歴ログ -世界史専門ブログ-

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辺境を旅した5人の女性旅行者たち

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「旅は男のもの」と決まっていた時代に危険な旅に乗り出した女性たち

地域によりますが、21世紀の時代ですら女性旅行者はなかなか旅がしづらい状況があります。

特に女一人の旅だとセクハラは日常茶飯事で、旅先で「一人で旅するくらいだから、一晩いいんだろう?」と言われて嫌な思いをした人は多いと思います。

 現代ですら大変なのに、女性への偏見が大きかった時代の辺境への旅行はいかに大変だっただろうかと思います。そういった偏見と闘いながらも、好奇心の赴くままに辺境を旅した女性旅行者を紹介します。

 

1. グズリーズ・ソルビャルナルドーティル(アイスランド)980-1019

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「遥かなる旅人」と呼ばれたアイスランド女性

グズリーズ・ソルビャルナルドーティルは10世紀後半のアイスランド出身の女性で、家族で大西洋を船で旅をし現在の北アメリカに入植し息子を生んだとされています。

グズリーズの生涯は、古ノルド語で書かれた2つのサガ『赤毛のエイリークのサガ』と『グリーンランド人のサガ』に記録されています。この2つのサガは、おおよそ1000年頃にアイスランド人が北アメリカの端まで航海したことを描いたもので、併せて『ヴィンランド・サガ』と呼ばれています。「ヴィンランド」とは「ぶどうの土地」という意味で、場所は諸説ありますが現在のニューヨークではないかとも言われています。

このサガにはドラゴンやトロールのような空想の動物も登場するため、かつてはアイスランド人が北アメリカに到達したのもフィクションと考えられていましたが、1960年代にニューファンドランド島の先端にあるランス・オ・メドー(L'Anse aux Meadows)で北欧風の建物の跡が発見され、サガが正しかったことが証明されました。

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グズリーズの逸話は、彼女と父親がアイスランドから西に航海し、赤毛のエイリークが主導したグリーンランド入植に加わるところから始まっています。『グリーンランド人のサガ』によると、グズリーズと夫、他の数名は難破し、赤毛のエイリークの息子レイブル(幸運のレイフ)に助けられました。その年の冬、植民地は病気に見舞われ、夫は亡くなるも、グズリーズは生き残りました。彼女はエイブルの弟ソルステイン・エリクソンと再婚。しかし「死者の呪い」によってソルステインも亡くなったため、グズリーズは今度は商人のソルフィンヌル・ソルザルスソンと結婚。彼と一緒にヴィンランドに旅立ち、この地で彼女は息子のスノッリを出産しました。これは、ヨーロッパ人が北米大陸で産んだ最初の子どもとされています。

当時はアイスランド人の多数は伝統的な多神教徒でしたが、グズリーズはキリスト教徒でした。ヴィンランドから戻ったグズリーズは、息子が結婚した後にはローマへの巡礼も果たし、帰国後にアイスランドの小さな谷間に住み、修道女となって暮らしました。

2001年にその谷間で古代のロングハウスが発見されましたが、この家は当時のアイスランドの他の建造物とは異なる構造をしており、最も似ていたのは、ランス・オ・メドーの家でした。この家はグズリーズの終の棲家だったのかもしれません。

 

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2. ジャンヌ・バレ(フランス)1740~1807

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太平洋を旅した「農民の娘」 

ジャンヌ・バレは1740年7月、ロワール渓谷にあるオートンという町の生まれ。両親は日雇い労働者で、非常に貧しかったようです。

ところが彼女は若い植物学者のフィリベール・コメルソンの家に女中に入り、そこで彼に見初められ、その後の人生を一変させました。彼女はコメルソンの助手となり、書類や自然標本の制作などで彼を支えました。

なぜコメルソンがジャンヌ・バレを見初めたかは諸説あり、美貌のためというのが通説でしたが、作家グリニス・リドリーは著作『ジャンヌ・バレの発見-科学と公海と女性初の地球一周の物語』で、ジャンヌ・バレはアカデミックでは知られていない、庶民に長年伝承されてきた植物を使った民間療法に詳しく、その膨大な知識がコメルソンの研究に大いに役立ったからだ、という説を唱えています。

1767年2月にコメルソンは、フランスの探検家ルイ・アントワーヌ・ド・ブーゲンヴィルが率いる世界一周遠征で、「王のための植物学者・博物学者」に選ばれ辺境での植物採集の任務にあたるのですが、助手としてジャンヌ・バレを選んだのは彼女が助手・研究者として優秀だったからに他なりません。

