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馬から落ちて死んだ世界史の国王15人

多くの人の命を奪った落馬事故

現代の交通事故に類する事故が、昔では落馬事故にあたったのかもしれません。

不注意や追突、飲酒運転などもあったでしょうし、今の自動車にはない「馬の機嫌」というものもあったので、自動車よりもよっぽど危険です。

落馬で死んでる人は歴史上数限りなくいますが、今回は国王を15人リストアップします。事前に申し上げますが、この15人だけというわけではなく、もっともっとたくさんいます。独断と偏見で15人に絞らせていただいています。

 

1. ルイ3世(865-882)

女の子を追いかけて落馬

ルイ3世はカロリング家出身の西フランク王国の王で、弟のカルロマン2世と共同統治を行いました。彼の治世は879年から882年とわずか3年しかないのですが、881年8月に北のヴァイキングを倒すなど、軍事的な成功があります。

ルイ3世は882年、17歳のときに、領地のサン=ドニで馬に乗って少女を追いかけていたところ、低い扉のまぐさ(横石)で頭を打って転倒。頭蓋骨骨折で即死しました。

弟のカルロマン2世が西フランク王国唯一の王となりました。

 

2. ルイ4世(920-954)

狼を捕らえようとして落馬

ルイ4世はカロリング家出身のフランク王国の王。当時のフランク王国では、歴史的な王家のカロリング家の力が弱まり、地方諸侯が実力を高めていました。

922年、ロベール家の反乱によりルイ4世はイギリスに亡命しました。

936年、国王ラウールが死に、敵対する有力諸侯の間で新国王が擁立できなかったため、勢力均衡のために国王に擁立されました。実権はほとんどなく、ロベール家のユーグ・ル・グランの傀儡王でした。

954年、ルイ4世はランスに馬で移動中、ヴォアの森で狼を見かけ、捕らえようとしました。その際に馬から落ち、その時の怪我が原因で死去しました

 

3. ルイ5世(966-987)

カロリング朝を断絶させた落馬事故

ルイ5世はフランク王国カロリング朝の最後の国王。

979年、父と共同統治王として戴冠され、986年に父が死去すると単独の王となりました。当時のフランク宮廷には、ランスの大司教アダルベロンと王妃エマを中心に東の神聖ローマ帝国との友好関係を目指す一派と、あくまで敵対し東方拡大政策を目指す二派がありました。

986年の夏、反神聖ローマ派が優勢となり、王妃はユーグ・カペーのもとに逃げ、アダルベロンも逃亡しました。ルイ5世はアダルベロンとの和平会談を画策しましたが、これが実現する前の987年5月に狩猟中に馬から転落死しました。

彼には息子がなかったため、カロリング朝は断絶、国王選挙によって新たにユーグ・カペーが国王に選出され、カペー朝が始まることになります。

 

4. フルク5世(1089/1092 - 1043)

狩猟中に落馬して死去

フルク5世は西フランスの大貴族アンジュー家の出身で、1109年に父の死後アンジュー伯爵となります。

エルサレムに聖地巡礼中、エルサレム国王ボードワン2世からエルサレム王位に関する相談を受けました。ボードワン2世には男子の後継者がおらず、娘のメリセンデを後継者に指名していたが、王国の守りを固めるため、有力貴族であるフルク5世とメリセンデの婚姻を希望するというものでした。フルク5世は共同王であれば受諾するとし、こうして彼はエルサレム国王となりました。

エルサレム国王としては、十字軍諸侯と協力しセルジュク朝のモスル太守ザンギーや南のファーティマ朝の攻撃から王国を防衛しますが、1143年にアッコで狩猟中に落馬し死亡しました。

 

5. セレウコス2世(BC265-BC225)

Image by CNG

落馬で死んだセレウコス朝凋落期の王

セレウコス2世はヘレニズム国家の一つセレウコス朝シリアの第4代国王。

この時代、西のプトレマイオス朝のプトレマイオス3世の侵略に加え、パルティアのアンドラゴラスやアナトリアのアッタロス1世など地方勢力の分離に苦しみました。

セレウコス2世は即位以来、これらの戦いに明け暮れますが、はかばかしい成果を上げられず、王国は弱体化し続けました。

セレウコス2世は紀元前225年に落馬により死去。その後、長男のアレクサンダーがセレウコス3世を名乗り、さらに次男のアンティオコス3世が紀元前222年に後継者となり、彼の息子たちによりセレウコス朝は再び拡大期を迎えます。

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6. テオドシウス2世(401-450)

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東ローマ帝国の苦境の時代の皇帝

テオドシウス2世は東ローマ帝国テオドシウス朝の第2代皇帝。

彼自身は神学を始めとした学問に熱心な人物で、大学の設立やコンスタンティノス1世以降の法体系の整備を行ったり、ネストリウス派教義に関する神学論争に決着をつけるべく、エフェソス公会議を開くなどしました。

