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ロシア革命後に成立した短命の社会主義国

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 ロシア革命後に雨後の筍のように成立した社会主義政権

 二月革命によりロマノフ王朝が崩壊し、内乱を経てボリシェヴィキによる政権が成立するまで、ロシア国内とその周辺国では、数多くの政権が成立しました。ボリシェヴィキ系、メンシェヴィキ系、民主主義勢力、少数民族系、傀儡政権などさまざまな勢力がありました。社会主義政権というだけでもさまざまありまして、今回は革命後に成立したいくつかの特徴ある社会主義政権を見ていきたいと思います。

 

1.水兵・建設労働者ソビエト共和国(1917年~1918年)

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Work by FugeeCamp

3か月間存在したエストニアのロシア水兵の政権

 水兵・建設労働者ソビエト共和国は1917年12月から1918年2月までの短い間に、現在のエストニア・ナルゲン島にあったソビエト共和国です。

ドイツとソ連との間に結ばれたブレスト=リトフスク条約によって、ロシアはバルト諸国を含む多くの地域の領有権を放棄。これに反対したロシア海軍の一部の水兵が、ナルゲン島を本拠地にしてソビエトの成立を宣言しました。

このソビエトは、ロシア・バルチック艦隊のレヴェルスク海軍基地とレヴェルスク桟橋を管理する80~90人の水兵と地元のエストニア人で構成されました。リーダーは水兵のリーダーで無政府主義者のステパン・ペトリチェンコで、バルチック艦隊の戦艦ペトロパブロフスクの上級事務官でした。

政府はソビエト・ロシアに倣って、人民委員会ソビエトを構成しますが、ドイツ軍がタリンに接近すると守備隊は1918年2月26日に戦闘を行わず船で逃亡。わずか3か月でソビエト共和国は崩壊し、残ったメンバーは政治犯として投獄されました。ナルゲン島はエストニア軍に解放されるまでドイツ軍によって占領されました。

 

2. アルザス=ロレーヌ・ソビエト共和国(1918年)

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 キール軍港反乱の水兵が建てたソビエト共和国

アルザス=ロレーヌ・ソビエト共和国は、第一次世界大戦末期のドイツ革命期に、労働者・兵士の評議会が1918年11月10日に宣言した短命の共産主義国家です。

第一次世界大戦が終わると、エーリッヒ・ルデンドルフ将軍を中心としたドイツ軍の司令部と文民政府は、連合国が提示した条件にしぶしぶ従いました。しかし、それまで脇役に過ぎなかった海兵隊司令部がイギリス海軍の艦船を攻撃する命令を出したため、水兵たちはキールで反乱を起こしました。当時、ドイツ最大の軍港であった港を制圧した反乱軍は、すぐに労働者とその労働組合に合流しました。この反乱はドイツ全土に急速に広がり、労働者、農民、兵士の評議会が国中で権力を握りました。

キールの蜂起に参加した水兵約15,000人が、1918年11月9日にアルザス=ロレーヌに帰国。彼らがストラスブールに到着すると、クレベール広場で何千人ものデモ隊に迎えられ、彼らは「兵士と労働者のソビエト」の設立を宣言しました。

しかし、1918年11月22日、グーロー将軍のフランス第4軍がストラスブールに進駐したことでソビエトは崩壊。わずか13日の命でした。

 

3. タルノブジェク共和国(1918年~1919年)

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西ガリツィアの貧農が自由と発展を目指して作った社会主義政権

長年、ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリーに組み込まれていたポーランドでは、ロシア革命とドイツ革命が発生したことで権力の空白が生じ、その機会に乗じて軍人ユゼフ・ピウスツキがワルシャワを占領して大統領となり、1918年11月にポーランド第二共和国を成立させます。

しかし統一政府が成立する前後、ポーランド国内にはさまざまな政治勢力や地域勢力が独自の政権を乱立させ内乱状態となりました。タルノブジェク共和国もそのような国の一つです。

西部ガリツィア地方(現在のウクライナ南西部)はオーストリア=ハンガリーの支配下にありましたが産業は農業が主力でしかも貧農が多い貧しい地域でした。

1918年10月31日、オーストリア=ハンガリーが降伏すると、さっそくガリツィアでは自治委員会が開かれ今後の行方が協議されましたが、彼らはピウスツキが率いるポーランドの新政権にも不信感を抱いていました。

そこで軍人のトマシュ・ドンバル中尉と小さな町の教会のエウジェニウシュ・オコニ神父が中心となり独立を目指すことになり、11月6日に農民を集めた集会が開かれ、タルノブジェク共和国の独立を宣言しました。