しかし当時の法律では海軍の船に女性が乗り込むことは禁止されていました。そのためコメルソンはジャンヌ・バレに男装させ、レトワール号に乗り込みました。しばらく夫婦は100人以上の乗組員から秘密を守ることができたものの、後にバレてしまいます。

隊長のブーゲンビルの証言によると、エトワール号がタヒチ島に上陸したとき、タヒチの男たちがジャンヌ・バレを取り囲み「女だ」とすぐに見破ったのだそうです。

しかしグリニス・リドリーはこの証言は誤りだと考えており、ニューギニア島で乗組員に女であることがバレてしまい集団レイプされてしまった、そうです。

この遠征で発見された新種の植物は、ブーゲンビリアをはじめ遠征参加者の名前が名付けられています。

ジャンヌ・バレは探検中に多くの植物を発見したようです。彼女にちなんで名付けられた植物もありましたが、その後別の名前が付けられ彼女の名前は消えてしまいました。

唯一残っているものがマダガスカルで発見した植物で、コメルソンはこの植物を「ブレティア属」と名付けました。グリニス・リドレーが言うには、「ブレティア属の特徴は、1つの植物に様々な形の葉があること」で「コメルソンは、ジャンヌ・バレが様々な矛盾するものを持っていることから、彼女自身をうまく表現していると考えた」とまとめています。

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3. イザベラ・バード(スコットランド)1831〜1905

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世界の辺境を旅し紀行文を記した旅行家 

イザベラ・バードは明治時代の日本を旅した紀行文『日本奥地紀行』でよく知られています。

日本奥地紀行があまりにも有名なため、イザベラ・バードは親日家で日本を愛した外国人、のように思われているフシがありますが、特段日本を贔屓したということはなく、彼女は世界各地の辺境を旅し多くの紀行文を残しています。

スコットランドで生まれたバードは生まれつき病弱で、医者のすすめでアメリカとカナダを訪れたことがきっかけで旅にはまってしまいました。彼女が旅した場所は、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイ、日本、マレー半島、インド、チベット、ペルシャ、朝鮮、中国西部、モロッコ。これらの土地の旅で、『ハワイ諸島の六ヶ月間』『ロッキー山脈踏破行』『日本奥地紀行』『マレー半島紀行』『ペルシャ・クルディスタン紀行』『朝鮮とその隣国』『揚子江とその奥地』など10冊を記しました。

バードの著作は当時、東洋の辺境に関する重要な記録として評価が高く、特段学術的な訓練は受けてはいませんが、62歳のときにエリザベス女王に謁見し、英国地理学会の特別会員に任命されています。

バードの著作を読んだらよく分かるのですが、彼女は都会よりも自然を好む人です。可能な限り文明が届いていない辺境に赴いてそこに住む「高貴な野蛮人」との交流を楽しんでいました。日本奥地紀行でも、東京については特に何も感想めいたことは書いておらず、関東から東北の旅は「のみやしらみだらけ」「道が悪い」「日本人が夜中に部屋を覗く」とぐちぐちと文句をたれていますが、北海道に着くなりテンションが爆発しています。北海道は彼女の祖国スコットランドに似ていた

バードは72歳で死去するのですが、その2年前の70歳ですら半年間のモロッコ旅行を果たしています。

 

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4. ネリー・ブライ(アメリカ)1864~1922

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調査報道のパイオニアで、世界一周の世界記録保有者

ネリー・ブライは本名はエリザベス・ジェーン・コクランといいます。父は工場経営者で裕福でしたが、父が他界した後家計が苦しくなり、学校すら退学を余儀なくされました。

ある日、『ピッツバーグ・ディスパッチ』紙を読んだブライは「女性を否定的に表現している」と編集者に公開書簡を投稿します。これがきっかけで彼女は新聞紙ではネリー・ブライというペンネームで新聞のコラムニストとして活躍するようになりました。

1886年、ジャーナリストとしての成功を望むブライはニューヨークに移り住み、ニューヨーク・ワールド紙に自らを売り込んで、精神を病んだふりをして10日間精神病院に入院し、患者がどのように扱われているかを暴露する記事を執筆。6回連載のこの報道は大反響となり、ブライは瞬く間にアメリカで最も有名なジャーナリストの一人となりました。彼女の現地に飛び込んで取材する方法は、現在では調査報道と呼ばれる手法に発展していきました。

