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【現代メキシコ史】メキシコ革命は成功だったのか失敗だったのか

ラテンアメリカの中でいち早く近代改革を成し遂げた革命

メキシコと聞くと、危ない国というイメージを持っている人が多いかもしれません。日本のニュースで流れてくるメキシコの話題といえば、麻薬カルテルと軍隊の戦いとか、報復で市長が殺害されたとか、そういった物騒な話が大半なので、メキシコは発展が遅れた失敗国家なのではないかと思っている人ももしかしたらいるかもしれません。

ただメキシコは、革命によってスペイン植民地時代から続いていた封建的制度抜け出した、ラテンアメリカ諸国の中では先駆的な存在でした。メキシコは10年に及ぶ内戦によって多くの犠牲者が出ますが、その後の革命の制度化により、政教分離や外国資本の排除、農地改革など近代的な改革を成し遂げました。

この動画ではメキシコ革命の推移を開設しつつ、現在のメキシコの麻薬カルテルの問題についても少し触れたいと思います。

 

1. メキシコ革命の概要

メキシコ革命はいくつかの過程に分かれます。ここでは大きく、4つのフェーズに分類してみたいと思います。

  • フェーズ1:独裁的な政治を行なったディアス大統領への反対運動
  • フェーズ2:ディアス退任後に大統領に就いたマデロを追放したウエルタ大統領への抵抗運動
  • フェーズ3:ウエルタ追放後に発生した内戦で、カランサが大統領になり全国を制覇する過程
  • フェーズ4:カランサ大統領以降に革命を憲法と制度に落とし込む過程

大きくこの4つです。

革命によってメキシコは、ディアス時代の自由主義的な体制から、比較的国家が強い権限を持ち国民生活や経済に介入する体制へと変革しています。

ただし、社会主義国家になったというわけではありません。私有財産を認めつつも、国家に強い権限を与え農地を小作人に再分配したり、宗教を認めつつも、カトリック教会の土地や資産を没収したりと、比較的社会主義に近い政策を取りつつも、将来的に国力や産業力が増し、国民がより豊かな生活を行えるための手段の一つとして国家による強い介入を行なったというわけです。

メキシコ革命は魅力的な登場人物が多く登場することでも知られます。

 

解説の前に何人か主要な人物を紹介します。

まずは少し触れたポルフィリオ・ディアス(1830年〜1915年)。もともと軍人出身で、フランスがメキシコに介入してきたフランス干渉戦争でフランス軍を打ち破った英雄です。武力を背景に大統領に就任し、35年に渡って独裁体制を築きました。メキシコ革命はこの独裁者ディアス打倒というところからスタートしています。

 

次に、ディアス打倒の中心的存在となった、フランシスコ・マデロ。北部コアウイラ州の大富豪の生まれで、欧米に留学し最先端の学問を学んだ知識人でもありました。農場経営をしていましたが政治に興味を持ち、独裁政治の打倒と民主化を目指して活動を行うようになります。

 

次に、農民指導者エミリアーノ・サパタ。

モレロス州の農民で、土地の奪還を求める農民を代表して民主化運動に参加し、途中殺害されるも農地改革を主導する人物です。

 

次に、北西部チワワ州の私兵集団の頭目パンチョ・ビリャ。

もともと盗賊出身で、地域のゴロツキを率いて民主化運動に参加した人物です。

 

最後に、ベヌスティアーノ・カランサ。彼はコアウイラ州の政治家で、現実的に旧体制と妥協しつつも、体制の革新を図るという護憲派勢力を率いて内戦を戦い、全土の制圧に成功した人物です。

 

前置き長くなりましたが、ではメキシコ革命について解説していきます。

 

. メキシコ革命以前

メキシコは1821年のスペインから独立を果たしますが、地方の軍閥の勢力と、保守的な農民と結びついたカトリックの宗教勢力が非常に強い土地柄で、独立当初から政治は不安定でした。

1833年に大統領となったサンタ・アナは強力な中央集権体制を導入しようとしますが、反発した地方の離反を招いて、その過程でテキサス戦争や米墨戦争を起こされて敗れ、国土の半分もアメリカに奪われました。

その後、自由主義者のベニート・フアレスがカトリック勢力の排除を進めるレフォルマと呼ばれる改革を進めようとしますが、ナポレオン3世のフランスの干渉を受け、メキシコは一時ハプスブルク家の皇帝マクシミリアンが支配するメキシコ帝国となります。

フアレスをはじめメキシコの諸勢力はフランスを軍事力で追い出し、再び経済開発を進めようとしますが、1876年にフランス軍に勝利した英雄で将軍のポルフィリオ・ディアスが反乱をおこし、1877年の選挙で大統領に就任します

