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【トルコ戦国時代】アナトリア半島の10君侯国の歴史

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Work by Lord Leatherface

オスマン帝国の支配に抵抗したアナトリアのベイリク

セルジュク朝はアナトリア半島を支配する過程で、トルクマン人を始めとするベイ(君侯)の一族を送り込んで地方の統治を任せました。しかしセルジュク朝の支配が弛緩するとベイは独立をし、ベイリク(君侯国)と呼ばれる国々を形成しました。14世紀~16世紀までアナトリア半島は小国の割拠が続き、最終的にオスマン帝国によって統合されていくのですが、オスマン帝国もこれらの国々の併合にはかなり手を焼いています。

あまり馴染みがないのですが、アナトリア半島の戦国時代とでもいうべき君侯国時代の国々を紹介します。

 

1. サルハン侯国(1313年~1415年)

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奴隷貿易の中心地として栄えた国

サルハン侯国は1290年代からアナトリア西部でサルハン・ベイという人物が設立した国です。

サルハン・ベイはセルジュク朝の先兵としてカタロニア人が守るビザンツ帝国のマニサを攻めて陥落させ都にしました。サルハン・ベイはビザンツ帝国やオスマン帝国と時には協力、時には敵対しつつ、アナトリア西部の中心的な国となりました。1333年5月にはイブン・バットゥータもマニサを訪れています。

サルハン侯国はムザッフェルディン・イシャク・ベイの支配下で全盛期を迎え、首都マニサは海賊業と奴隷貿易の中心地として盛えました。海上を航行する主にヨーロッパの船を襲撃して乗組員を拉致して奴隷として売りさばく他、奴隷解放のための身代金をとるというビジネスです。サルハン侯国はメフレヴィー教団を保護し、マニサ・ウル・モスクとキュッリエ・モスクなど専用のモスクも建設されました。

1380年代ごろからオスマン帝国への従属が始まり、反オスマンの立場をとったオルハン・ベイがティムールの元に逃げた後、サルハン侯国はオスマン帝国に組み込まれますが、アンカラの戦いでオスマン帝国がティムールに敗れた後、オルハン・ベイは復帰してサルハン侯国を再興しています。

しかしバヤズィト1世の息子である王子スレイマン・チェレビー、次いで後にメフメト1世となるチェレビ・メフメトによって占領され、オスマン帝国に組み込まれました。抵抗勢力も1426年に全て鎮圧されました。

 

2. ゲルミヤン侯国(1300年~1429年)

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14世紀前半のベイリク最強国家

ゲルミヤンとはもともと中部アナトリアにいた部族で、セルジュク朝のアナトリア進出に伴って西に移動しデニズリの町を拠点にセルジュク朝に抵抗し独立を維持したのが、ゲルミヤン侯国の始まりであるようです。

1300年ごろにヤクブ・ベイという人物に率いられたゲルミヤン部族はイル・ハン朝を庇護者とし、ビザンツ帝国の領土を圧迫してトリポリスやヒサルコイ、アサシェヒルを征服し領土を拡大しました。

当時の旅行者の証言によると、ゲルミヤンはトルコのベイリクの中で最も強大で、中心地のキュタヒヤには大きな城と豊かな作物があり、侯国には700の集落、4万人の騎兵があって、戦争中に完全装備の20万人の騎兵と歩兵を連れ出すことができたされます。最後の数字は誇張か従属する侯国の兵士の数を含んでいると考えられますが、大変なものです。ヤクブ・ベイの治世中には、ビザンツ帝国は毎年10万ディナールに加え貴重品をゲルミヤン侯国に贈答していたそうです。

ヤクブ・ベイの孫であるスレイマン・シャーの時代から、強大化するオスマン帝国への従属が始まり、スレイマン・シャーの息子であるヤクブ・ベイ(曽祖父と同名)はムラト1世の軍に加わってアンカラの戦いに参加しますが、ティムールに敗れてしまいます。オスマン帝国の覇権が弱まる中で、ヤクブ・ベイはティムールと交渉して領土を安堵されました。