ブライの次なる挑戦は「世界一周の世界記録」。ジュール・ヴェルヌの『80日間世界一周』を読んで挑戦心を掻き立てられたようです。

1889年11月14日。ニューヨークを出発し、ニュージャージー州から船で太平洋を渡ってイギリスへ。ドーバー海峡を渡ってカレーから電車でイタリアのブリンディジ。船に乗りスエズ運河を超えてセイロン島のコロンボへ。コロンボからシンガポール、香港、日本。横浜から大西洋を超えてサンフランシスコに着き、電車でジャージーシティに着き旅を終えました。到着したのは1月25日で記録は72日6時間11分14秒。この記録は当時の世界記録でしたが、わずか数ヶ月で抜かれています。

ブライの旅の連載はアメリカで大評判となり、一躍時の人となりました。

1895年にブライは大富豪のロバート・シーメンと結婚しジャーナリズムから引退。1903年に夫が亡くなり、彼女は製造会社の経営を任さ、ビジネスでも活躍。晩年、ブライはジャーナリズムに戻り、女性参政権運動や第一次世界大戦などを取材しました。

 

5. ハリエット・チャーマーズ・アダムズ(アメリカ)1875~1973

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20世紀初頭の偉大なる女性探検家

ハリエット・チャーマーズ・アダムズはアメリカ出身の探検家。8歳の頃に父と一緒に馬に乗ってシエラネバダ山脈を旅し、11歳の時にはカリフォルニア州サンタクルーズで500ヤード(457メートル)を休まずに泳ぎ、根っからの冒険少女でした。

彼女は正式な教育は受けておらず、父や家庭教師の教育で成人し、24歳のときにフランクリン・ピアース・アダムスと結婚。数年後、夫婦はラテンアメリカに向けて出発し、馬、カヌー、徒歩、列車などを使って4万マイル(64,373キロ)を旅しました。約3年後に帰国したアダムスは、ナショナル・ジオグラフィックで講演を行い、探検作家としてのキャリアをスタートさせました。

アダムスは、スペインの植民地であった国や過去に植民地であった国をすべて訪れることを目指し、クリストファー・コロンブスの足跡をヨーロッパからアメリカ大陸まで辿りました。

第一次世界大戦中には、女性ジャーナリストとして初めてフランスの塹壕を訪れて撮影することを許されました。第一次世界大戦では、女性ジャーナリストとして初めてフランスの塹壕を訪れ、撮影することを許されました。

アダムスは1920年に新聞への寄稿で

「男が行くところに女が行けない理由はありません。もし女性が旅を好み、奇妙なもの、神秘的なもの、失われたものを愛するならば、彼女を家に留めておくことはできません。」

と書きフェミニストから称賛されますが、特にフェミニズムの観点から述べたわけではなく、単に彼女の興味関心や情熱を述べただけのようです。女性参政権について問われた時「そのことについて考えている時間がない」と答えています。

1930年、アダムスはニューヨーク・タイムズ紙に「Woman Plans Expedition」という特集企画で、スペイン、フランス、エジプト、エチオピア、ソマリランド、イラク、スーダンへと旅立つことを発表しました。最終的にはエチオピアに到達し、皇帝ハイレ・セラシエの戴冠式に出席もしています。

アダムスは地理学者としてのアカデミックな訓練を受けていませんでしたが、世界中から講演の招待を受け、イギリスの王立地理学協会にも招かれました。

しかしニューヨークの探検家クラブは、彼女をはじめとする著名な女性探検家の入会を許さず、探検家は男性の職業という立場を貫きました。

女性探検家たちはこれに対し、1925年、アダムスを会長とする「女性地理学者協会」を発足させました。このクラブでは、次世代の探検家たちに自分たちの専門知識を伝えるために、世界中から冒険好きな女性を募り講義を行いました。アダムスは39カ国から会員を集めて積極的に活動。1937年に移住先のフランスで死亡しました。

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まとめ

今では女性が一人で旅をするのは普通のことですが、100年前では当時は考えられなかったことで、その常識を打ち破る勇気は本当に尊敬します。

女性はできないのだから男性もするな、と文句を言うのではなく、男性と同じように自らやってみて、その後の女性の活動の領域を広げていったという点が素晴らしいと思います。党派同士文句を言いあってつぶし合うのではなく、行動・実践してみせる姿勢が必要だと思います。

 

参考文献・サイト

『日本奥地紀行』 イザベラ・バード著, 高梨 健吉訳 平凡社

"The amazing life of a great female Viking explorer" History Extra

"A Female Explorer Discovered On The High Seas" npr

"Nellie Bly" National Woman's History Museum

"A 40,000-mile journey was nothing for this 19th-century female explorer" National Geographic