に敗れました。またアナトリアではオスマン帝国軍による組織的なアルメニア人虐殺事件も発生し、国際的な非難も高まっていました。
オスマン帝国軍はガリポリ上陸戦ではイギリス軍とANZAC、オーストラリア・ニュージーランド連合軍に勝利しますが、終始劣勢のまま1918年10月に終戦を迎えました。
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3. ダマド・フェリト・パシャ、政権を握る
前置きが長くなりましたが、ここから今回の主人公のダマド・フェリト・パシャの登場です。
統一と進歩委員会の政権が1908年に成立した後、議員になっていたダマド・フェリト・パシャは出世の機会を求めて統一と進歩委員会の政権を支持しますが、期待した反応が得られなかったため、反対派に回ることになりました。
1910年2月にダマド・フェリト・パシャは、多民族国家オスマンにとって国民主権は有害だとして、1909年の憲法改正を批判し、立法議会に移譲された権限の一部をスルタンに返すべきだと言いはじめました。
これが親スルタン派や反共和主義の政治家に受け、ダマド・フェリト・パシャは野党のリーダー格としてプッシュされるようになったのです。1911年には自由と進歩党を結成し、統一と進歩委員会政権の批判の急先鋒となりました。
第一次世界大戦末期、敗北の色が濃くなると、統一と進歩委員会はバラバラに分裂し、1918年11月に党は解党されました。ダマド・フェリド・パシャは影響力を獲得して権力を握ろうと躍起になるわけです。
政権はイゼット・パシャによって担われましたが、イギリスを筆頭にする連合軍はイゼット・パシャ政権の対応が不満でした。旧政権の統一と進歩委員会の元党員への裁判の対応が甘いことや、アルメニア人虐殺事件に対する処理が全然進まないことへのフラストレーションが高まっていたわけです。
この状況を利用して自らの権力基盤を固めようとしたスルタン、メフメト6世はダマド・フェリド・パシャをイギリスに派遣して支援を求め、スルタン派への支援を約束されるとテヴフィク・パシャを辞任させ、1919年3月ダマド・フェリド・パシャを首相に任命しました。
政権に就いたダマド・フェリド・パシャは、旧政権の党員を指導者を逮捕し裁判にかけ、戦争犯罪法廷を設置しアルメニア人虐殺に関与したと考えられる政治家や軍事指導者を逮捕、処刑していきました。
連合国の強烈な反オスマン帝国敵視策の中で、ダマド・フェリド・パシャはなんとかイギリスを味方につけてさらなる連合軍の侵攻を防ごうとしたわけですが、大ギリシャ復活を目指すギリシャが5月15日には西部イズミルの町を占領するという事態に発展します。
ギリシャ軍のイズミル占領はトルコ人に大きな衝撃を与え、各地で反ギリシャ、反連合軍の反乱や暴動が起こりました。
ダマド・フェリト・パシャは国民に冷静になるよう呼びかけ各地の暴動の鎮圧を行う一方で、1919年6月に講和会議であるパリ会議に出席し、ギリシャ軍のイズミル撤兵を要求しました。
また戦後の領土交渉では、ダマド・フェリト・パシャは、トラキア方面では1878年のベルリン条約で引かれた国境線を、東部では第一次世界大戦前の国境線を受け入れるが、アラブ諸国に自治権を与えることは認められないと述べて、戦勝国から大ブーイングを受けました。
手ぶらでイスタンブールに戻ったダマド・フェリト・パシャは、要求を連合国に飲ませられなかったとして各方面から非難されました。
4. ケマル・パシャのトルコ革命
ダマド・フェリト・パシャがパリ会議に出席する一カ月前の1919年5月19日、第一次世界大戦のガリポリの戦いの英雄で、強い愛国心と共和主義の理想を持ったムスタファ・ケマル・パシャが船で北部の港町サムスンに上陸しました。
彼はアナトリア各地に散らばっていた旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集し、ダマド・フェリト・パシャ率いるオスマン帝国政府への抵抗運動を組織化しました。
ダマド・フェリト・パシャはこの動きに対して、ムスタファ・ケマル・パシャら民族主義勢力の指導者への逮捕状を出しました。
イギリスはムスタファ・ケマル・パシャの動きがトルコ民族主義の高まりと反連合国のアクションにつながることを恐れていたため、ダマド・フェリト・パシャはその意向を汲んだわけです。
しかし、イギリスはダマド・フェリト・パシャの動きに賛意を示さないばかりか、ギリシャの一方的な行為を容認し続け、トルコ人がギリシャ人を殺害しているからしょうがないのだと主張し続けました。
1919年8月21日、アメリカは、もしアルメニア人が殺されれば、オスマン帝国は完全に解体されるだろうと書簡を送り、ダマド・フェリト・パシャは、それはあまりに一方的すぎる見方で不当だと訴えました。