オスマン帝国の空位期間中、ヤクブ・ベイはチェレビ・メフメト(のちのメフメト1世)を支持。一方で隣国のカラマン侯国から侵攻を受け、中心地キュタヒヤは包囲されてしまいます。これに対し、チェレビ・メフメトは軍を率いてカラマン侯国の軍を攻めてキュタヒヤの包囲を解かせ、ゲルミヤン侯国はオスマン帝国の保護国化しました。ヤクブ・ベイは息子がなかったため、ゲルミヤン侯国をオスマン帝国に遺贈して死去。こうしてオスマン帝国に併合されました。

 

3. アイドゥン侯国(1308年~1426年)

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良港イズミルを抑え貿易国として栄える

アイドゥン侯国は、ゲルミヤン侯国軍の軍長であったミュバリゼディン・ガジ・メフメド・ベイがアイドゥン州を征服し港町イズミルを中心に設立した国です。

もともとイズミルはジェノヴァの重要な港でしたが、メフメド・ベイが創設した海軍に包囲され1329年に陥落しており、ヴェネツィア、ジェノヴァ、キプロス、ロードス騎士団などのキリスト教勢力は、その後イズミルの奪還を何度も試みています。一方でアイドゥン侯国はビザンツ帝国と良好な関係を築き、メフメド・ベイの息子であるウムール・ベイの時代には、アルバニアの反ビザンツ反乱に対して援軍を送って鎮圧するなど、協力的な態度をとりました。

イズミルは重要な港町だったので、キリスト教諸国は中東の十字軍諸国との交易や交流にあたってここに領事館を置かざるを得ませんでした。ローマ教皇はイズミル奪還を主張しますが、病院騎士団はアイドゥン侯国と国内活動の合意を得ていたし、キプロスやロードスも攻めたりせず、ジェノヴァはライバルのヴェネツィアを出し抜くためにアイドゥン侯国と協定を結ぶなど、ある意味現実的な対応をキリスト教諸国はとっていました。ウムール・ベイもヴェネツィアの船を保護することを約束し、その代わりに貿易に関税をかけて富を得ました。

しかしウムール・ベイの死後にイサ・ベイが侯国の首長になると、彼はオスマン帝国と結びました。アンカラの戦い後はアイドゥン侯国の領土はティムールによって安堵され、その後のキュニード・ベイの時代に空位期間中のオスマン帝国の王子たちの間のスルタン闘争にも参加しました。

キュニード・ベイはチェレビ・メフメト(後のメフメト1世)に反対し、バヤズィト1世の息子でアンカラで死んだと思われてたムスタファ(オスマン史では偽ムスタファ)を支持したため、ムラト2世は1425年にアナトリアのベイレルベイ・ハムザ・ベイを送り、キュニード・ベイを捕まえ、翌年家族と一緒に処刑しました。こうしてアイドゥン侯国はオスマン帝国の一部に組み込まれました。

 

4. ハミド侯国(1280年~1391年)

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港町アンタルヤの交易で栄えた国

ハミド侯国は、1240年にセルジュク朝時代に現在のシリアからやってきてイスパルタとブルドゥル地域の司令官を務めたハミド・ベイが由来です。

ハミド・ベイの孫のデュンダール・ベイの時代に中心地をエリディールに移し、シカラアサ、イェシロワ、テフェンニ、そして重要な港町アンタルヤを占領しました。

現在ではリゾート地として有名なアンタルヤですが、ここを占領したことはことさら大きく、国力を高め自信をつけたデュンダール・ベイは、イルハン朝の権威を認めず独立を宣言し、スルタンの称号を使い始めました。

イルハン朝の怒りを買ったデュンダール・ベイは殺害され、その後エジプトに逃亡していた孫のヒズル・ベイが国を引き継ぎ、1328年にはヒズル・ベイの父のムバリズディン・イスハク・ベイがさらに引き継ぎました。イスハク・ベイの死後、ヒズル・ベイが2度目の長となり、イスパルタのケセチ地区にヒズルベイ・モスクや浴場、マドラサを建てています。

1361年、キプロス王の遠征でアンタルヤが占領され、マムルーク朝の支援を受けたハミド侯国は奪還を試みるも達成できず、重要な地域を奪われてしまいます。

さらに隣国カラマン侯国からの侵攻も受けました。当時のハミド侯国の首長ケマレッディン・フセイン・ベイは、オスマン帝国のムラト1世の保護を求め、カラマン侯国に奪われた領土の奪還を目指しました。ムラト1世は1386年にカラマン侯国に対する遠征を実施するため、ハミド侯国の中心地エリディールに軍を進行させ占領。ハミド侯国はオスマン帝国の半ば保護国となりました。