 

大統領になったディアスは、自分に対する反対派は軍隊を送り込んで徹底的に弾圧する一方で、自分のシンパには利権を与えて優遇したため、ディアスに迎合する人間が得をして富裕になりました。

ディアスは徹底的に自由主義経済を推し進め、外国資本を積極的に導入して未開発のメキシコの資源を開発して経済発展をしようと試みました。ディアス時代にはアメリカやイギリス、フランス、ドイツなどから投資が殺到し、そのおかげで各地に工場が建設され工業化が推進され、その過程で鉄道や港湾施設、道路、ダムなどのインフラも整備されました。また都市の発展や教育の普及、中間層の増加など、メキシコはディアス時代に大きく経済発展を遂げることになります。

 

一方で急速に進む都市化や中央集権化などの社会の再編は、それについていけなる人物とついていけない人物を生じさせ、格差の拡大が極度に大きくなりました。

特に地方では広大な土地が大土地所有者によって占有され、貧しい農民は土地を奪われ安い賃金で働かされる小作農となりました。また先住民も共有地も富裕層の私有地となり、追放された先住民の中には奴隷として売られる人たちもいました。

また、自由主義的な政策の中で利益が最優先され、例えば労働時間や賃金、労働条件など労働者保護が顧みられなかったため、工場でも非常に劣悪な労働を強いられました。待遇の改善を求め、工場労働者はストライキやストを行いますが、政府とグルになった資本家は、軍隊を送り込んで労働者を武力で鎮圧します。

 

こうして、ディアス時代には急速な社会の変革に伴い、貧富の拡大、地方の衰退、労働条件の悪化、欧米的価値観の絶対化と伝統的価値観の破壊などなど、さまざまな軋轢が社会に生じていました。19世紀末から20世紀初頭にかけては、世界のどこでも似たような社会の軋轢は生じていたわけですが、メキシコは特に極端な形で進行しました。

 

2.反ディアス運動の勃発

ディアス政権の末期の1900年代後半は、ディアス独裁体制の打倒を目指す様々な民主化運動が起こっていました。

そんな中、ディアスは1910年の大統領選挙に出馬しないことを表明します。これに反応したのが、自由主義派のフランシスコ・マデロです。

マデロはディアスの再選に反対を表明する著作や講演で急速に注目を浴び、一躍次期大統領候補になりました。するとディアスは突然マデロを逮捕して投獄。選挙に出馬して当選すると、マデロを釈放しました。

マデロはアメリカに亡命し、1910年11月20日にディアス打倒のための声明を発表し、メキシコ国民にディアス打倒を呼びかけました。これがメキシコ革命の正式なスタートとされます。

マデロの呼びかけに応え全国的な反政府運動が起こり、ディアスは1911年5月25日に大統領を辞任して亡命しました。そうして11月に選挙が行われ、マデロが正式に大統領に就任しました。ところが、マデロが大統領になったあと、ディアス打倒に呼応した勢力がマデロと対立するようになります。

というのも、マデロは富裕層で知識人の民主主義者であり、単にディアスの独裁体制を問題視していたのであって、民主主義体制の実現を最優先に考えていた人でした。なので例えば貧富の格差とか、労働者や農民、先住民の惨状の改善といった事柄には、正直あまり関心がない人であったのです。

反ディアスで団結した諸勢力はマデロに失望し、今度は反マデロとなります。その急先鋒が、農民革命軍を率いたエミリアーノ・サパタでした。

サパタはサトウキビ農園が主力のモレロス州の出身で、ここでは大資本の砂糖アシエンダが農民の土地や水利権を奪って巨大化し小作農民と対立しており、農民たちは土地の返還を求めて指導者サパタを中心に団結し戦いました。サパタ以外にもマデロからの離反は相次ぎ、マスコミもマデロを無能な政治家として攻撃しました。

そんな中で、1913年2月9日にメキシコシティで反乱が発生し、ディアス派の軍人ウエルタ将軍がマデロ大統領と副大統領ピーノ=スアレスを殺害し、実権を掌握しました。こうして、ディアス時代への復帰を目指す反動体制が成立します。

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3.反ウエルタ政権闘争

ウエルタが政権を取ると、マデロに反発していた勢力は、今度は反ウエルタで一致し、打倒ウエルタの闘争を開始しました。この時にもっとも強力な革命軍が発生したのが、メキシコ北西部のコアウイラ州、チワワ州、ソノラ州の3州です。