しかし対外的には、フン族、ヴァンダル族、ササン朝ペルシアの伸張に悩まされ、制圧を試みるもいずれも成功しませんでした。

彼は450年7月28日、落馬により死去しました。

 

7. ウィリアム1世(1028-1087)

戦場の落馬の傷が原因で死亡

ウィリアム1世は「征服王」の名の方がよく知られているかもしれません。

史上名高い「ノルマン・コンクェスト」を成し遂げた人物です。

ここで詳しく彼の生涯を説明することはしませんが、ノルマンディー公だった彼はイングランドのエドワード懺悔王の死後に起こった後継者争いに割って入り、ハロルド2世をヘースティングスの戦いで破ってイングランド王に即位。ノルマン朝を開きました。

こうしてフランス国王の臣下であるノルマンディー公がイギリス王となるという体制が生まれ、英仏の国王の対立は後々まで問題になり、百年戦争の遠因にもなります。

1087年7月、ウィリアムはフランスのヴェクシンに対する遠征を指揮しましたが、マント攻略の際、戦場でウィリアムは落馬し(病気という説もある)、それが原因で1087年9月9日に死去しました。

 

8. ウィリアム三世(1650-1702)

馬がモグラの穴に足を突っ込み落馬して死亡

ウィリアム3世はイギリス、ステュアート朝の国王。彼自身はオランダ王家のオラニエ=ナッサウ家ですが、母の祖父がジェームズ1世であり、イングランド、スコットランド、アイルランド国王を引き継いでいます。

オランダ総督でもあった彼は、フランスのルイ14世の拡張戦略に抵抗し、フランスのオランダ侵攻を打ち破ってプロテスタントの英雄となりました。名誉革命でイギリス王位に就いた後も他の欧州諸国と連合してフランスに対抗し続けました。このフランスへの執拗な対抗の過程で、イギリスはフランスが持つカナダやインドなどの有力な海外植民地を奪っていきました。これが後にイギリスが覇権国に成長していくきっかけの一つになりました。

1702年、ウィリアム3世はハンプトン・コート宮殿で乗馬中、馬がモグラが掘った穴に脚をとられたため落馬。これが原因で死去しました。

 

9. アレグザンダー3世(1241-1286)

嵐の中馬に乗っていたところ落馬して死亡

アレグザンダー3世は13世紀のスコットランドの国王。

長年ノルウェーと係争していた、スコットランド西方のアウター・ヘブリディーズ諸島の領有を戦闘と交渉で勝ち取ることに成功しました。

アレグザンダーは1286年3月19日、翌日に控えた女王の誕生日に駆け付けるため、周囲の者が止めるのも聞かずに、数名の従者と共に嵐の中馬に乗ってキングホーンに向かったところ、馬が暗闇で足を滑らせ、落馬して首を折り死亡しました。

 

10. ジェロニモ(1829-1909)

落馬して動けず肺炎にかかって死亡

ジェロニモはアパッチ族の軍事指導者として知られます。

アパッチ族は何世代にもわたって白人支配に抵抗してきた部族で、ジェロニモも十代の頃からは、メキシコ人への襲撃に加わりました。彼の勇気、決断力、戦闘力は仲間内で評判になり、戦士の一団を率いるまでになりました。

1874年、約4000人のアパッチ族がアメリカ当局によってアリゾナ州中東部の不毛の地に強制移住させられ、ジェロニモら一部の戦士は白人との戦争を開始。戦いは1886年まで続き、最終的に降伏しました。

1909年2月、ジェロニモは馬で帰宅中に馬から投げ出され、発見されるまで寒い中一晩中動けずにいたため、それが原因で肺炎を起こし死去しました。

 

11. ラヨシュ2世(1506-1526)

モハーチの戦いで落馬して溺死

ラヨシュ2世はハンガリー王・ボヘミア王(ボヘミア王としてはルドヴィーク)。

父の跡を継いで国王になったものの、当時のハンガリー王国は貴族たちが好き放題する無政府状態に近く、国家財政も破綻状態でした。

そんな隙を突いて南からオスマン帝国のスレイマン1世が介入し、ハンガリー王国に宣戦布告。ベオグラードやセルビアの多くの戦略的城郭はオスマン帝国に占領されました。

1526年、スレイマン1世は2度目のハンガリー侵攻を敢行。ラヨシュ2世は1526年8月29日、モハーチの戦いでオスマン帝国軍に挑むも、オスマン帝国軍の騎兵隊に挟み撃ちにされ、ハンガリー王国のほぼ全軍が2時間で壊滅しました。