当時のオスマン帝国を見る連合国の視線は厳しく、厳しいどころ敗者に対する報復めいたところがあり、ダマド・フェリト・パシャは敗者という立場を前提にしつつ、なるべくオスマン帝国に不利な状態にならないように振る舞おうとしていました。
ムスタファ・ケマル・パシャは弱腰で連合国の傀儡に成り下がったオスマン帝国政府を打倒すべく1920年4月20日にアンカラでトルコ大国民議会を結成します。この議会には、旧統一と進歩委員会の有力者や帝国政府の議員が首都イスタンブールをはじめ各地から参加しました。
トルコ大国民議会は、現体制が自ら形を変えてアンカラで再建されたものとして、国家と国の行政を正式に引き継いだと主張しました。こうしてイスタンブールとアンカラの2つの政府が現れたわけです。
5. ダマド・フェリド・パシャの失脚
講和会議であるパリ会議は、1920年5月にオスマン帝国に和平条件を通知しました。
それによると、
- アナトリアのオスマン帝国領はイスタンブルとアンカラ周辺のみで、東南部はフランス、南部はイタリア、西部はギリシアに割譲する
- アルメニアとクルディスタンを独立させる
- イラク、トランスヨルダン、パレスチナはイギリス、シリア、レバノンはフランスの委任統治とする
- キプロス島はイギリスに割譲する
- ダーダネルス=ボスポラス海峡は国際管理とする
- カピチュレーションはそのままとし、財政はイギリス・フランス・イタリアの監視下に置かれる
というもの。
ムスタファ・ケマル・パシャのアンカラ政府はこれを拒否すると宣言します。
オスマン帝国の代表としてパリに赴いていたダマド・フェリト・パシャは、連合国との交渉の結果、一切の譲歩や妥協点がないこと、これ以上先延ばしすると連合国軍によるさらなる侵略が控えていることがわかると、スルタン、メフメト6世を説得し、1920年8月10日にセーヴル条約を受け入れました。
セーヴル条約の調印はトルコ各地で猛反発をもたらし、アンカラ政府は条約調印者に反逆罪で死刑を宣告しました。
ダマド・フェリト・パシャはセーヴル条約にサインした後も、条約の修正要求や批准の履行遅延といった措置で抵抗しました。
1920年10月1日、イギリスの外相カーゾンは、ダマド・フェリト・パシャにセーヴル条約を批准するよう圧力をかけ、新たな首相を就任させ条約を批准させるよう要求しました。実質トルコ領土の多くを支配下に置くアンカラ政府がこの条約を受け入れない限り、条約の批准は不可能だったわけです。
フランス高等弁務官は、ダマド・フェリト・パシャを首相の座から引きずり下ろすため、英国の高等弁務官に協力を申し出ました。
二人の高等弁務官は10月17日にスルタンを訪ね、ダマド・フェリト・パシャの辞任を要求。フェリド・パシャは同日、辞表を提出しました。
彼はその後、妻の病気を口実に、スルタンに報告することなくヨーロッパへ亡命。1923年10月6日にフランスのニースで死去しました。
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まとめ
その後トルコ革命は、アンカラ政府率いる大トルコ国民会議軍による地方のオスマン帝国派の反乱制圧と、東部のアルメニア軍、南部のフランス軍、西部のギリシャ軍への攻撃。そして1922年9月のイズミル奪還へと進んでいきます。
圧倒的に不利な中での巻き返しは、ムスタファ・ケマル・パシャの指導力もありましたが、亡国の危機に直面したトルコ人が自発的に銃を取り、自己犠牲を顧みずに戦いに身を投じていったことが大きな要因でした。そういう意味でまさに国民革命とも呼ぶべきものでした。
アンカラ政府の実力を認めた連合国は、1922年10月に新たにローザンヌ講和会議を開き、現在のトルコの領土を認める妥協案を受け入れました。そしてイスタンブールのオスマン帝国政府は完全に人々の信用を失い、ムスタファ・ケマル・パシャにより廃止されました。
同時に世俗権力であるスルタンと、宗教権力であるカリフも廃止しました。そして1923年には総選挙を実施し10月29日に共和制国家であるトルコ共和国が成立しました。
こう未来から振り返ると、こうでもしないと現在のトルコ国家は存続しなかったのだろうと思いますが、当時の現実路線はダマド・フェリト・パシャの方だったんだろうと思います。
なぜなら連合国軍は圧倒的な軍事力を持っていて、本気になればオスマン帝国軍を簡単にひねり潰すだけの力があったわけです。
なるべく連合国軍に強硬策をとらせずに、妥協点を探りたいというのがダマド・フェリト・パシャの外交方針だったわけです。しかしこういう毒には毒というか、強く来る相手にはコッチも強く出ないといけないという歴史の教訓かもしれません。
参考文献・サイト
“DAMAD FERİD PAŞA” TDV İslâm Ansiklopedisi
「世界史の歴史20 近代イスラームの挑戦」 山内昌之 中央公論社 1996年12月25日初版発行