チワワ州の軍勢を率いたのが、パンチョ・ビリャです。ビリャは当初は山賊でしたがマデロの理想に感化されて戦いに身を投じるようになった人物で、地元のチンピラを率いました。親分肌のビリャに惹かれて従ってる連中ばかりで、ビリャの個人的な私兵集団のようなものでした。

ソノラ州の軍勢を率いたのがアルバロ・オブレゴンの率いる軍。

コアウイラ州の軍勢を率いたのが、ベヌスティアーノ・カランサの率いる軍です。カランサは既存の制度を守りつつ体制の刷新を図るという護憲派の勢力です。これら北西部の軍はウエルタに抵抗し、カランサはグアダルーペ計画を発表し憲法の順守とウエルタの打倒を全国民に呼びかけました。こうして全国的な抵抗運動の発生で1914年7月にウエルタ政権は打倒されました。

 

4.カランサ政権による全国制覇

ウエルタ打倒後の今後の体制を話し合う会議がアグアスカリエンテスではじまりました。ところがこの会議はまとまらず、農民軍を率いたサパタと、護憲派勢力のカランサが対立します。

会議ではサパタとビリャがグティエレスという人物を大統領に選出して臨時政府を成立させるも、カランサら護憲派はベラクルスに逃避して護憲派政府を樹立し、政府が分裂状態。ここで革命勢力同士の内戦が勃発することになります。

カランサ派はベラクルス政府にて各地の勢力の支持の取り付けを行うために様々な政策を打ち出しました。農民に対しては農地改革、労働者に対しては最低賃金と労働時間の設定などを定めました。

ソノラ州のオブレゴン派を取り込んだカランサ派は、1915年1月にグティエレス政権の首都メキシコシティを攻略。4月にグアナファト州セラヤでビリャ軍を破り、その年の秋までに国土の大半を攻略しました。

ビリャ軍との戦いは内戦時代の最大の激戦で、これに敗れたビリャ派はチワワ州に撤退し、元の山賊的な活動を行うようになります。

蛇足ですがその後、ビリャは国境を越えてアメリカの町も襲撃をしており、これを問題視したアメリカは飛行機なども動員してビリャ討伐の軍を送ることもありましたが、結局捕まることはありませんでした。カランサの勝利の結果、10月にアメリカは正式にカランサを政府の代表として承認しました。

 

5.革命憲法の樹立と革命の制度化

勝利したカランサは、1916年10月に選挙を実施し、翌年に制憲議会が開かれました。

この選挙ではビリャ派もサパタ派も立候補の資格をはく奪され、カランサの護憲派のみが参加したため、後の憲法の制定会議も護憲派のみが参加することになりました。

しかし議員はカランサの想定よりもかなり急進的な内容を求め、メキシコ社会の抜本的な改革に取り組むことになりました。こうして1917年憲法が成立することになります。

1917年憲法の特徴はいくつかあります。

まずディアス独裁の反省から、大統領の再選を禁じる点。私有財産を認めつつも「土地と水の所有者」は国家に属するという点。地下資源の所有者はメキシコ人とメキシコ法人だけであるとしている点。

当時としては先進的な、8時間労働や女性の出産休暇、最低賃金、労災保証などを定めた労働基本権と社会保障を定めている点。

宗教勢力の学校設立や不動産所有を禁止している点。聖職者の選挙権や被選挙権を否定したり、州内の聖職者の数を制限するなど宗教を様々な形で制限している点です。

 

メキシコ革命はその後、1920年5月にカランサが暗殺され、オブレゴンが大統領に就きます。オブレゴンは4年任期を務めた後、大統領の再選を禁止する憲法に反して再選しようとしていたところを暗殺されます。

次の大統領エリアス・カリェスは外国人の土地保有、特に石油資源の土地の保有を禁止する他、農民への土地の再分配をカランサ以上に推進しました。

また、任期切れによって政治の空白が生じて混乱が起こらないように1929年に国民革命党を結成します。その後、任期切れの後も他の大統領を陰で操るフィクサーとして活動しますが、内戦時代の部下であったラサロ・カルデナスと政治的に敵対。そのカルデナスが1943年に大統領に就任します。

カルデナスの下で、鉄道の国有化と石油産業の国有化が推進されました。カランサの後のオブレゴン、カリェス、カルデナスという革命の精神を引き継ぐ3人の大統領の下で、憲法で定められた革命の精神は実政策として実行されたわけです。

革命中に露呈した、地方や利害関係者による意見の食い違いと、そこから生じる政治的分裂を阻止するため、国民革命党をコアとして軍人、農民、ホワイトカラー、ブルーカラーの4つの階層を党に結集される国民動員体制が結成されました。