退却の際、ラヨシュ2世はチェレ川の険しい渓谷を馬で登ろうとして、後ろ向きに転倒。川に転落し、鎧の重さで立ち上がることができず溺死しました

 

12. レオポルド5世(1157-1194)

馬により足がつぶされ死亡

レオポルド5世は12世紀のオーストリア大公。

彼の時代に近代オーストリアの領土が定まりました。また彼は第3回十字軍に従軍したのですが、伝説によると、戦いの後、彼が血まみれのベルトを脱ぐと、白い縞模様が現れたそうで、これがオーストリアの国旗となったのだそうです。

第3回十字軍の後、イングランド王リチャード1世とフランス王フィリップ2世との対立が高まり、フィリップと結んだレオポルドはリチャードを捕らえて身代金を要求するという暴挙を敢行しました。

怒ったローマ教皇セレスティヌス3世から破門されてしまったため、赦免を受けようとする最中の1194年、馬から落ち、馬が彼の足に倒れてきたため足が潰れ、召使いに斧で足を切り落とさせましたが、この負傷が原因で死亡しました。

 

13. ロデリック(?-711)

落馬して川で溺れて戦死

ロデリックは西ゴート王国最後の王。

西ゴート王国の末期は政治が安定せず、実力のある者が国王の座を次々に奪い取る状況でした。その政治的不安定さに目を付けたのが北アフリカを席巻していたアラブ帝国です。ロデリックはもとは公爵または軍事司令官であったと思われる人物で、前王のウィテザ王を追放して王位に就きました。北アフリカ総督ムーアは、部下のターリク率いる軍をイベリア半島に送り込みました。そして711年7月、ロデリック率いる西ゴート軍とターリク率いるアラブ軍とグアダレーテ川付近で衝突。

この戦いで西ゴート軍は壊滅。ロデリックは落馬し川で溺れて死亡しました。

西ゴート王国は崩壊し、イベリア半島はイスラムの支配下に入っていきます。

 

14. ウルバヌス6世(1318-1389)

ラバから落ちた怪我が原因で死亡

ウルバヌス6世は教皇の大シスマ(分裂)が生まれた時の教皇です。

アヴィニョン捕囚でアヴィニョンにあった教皇庁がローマに戻った教皇グレゴリウス11世が1378年に死去した後、後継者に選出されたのがウルバヌス6世でした。

しかしこの選出にフランス人の枢機卿は反発し、対抗教皇としてクレメンス7世をアヴィニョンに擁立しました。こうして、40年にわたってローマ教会を苦しめた西方分裂が始まることになります。

1388年8月、ウルバヌス6世は資金調達と祝典のために数千の軍隊を率いてペルージャを出発したのですが、その途上のナルニという場所でラバから落ち、ローマで回復を図りましたが結局死亡しました。

 

15.チンギス・ハーン(1162-1227)

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様々な説があるチンギス・ハーンの死因

大モンゴル帝国の礎を築いた英傑チンギス・ハーンの死因は、正史である『元朝秘史』によると、狩猟中に馬から落ち、怪我のため死亡したとされています。

しかし正確な死因は謎で、病気、戦死、狩猟や戦闘で負った傷によるものなど様々です。マルコ・ポーロは最後の遠征で受けた矢傷の感染の後に死んだと書いています。西夏との戦闘中に死んだという説もあります。また、17世紀初頭のある年代記によると、戦利品となった西夏の王女が懐に短剣を隠しており、寝床で刺し殺したと言う話まであります。ただこれは根拠がない脚色されたお話であるようです。

チンギス・ハーンの遺体が見つかれば正確な死因も分かるはずですが、墓はまだ見つかっていないところから、今のところは想像をたくましくすることしかできません。

 

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まとめ

馬から落ちて死んだということは武人王だったのかなというイメージがありますが、狩猟中や移動中に落馬しているので、その生涯と死因は関連がありません。

しかしこうして多くの王が落馬で死んでいるわけなので、王族に限らず貴人も庶民も、かなりの数の人が落馬で死んでいたのでしょうね。

 

参考サイト

"Louis III Holy Roman emperor" Britannica

"Louis IV king of France" Britannica

"Louis V king of France" Britannica

"Fulk king of Jerusalem" Britannica

"Seleucus II Callinicus Seleucid ruler" Britannica

"Theodosius II Roman emperor" Britannica

"William I king of England" Britannica

"Geronimo Apache leader"

"William III king of England, Scotland, and Ireland"

"Alexander III king of Scotland" Britannica

"II. Lajos királyunk története" A Cultura Magazin cikke csak engedéllyel másolható.

"Leopold V duke of Austria" Britannica

"Roderick king of Visigoths" Britannica