ハミド侯国は1389年のコソボ戦争に参加し、フセイン・ベイの息子ムスタファ・チェレビの指揮の下、2000人の射手部隊を派遣し、戦争で重要な役割を果たしました。しかし後にオスマン帝国の王位に就いたバヤズィト1世は、アナトリアを統一するためアイドゥン侯国、サルハン侯国、メンテシュ侯国、ゲルミヤン侯国を占領。ハミド侯国でも「人々の不満を受けて」1390年から1391年に遠征を行い、ハミド侯国は占領されフセイン・ベイもこの時に死亡したとされています。息子のムスタファ・チェレビはバヤズィト1世に仕え、オスマン帝国に吸収されました。

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5. メンテシュ侯国(1262年~1391年)

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エーゲ海の島々を支配下に置き十字軍諸国と緊密な関係を築く

メンテシュ侯国の創設者はメンテシェ・ベイで、祖先はセルジュク朝に領地を与えられ海岸とデニズリ山脈の間の地域に入ったトルコマーン人と言われています。
1291年にアナトリアに進出したイルハン朝のスルタン・ゲイハトゥは、メンテシュの土地を略奪し、それが原因か定かではありませんが、1293年ごろにメンテシュ・ベイは死亡しています。

メンテシュ・ベイの死後、息子のメスド・ベイが首長になりました。メスド・ベイは1300年にロードス島の主要部を占領し、同年クレタ島とメンテシェ侯国の間で交易を開始。1308年に病院騎士団がロードス島を支配し、1311年にジェノヴァの商人の品物を没収したので、ジェノヴァは対抗措置としてメンテシェ侯国と同盟を結びます。1344年にキプロス艦隊がアイドゥン侯国からイズミルを奪ったため、メンテシェ侯国とクレタ島の間の交易がしばらく中断されましたが、アイドゥン侯国とキリスト教諸国との関係は悪化しますが、交易と外交的関係は中断されることはありませんでした。アイドゥン侯国は十字軍諸国と極めて緊密な関係にあったのです。

マハメド・ベイはの時代にはアンカラの戦いがあり国の危機を迎えるも、ティムールに贈り物をして国の安堵を許されました。しかしオスマン帝国のスルタンの座を巡る争いで、マハメド・ベイの息子のイリヤス・ベイはイサ・チェレビを支持。しかし、チェレビ・メフメト(メフメト1世)が勝利し、立場の悪くなったイリヤス・ベイはチェレビ・メフメトの支配を受け入れ、オスマン帝国の家臣となりました。そうしてアイドゥン侯国はオスマン帝国に併合されました。

 

6. ジャンダル侯国(1242年~1491年)

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何度もオスマン帝国からの離反を繰り返した黒海沿岸の国

ジャンダル侯国の創設者はシェムセディン・ヤマン・カンダールというトルクマン人です。

13世紀後半にカスタモヌの町は、セルジュク朝スルタン・マスード2世の勢力と、弟のクルチ・アルスラーンとヤヴラック・アルスラーンの勢力とで対立がありました。シェムセディン・ヤマン・カンダールはマスード2世に加勢し勝利に貢献したため、褒美としてカスタモヌの町とその周辺を与えられました。

シェムセディン・ヤマン・カンダールの死後、再びヤヴラック・アルスラーンの一族との対立が生じたため、息子のスレイマン・パシャはイルハン朝の宗主を認めつつ国をカスタモヌを維持しました。スレイマン・パシャはスィノップ、タラクル、サフランボルも征服し領土を拡充しました。特に黒海に面したスィノップの港は非常に重要で、銅や鉄、馬、野鳥などを輸出し、ジェノバ商人が持ってきた商品を輸入し経済的に繁栄しました。