建前上は党のチャネルを通じて自分の主張を上位に伝えられるとしながらも、実際は上意下達の党の決定事項を末端にまで確実に実行させることを狙った体制が作り上げられました。

国民革命党は1938年にメキシコ革命党と名称を変更し、さらに1947年に制度的革命党(PRI)と変わり、2000年に選挙で敗れるまで71年間もの間メキシコ政治を独占しました。その名前の通り、革命をメキシコの制度として定着させようとしたわけです。

 

6.「革命の死」と麻薬戦争

メキシコ革命はいつ終わったのかという定義は議論がありますが、1992年の憲法の改訂により、国家による土地の再分配の停止と農地の私有化を許諾、そしてカトリックに対する各種の制限の全面撤廃が行われたことで、正式に革命は終わったと考えられています。

革命体制によって確かにディアス時代にあったような極端な格差というのは是正されたものの、東側諸国と同じように経済の停滞と社会の閉塞感をもたらしました。

1992年という、ソ連の解体したすぐ後に憲法が修正されたというのは象徴的で、時代は西側陣営の勝利、自由主義と資本主義の未来、といった雰囲気の中で、革命の継続と言うのは確かに困難だったと思います。

NAFTA(北アメリカ自由貿易協定)への加盟のために、メキシコはこれまで閉ざしていた外国資本への門戸を開く必要があったという点もあります。メキシコは巨大なマーケットを持つ隣国アメリカとともに、自由主義、そして新自由主義政策をとった経済発展へと大きく舵を切っていくことになります。

 

現在社会問題になっている麻薬カルテルは、最近起こった問題ではなく、昔から存在していたものでした。

時代が下って80年代には、それまでアメリカへの麻薬密輸の一大拠点だったコロンビアの麻薬・ヘロイン密輸ルートが壊滅状態に陥り、新たな麻薬・ヘロイン密輸ルートとしてメキシコが注目されるようになっていました。

90年代には麻薬カルテルは支配地域の拡大と一大市場であるアメリカへの販売ルート拡大で争いを繰り広げるようになります。制度的革命党が政権を担っている間は、彼らはある種麻薬カルテルと妥協して、国民総動員体制の一部に麻薬カルテルも組み込んで、彼らの飯の種を潰してしまわない程度にしていたわけです。

ところが、2000年に制度的革命党が下野すると、この点が問題視されます。

前政党は犯罪組織と結託していた!と非難されたわけです。

2006年末に政権についたフェリペ・カルデロン政権は、「対麻薬戦争」を宣言し、麻薬カルテルの徹底した制圧に乗り出しました。それは麻薬の栽培・製造の取り締まりとカルテルのボスの逮捕を大々的・徹底的にやるというものです。

ところがこれがライバル同士のカルテル間の抗争やカルテル内の主導権争いを引き起こし、麻薬関連の暴力の犠牲者は急増してしまいます。さらには、麻薬カルテルを摘発しようとする行政や警察に対する襲撃や拉致、殺人も行われ、報復が報復を呼ぶ泥沼の抗争に陥っています。

アメリカはメキシコが麻薬やヘロインをアメリカに密輸してくる、と非難しますが、実際のところアメリカにものすごい数の麻薬とヘロインの消費者がいて、彼らの需要を満たすためであり、単にカルテルを潰したり生産地を焼いたりするだけでは根本解決になっておらず、消費者自体を撲滅する必要もあります。大変に難しい問題です。

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まとめ

メキシコ革命は果たして成功だったのか失敗だったのか、という点も歴史家の間では議論があります。

革命当初に特に護憲派が目指していた、国家が国民生活や経済に強く介入することで国民を保護し、より豊かな経済発展や国民生活向上に役立てる、という点についてはかなり怪しい部分があります。

ただしある程度国家が国民に介入していかないと、様々な地域の多様な人たちをまとめきれずに、麻薬戦争のような大変な事態に陥ってしまうことも、後の歴史が証明しています。

メキシコ革命がなかったら、もしかしたらメキシコは複数の国に分裂していたり、アメリカのもっと強い影響下に置かれる国になっていたかもしれません。

 

参考文献

「世界史リブレット メキシコ革命」 国本 伊代 山川出版社

「腐敗した共和国を救いうるか ―メキシコ・国民再生運動と新大統領ロペス=オブラドール―」 豊田 紳 ラテンアメリカレポート

「第6章  メキシコの麻薬紛争に関する予備的考察」 馬場 香織 星野妙子編『21世紀のメキシコ:近代化する経済、分極化する社会』調査研究報告書 アジア経済研究所 2017年