11月28日、ピウスツキが選挙の実施を発表すると、ドンバルとオコニはこれを拒否。当局によって逮捕されました。指導者が逮捕されたことで人々の間では動揺が広がり、暴動と化したため、治安当局が派遣され鎮圧されました。タルノブジェク共和国はこうしてすぐに崩壊したのですが、ドンバルとオコニは選挙に出馬して当選。第二共和国の議会でも左派勢力として活動しました。

後にオコニは議員を辞職して神父に戻り、第二次世界大戦では反ナチス活動に加わったことで、ナチスによって処刑。ドンバルはポーランド・ソ連戦争でソ連を支援したことで反逆罪となり、死刑となりました。

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4. テレク・ソビエト共和国(1918年~1919年)

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白軍によって崩壊したソビエト共和国

内戦勃発後、旧ロシア帝国各地にあったボリシェヴィキ系の政治組織は独自に人民会議を開いてソビエト共和国を形成し、モスクワのボリシェヴィキに忠誠を誓った上で、土地の分配や私企業の接収などの社会主義的政策を実行しようとしました。

大小様々なソビエト共和国が後にモスクワの指示で再編され、後にソビエト連邦を形成する共和国になっていきます。このような共和国はかなり数多くあるのですが、一例としてテレク・ソビエト共和国を紹介します。

テレク・ソビエト共和国はロシア帝国のテレク州を継承しており、現在ではチェチェン共和国、イングーシ共和国、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルダ・バルカル共和国、北オセチア共和国などを構成します。チェチェン人やオセット人、チェルケス人、イングーシ人などの数多くの山岳少数民族が暮らす地域です。

ロシア帝国崩壊後の1918年1月25日、テレク州の治安を維持し政治的空白を埋めるための人民会議が開催されました。当初はこの会議ではボリシェヴィキは大きな影響力を持っていませんでしたが、選出された人民評議会の議長は左派のパシュコフスキーで、彼を中心として第2回テレク人民会議でテレク・ソビエト共和国の設立が宣言されました。

テレク・ソビエトではモスクワのボリシェヴィキに忠誠を誓いつつ、コサック軍の解散と土地の接収などを進めたため、地元のテレク・コサックの反乱を招きます。

1918年7月、第4回テレク民族会議の際に、反抗的なコサックがテレク地方の大部分を占領。同月、テレク・ソビエト共和国は近隣の クバーニ=黒海ソビエト共和国、スタヴロポリ・ソビエト共和国と合併し1918年7月からは北コーカサス・ソビエト共和国の一部となるも、テレク・コサックとアントーン・デニーキン将軍が率いる白軍の攻撃を受けて同年12月に崩壊しました。

 

5. ドン・ソビエト共和国(1918年)

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 ドン地方にあった短命のソビエト共和国

ドン・ソビエト共和国は、1918年3月から5月までドン地方に存在しました。

ドン・ソビエト共和国は、義勇軍とアレクセイ・カレディンのドン・コサック軍がこの地域から撤退した後の1918年3月23日、ドン・ホスト州とエカテリノスラフ総督府の一部の領土を主張し、首都をロストフ・ナ・ドヌーに置いて設立されました。

しかし農民からの強制的な食糧の徴発や「反革命分子」と疑われる者の処刑などを行って住民からの支持を失い始め、4月にはドン・コサック軍の反乱が始まり、5月1日からはブレスト・リトフスク条約によりドイツ軍も領内に入ってきました。5月6日、ピョートル・クラスノフ率いるドン・コサックは、ドイツ軍が占領していたロストフ・ナ・ドヌーを占領。ドン共和国(ドン全大軍)を成立させ、ドン・ソビエト共和国は消滅しました。

その後ドン共和国は1920年に赤軍に敗れ、ソビエトの一部となりました。

 

6. ガリツィア社会主義共和国(1920年)

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 ポーランド領とウクライナ領のガリツィアの赤化を目指した

ガリツィア社会主義共和国は、ウクライナ領の東ガリツィア地方にあり、ポーランド側の西ガリツィアも統合して統一ガリツィア社会主義政権を作ろうとして瓦解した国です。

ガリツィア社会主義共和国は、1920年7月15日、ヴォロディミル・ザトンスキーをトップに据えてウクライナ・ボリシェヴィキの支援のもと設立されました。当時はポーランド・ソ連戦争の真っ最中で、戦争は当初はポーランドがソ連領に侵攻しキエフを始めウクライナ領の多くを占領しますが、4月以降はソ連が反転攻勢をしていました。7月以降、ソ連はポーランド領への本格侵攻とポーランドの赤化を目指すようになり、橋頭保としてガリツィアのソビエト化を試みたわけです。

政府は私財を禁止し、教会の領地を国有化し、7年間の教育を行う単一の労働学校を設立し、土地を国有化しました。8月末には、東西ガリツィアを統一する「全ガリシア・ソビエト会議」を招集しようするも、9月15日のポーランド軍の攻勢によりこれらの計画は失敗。1920年9月21日に共和国は正式に廃止されました。 