しかし一族の対立からスレイマン・パシャは暗殺され、息子イブラヒム、従兄弟のアディル・ベイ、その息子のバエジッド・ベイへと短期間で首長が変わり、さらにはバエジットの息子のスレイマンとイスカンダルとで首長を巡る争いが続きました。
結局スレイマンが首長となり、自分を後援してくれたオスマン帝国に従ってコソボの戦いや西アナトリア遠征で活躍しました。

しかしスレイマンは、次はオスマン帝国は自分の国を潰しに来るに違いないと疑心暗鬼になり、カドゥ・ブルハネッディン朝と同盟を組んでオスマン帝国に反旗を翻しました。バヤズィト1世は遠征軍を派遣しますが、同盟軍は2度も追い払いました。しかし3度目の遠征でスレイマンは敗れて殺され、カスタモヌはオスマン帝国に併合されました。

アンカラの戦いでオスマン帝国がティムールに敗北すると、カスタモムを含むジャンダル侯国の領土は、イゼディン・イスフェンディヤール・ベイに引き渡されました。オスマン帝国でメフメト1世がスルタンになるとイゼディン・イスフェンディヤールはオスマン帝国の軍事要請に応えて息子のカシム・ベイに兵を率いさせ軍を派遣しています。

その後、ジャンダル侯国の首長の座を巡りイゼディン・イスフェンディヤールと息子たちを巻き込む内乱に発展し、オスマン帝国の介入によって和平が結ばれますが、この過程でジャンダル侯国は利権や領土の一部をオスマン帝国に握られていきます。

1461年、イゼディン・イスフェンディヤールの曽孫にあたるイスマーイール・ベイは、オスマン帝国から離反することを目指して兵を起こしますが、メフメト2世はカスタモムを攻め、さらにスィノップに逃げたイスマーイール・ベイを攻めて降伏させました。
降伏開城の際、メフメト2世はイスマーイール・ベイの首を抱きしめて「私の兄弟よ」と呼んだそうです。怖い。

こうしてジャンダル侯国は保護国化し、イスマーイール・ベイに代わってオスマン帝国が指定するクズル・アフメド・ベイが首長が座に就くことになりますが、2~3か月後に完全にオスマン帝国に併合されました。

 

7. アヒ(1290年~1362年)

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Image from "ANADOLU KÜLTÜRÜNÜN MAYASI AHİLİK" Çanakkale Esnaf ve Sanatkarlar Odaları Birliği

アナトリア都市にあった商業組合が運営する商業共和国

アヒは特定の国家を指すものではなく、アナトリアにあった都市運営も行う商業協同組合・職能集団・宗教組織のことです。
イスラーム成立のごく初期から見られた「フトゥッワ」と呼ばれた青年組織の流れを汲んでいます。フトゥッワはシリア、イラク、イラン、トルキスタン、サマルカンド、アンダルシア、北アフリカ、エジプトの商人や職人の共済組合として維持されてきました。

アナトリアでこのフトゥッワを高度に発展させたのが、イラン生まれのアヒ・エヴランという人物。彼はもともとシーア派ベクタシュ教団の指導者で、自らも職人でした。彼はアナトリアのカイセリを訪れた際に、国家権力が衰退し都市運営に混乱が生じた様に出くわし、伝統的なフトゥッワの師弟関係と相互扶助の組織を発展させ、都市運営・防衛にまで乗り出しました。

アヒはモンゴルの侵略を受け多大な損害を出しつつも、カイセリの町を守り抜き都市の自治を維持しました。当時アナトリアのベイリクの多くなイルハン朝を宗主国として認めましたが、カイセリやアンカラ、クルシェエヒルなど複数の都市にあったアヒの組合は商業共和国としての独立を維持しました。

アヒは職人・商人ごとのグループ、都市運営グループ、軍人グループ、宗教グループ、教師グループなどに分かれ、それらのグループを束ねる形で一つの組合を形成していました。

1354年、アンカラはオスマン侯国のオルハン・ベイに一時併合され、オルハンの死後にアヒは独立を回復しようとするも、1362年にムラト1世がアヒの政治力を消滅させ、オスマン帝国の一部となりました。アヒの指導者の中にはその都市運営能力を買われ、オスマン帝国の官僚となる人物もいたようです。

 

8. カラマン侯国(1250年~1487年)

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Image by MapMaster

アナトリアで最も強大で激しくオスマン帝国に抵抗したベイリク国家

カラマン侯国はアナトリア南部のラレンデ(カラマン)を中心に興った国で、アナトリア・セルジュク朝崩壊直前に1256年カラマンオウル・メフメット・ベイによって設立されました。

現在のアゼルバイジャンにいたトルコマーンの遊牧部族でセルジュク朝に仕えたカラマン・ベイがシリアからアダナを通ってカラマンに入り、13世紀半ばにキリキア・アルメニア王国のキリスト教徒の土地を占領し領土を拡大しました。

1262年にカラマン・ベイが亡くなると、長男のメフメトが当主となり、彼はトルコマーン諸侯と同盟しセルジューク朝やイルハン朝に対抗する軍を興しました。1276年、アナトリアのモンゴル支配に対するハットゥルー・シェムセッディン・ベイの反乱の際にも、カラマン侯国はモンゴルとセルジュクの軍隊をいくつか破るも、結局メフメトは敗れて1278年に弟たちとともに処刑されました。

しかしその後もカラマン侯国はマムルーク朝の援助を受けて力を盛り返し、イルハン朝滅亡後にはさらに勢力が拡大しました。

オスマン帝国の勢力がバルカン半島に拡大すると、アレアッディン・アリ・ベイはオスマン帝国の都市であったベイシュエヒルを占領するも、オスマン帝国が報復としてカラマン侯国の中心地コンヤに進軍。両国の間には和平が結ばれました。

カラマン侯国はオスマン帝国にもっとも激しく抵抗したベイリクの一つです。アンカラの戦いの後は、カラマン侯国のメフメトはオスマン帝国の旧都ブルサを占領してメフメト1世を激怒させ、捕らえられて牢獄に入れらています。彼は結局謝罪して許されています。

1443年~1444年にポーランドとハンガリーを中心に結成されたヴァルナ十字軍がオスマン帝国を攻撃した際、カラマン侯国のイブラーヒム・ベイはどさくさまぎれにアンカラとクタヒヤに進軍し、両都市を破壊しました。

オスマン帝国軍はヴァルナ十字軍に勝利を納めると、アナトリアで総覧を起こしたベイリク諸侯を問い詰め、イブラーヒム・ベイも謀反の疑いをかけられました。イブラーヒム・ベイはオスマン帝国が課す条件をすべて受け入れ許されています。

しかし1487年、同盟国であるマメルーク朝の力が衰えたこともあり、カラマン侯国はオスマン帝国によって最終的に消滅させられました。オスマン帝国は、二度とこの地に強力な国家が興らないように、住民の大部分を殺害するか移住させたそうです。
大多数は故地であるアゼルバイジャンの領土に移され、現在のギリシャ北部とブルガリア南部、マケドニアに移住したグループもあります。いくつかの部族は、後にイランにできるサファヴィー朝の樹立に大きな役割を果たしました。

 

9. カドゥ・ブルハネッディン朝(1381年~1398年)

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Photo by Buzancar

知識人・詩人のカドゥ・ブルハネッディンが独立して設立

カドゥ・ブルハネッディン朝はアナトリア中央部のカイセリにあった国で、詩人・知識人のカドゥ・ブルハネッディンによって建てられました。
ブルハネッディンはカイセリに生まれ、エジプトとダマスカス、アレッポで宗教、倫理学、数学などの高等教育を修めました。1364年にカイセリに戻った時、カイセリはセルジューク朝崩壊後に設立された小さな侯国の1つであるシヴァスとその周辺に設立されたエレトナ侯国の支配下にあり、統治者はジャセティン・メフメド・ベイでした。知識人であるブルハネッディンは長の顧問になり、裁判官の役割も果たし公正な審査で人々の人気を得ました。
1381年にエレトナ侯国の長が死に7歳の男子が引き継ぐと権力闘争が勃発。人気のあったブルハネッディンは1381年に摂政を殺害し自ら摂政となり、カディ・ブルハネッディンの独立を宣言しました。彼は内政に注力する一方で、周辺の強国である白羊朝、オスマン帝国、マムルーク朝に対処しなければなりませんでした。