 

7. イラン・ソビエト社会主義共和国(1920年~1921年)

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Image by Froztbyte

 イラン北部ギーラーン州にあった社会主義国

イランでは20世紀初頭に事実上、イギリスとロシアの勢力圏に入れられ、1914年からは革命家ミルザ・クチャク・カーンによる民族的反政府運動であるジャンギャリー運動が北部ギーラーン州で始まっていました。

 

▽ミルザ・クチャク・カーン

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第一次世界大戦が始まるとガージャール朝の権威はますます失墜し、ロシア革命後にはギーラーン州ではボリシェヴィキの力を借りて無為無策な政府を倒そうとする勢力の勢いが増しました。

カーンは無宗教を掲げるボリシェヴィキとの同盟には慎重でしたが、副官のエハサノラ・ハーン・ダストダールは積極的な立場でした。最終的に、地主支配や貧困問題をロシアとイランは同じくしているという点で、カーンもボリシェヴィキの支援を受けることに同意。ジャンギャーリ運動の指導者であるカーンが主導し、イラン共産党との連立で社会主義国を設立することに合意しました。

1920年5月、ギーラーン州にイラン・ソビエト社会主義共和国(ギーラーン・ソビエト共和国)が成立。

トップに就いたのはカーンでしたが、彼は穏健派であり、土地の国有化や財産の没収、貧しい農民への土地の再分配などの急進的な社会主義政策は採らなかったため、後ろ盾のボリシェヴィキやイラン共産党との間との対立が深まりました。

1920年6月、イラン共産党がクーデターを起こしてミルザ・クチャク・カーンを追放して主導権を握り、反宗教的なプロパガンダや、金持ちの地主から金を強制的に徴収するなど、一連の過激な活動を開始しました。保守派や中産階級の人々はこれらの施策をソ連の息のかかったものとして激しく反発。また、戦争難民が都市部に殺到し、経済的にも大きな問題となり、共和国は市民の支持を失っていきました。

1921年になって、ギーラーン州でのボリシェヴィキの勢力拡大がイギリス側に問題視され、政治交渉でソ連はこの地から手を引くことに同意。ロシア・ペルシャ友好条約(1921年)が締結され、ソ連軍は撤退しました。すぐに、軍人レザー・ハーンはギーラーン州の領有を宣言。ソビエト共和国は1921年9月に正式に崩壊しました。

 

8. ラビン共和国(1921年)

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Work by Nonamme3

炭鉱労働者が武力で自治共和国を設立

ラビンはイストリア半島南東部、現在のクロアチア西部にある町で、長い間この地域の炭鉱産業の中心地でした。第一次世界大戦後、この地はオーストリア=ハンガリーからイタリアの支配に移りました。

 1921年2月2日、ラビンの南西4.5kmにある町ラシャの炭鉱労働者たちが、カトリックの祭日の出勤を拒否したことで2月のボーナスの支払いを拒否され労働争議が起きました。さらにストの準備をしている労働者の一人を、ファシスト党のメンバーが暴力を振るったことがきっかけで炭鉱労働者たちの怒りが爆発。

クロアチア人、スロベニア人、イタリア人、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、ハンガリー人、ドイツ人など、さまざまな人種の労働者2,000人が鉱山を占拠し、ゼネストを宣言しました。鉱山労働者委員会は、3月2日にはラビンを共和国と宣言。地元の農民たちもこれを支持しました。3月7日に成立した共和国は、ヴィネッシュとバルバンの町を含む325平方キロメートルを領土とし、ハンマーとカマを紋章としました。

イタリア当局は武力で制圧することを決定。4月8日には軍隊が投入され、主な鉱山を取り囲んで鉱山労働者の抵抗を鎮圧しました。わずか1か月で炭鉱労働者の国は崩壊しました。

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 まとめ

 一口にロシア革命の影響を受けた社会主義革命と言っても、その背景はさまざまであることが分かります。

ユーラシア北部の広大な土地で、多様な民族や集団がそれぞれの思惑でうごめき、列強も巻き込んで大乱戦をやってのけたのがロシア内戦ですが、細かい話はいくら深堀り調べてみても底が見えません。めちゃくちゃおもしろいので、引き続き調べていこうと思います。

 

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 参考サイト

 "République des conseils d'Alsace-Lorraine" owlapps

"Chłopska republika" Uważam Rze Historia

"ЕНЦИКЛОПЕДІЯ ІСТОРІЇ УКРАЇНИ" ІНСТИТУТ ІСТОРІЇ УКРАЇНИ

"جنبش جنگل در پرتو کشمکش قدرت‌های بزرگ" پژوهش های روابط بین الملل

Лабинская республика — Википедия