ブルハネッディンは大国への対抗措置として、隣国のジャンダル侯国と同盟を結びました。これに対し、1392年にオスマン帝国のバヤズィト1世はジャンダル侯国討伐のための軍を起こしますが、2度もジャンダル&カドゥ・ブルハネッディンの連合軍に敗れます。3度目の遠征でジャンダル侯国のスレイマン・ベイは敗れて殺害されますが、カディ・ブルハネッディンはモンゴル人部隊を使ってオスマン帝国の土地を略奪するなどしました。
その後、ブルハネッディンは、彼に反抗した甥のシェイク・ミュエイドを、白羊朝の支配者カラ・ユルク・オスマン・ベイとの合意に従わずに殺害したため、1398年に怒ったカラ・ユルク・オスマン・ベイの軍の侵攻を受けました。ブルハネッディンはこの戦いに敗れ、捕らえられて殺されました。

 

10. ドゥルカディル侯国(1337年~1522年)

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オスマン帝国とマムルーク朝との間の緩衝国

ドゥルカディル侯国はドゥルカディル・カラジャ・ベイが東部アナトリアのエルビスタンを中心に設立した国です。

カラジャ・ベイはマムルーク朝のスルタンの宗主を認め、アナトリア半島の入り口に位置する領土を納める権利を認められました。しかしマムルーク朝とは時には敵対的な関係になることもありました。例えばカラジャ・ベイは大都市アレッポ周辺の土地を占領するも、マムルーク朝のアレッポ総督がこの土地を再占領して、さらに軍を進めてカラジャ・ベイを捕らえ、カイロに追放して客死させました。

その後、カラジャの息子のハリル・ベイの治世下で国は安定しますが、勃興するオスマン帝国とマムルーク朝の中間にあるドゥルカディル侯国は両国の緩衝国のようになりました。生き残りのためドゥルカディル侯国は婚姻政策をとり、オスマン帝国やマムルーク朝、有力なベイリクの皇帝や首長たちに娘を嫁がせました。

例えば、ハリル・ベイの弟のスーリ・ベイの次女はカディ・ブルハネッディン侯国、末娘はオスマン帝国のバヤズィト1世。ハリル・ベイの息子のメフメト・ベイの娘はメフメト1世と結婚。別の娘はマムルーク朝スルタンのザーヒル・ジャクマクと結婚。メフメト・ベイの長男スレイマン・ベイの娘はメフメト2世に嫁いでいます。

15世紀半ばには、マムルーク朝の支援を受けた首長メリク・アルスランの弟シャフブダクが反乱を起こし、マムルーク朝の軍事介入もあって首長に就きました。しかしメフメト2世によって追放されています。

このように歴代の首長は親オスマン派と親マムルーク派と勢力争いが起こっています。1515年にはオスマン帝国のセリム1世は、親マムルーク派の首長ボズクルト・ベイを破り、彼の息子であるアリ・ベイに国を引き継がせました。彼はマラシュの総督を務め、オスマン帝国からパシャの称号を得てオスマン帝国に服属し、ここでドゥルカディル侯国はオスマン帝国に編入されました。

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まとめ

世界史で学ぶオスマン帝国は強力な軍事国家のような印象を受け、実際にそうなのですが、アナトリア半島に割拠していた油断ならぬベイリクたちにはかなり苦戦していたことが分かります。彼らは、基本的にはオスマン帝国に従いつつも、オスマン帝国がピンチに陥るとすぐに裏切ることに躊躇がありませんでした。イルハン朝やビザンツ帝国、マムルーク朝など近隣諸国からの干渉もあり、様々なパワーバランスを汲みながらアナトリア征服を行う必要があったのでした。

 

 

参考サイト

"SARUHANOĞULLARI"  TDV İslâm Ansiklopedisi

"GERMİYANOĞULLARI" TDV İslâm Ansiklopedisi

"AYDINOĞULLARI" TDV İslâm Ansiklopedisi

"HAMÎDOĞULLARI"  TDV İslâm Ansiklopedisi

"MENTEŞEOĞULLARI"  TDV İslâm Ansiklopedisi

"Candaroğulları (İsfendiyaroğulları) Beyliği" Turk Tarihi (web archive)

Karamanoğulları Beyliği - Vikipedi

Kadı Burhâneddin - Vikipedi

"DULKADIROĞULLARI" TDV İslâm Ansiklopedisi