歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

ポーランド軍事史の英雄六人

f:id:titioya:20210507211023p:plain

 ポーランドの亡国とレジスタンスの歴史

 ポーランドは中世には神聖ローマ帝国やロシアと対等に渡り合った東欧の大国でした。

しかし18世紀の第一次~第三次ポーランド分割で国を失い、第一次世界大戦後に復活するも、第二次世界大戦で再びドイツとソ連に占領されるという、亡国の屈辱を味わってきました。

国が失われても愛国者やレジスタンスたちは国内外で様々に活動を続け、ポーランド人とポーランド国家の復活と信じて活動していきました。今回はポーランドの軍事史の英雄をピックアップしていきます。

 

1. ヤン・ビトーナル "ルーディ"(1921~1943)

f:id:titioya:20210320144836j:plain

 反ナチス運動で活躍した若きレジスタンス

 ヤン・ビトーナルはコルブスゾワ(現在のポドカルパチェ州)の生まれで、中学生の時から第23ワルシャワ・スカウト団(オランジェリー)の一員になり、その流れで第二次世界大戦が始まってからレジスタンスに加わりました。

「ルーディ」というあだ名で知られますが、それは小鹿の肌のような髪の色とそばかすの顔という、彼の愛らしいルックスから来ています。
1940年6月までは武装闘争連合の連絡員を務めていましたが、翌年の春からはスカウト団の地下組織である「灰色の連隊」の一員となり、指揮官クラスに昇進し、小さなサボタージュ活動に関わりました。

それは絵の具を使って壁に「Fighting Poland」と落書きしたり、祝祭日にポーランドの国旗を掲げるといった行為です。ドイツの映画館や商店にガス管を投げ込むといった妨害行為も行いました。

ヤン・ビトナールのグループのレジスタンスは次第に武力闘争に発展していき、1942年の大晦日にはクラズニク近くの線路を爆破。1月18日にはドイツ人関係者を射殺。2月初旬にはゲシュタポから資料を盗み出すといった作戦に従事しました。
1943年3月22日~23日の夜に彼は父親と一緒にアパートの一室でゲシュタポに逮捕され、過酷な拷問を受けた末に翌週死亡しました。

ヤン・ビトナールは死後、「勇気の十字架」勲章を授与され、少尉に昇進しました。

戦後彼の抵抗運動は書籍や映画の主題となり、多くの学校やスカウト団がビトナールの名を冠しています。

 

2. スタニスワフ・マルサシュ(1913~1993)

f:id:titioya:20210320142241j:plain

 反ナチス活動を行って逮捕されたオリンピックメダリスト

スタニスワツ・マルサスはポーランドのスキージャンプを代表する選手でした。

18歳でポーランド選手権を制し、1932年のレークプラシッド・オリンピックにポーランド代表として初出場。その後3回オリンピックに出場。1938年にラハティで開催された世界選手権で優勝をしました。
ところが第二次世界大戦が始まると、マルサスも兄弟たちと同じく対ドイツ抵抗運動に参加。1939年10月からは、ポーランドの地下組織の兵士たちをスロバキア経由でハンガリーに運ぶ運び屋として活躍していました。

しかしオリンピックアスリートである彼は顔が知られ過ぎていたので、当時ナチス・ドイツの衛星国家であったスロバキアの兵士に発見され逮捕されました。拘留後処刑される寸前で警備員を気絶させて逃亡。ポーランドに帰国しました。

しかしポーランド本国でもゲシュタポの活動が活発になったため、彼は妻と一緒にハンガリーに逃亡することにしました。しかしスロバキアとハンガリーの国境を越えるところでスロバキア国境警備隊に逮捕され再び拘留されてしまいます。この時もマルサシュは他の囚人らと集団で脱走。格子窓をぶち明けて2階から飛び降り、集団でジグザグに駆け抜けて刑務所から走って逃げるというもので、追っ手から銃撃を受けて多くの仲間が殺されますが運よくマルサシュは助かりました。

その後、マルサルツはハンガリーに渡ったものの、今度はハンガリー軍に逮捕されました。しかしソ連軍の侵攻によって処刑が中止され、とうとう生き残ったのでした。

戦後はレジスタンスとしての功績や勇気に対して数々の勲章が送られ、少尉の階級を得ました。

 

 3. イェジ・バヤン(1901~1967)

f:id:titioya:20210320152502j:plain

 西部戦線で戦ったポーランド人パイロット

イェジ・バヤンは第一次世界大戦後にポーランド軍に入り、騎兵連隊や歩兵連隊の小隊長を務め、1920年のポーランド・ソビエト戦争にも従軍。その後チフス療養を経て、かねてより希望であった空軍に入隊しました。

1925年6月1日、第6空軍連隊に通信小隊長として配属され、しばらくアクロバット飛行隊として活躍。1935年4月にグルジオンツの空軍砲撃・爆撃学校に訓練班長として派遣され、1939年8月には航空士官候補生学校の指揮を執りますが、9月のドイツ軍による爆撃で建物の下敷きになり、手を骨折してしまいます。

退院後ブカレスト経由でフランスに逃亡しますが、ドイツ軍にフランス侵攻後はさらにイギリスに避難。この地でポーランド連絡将校として活動を開始。しかし彼は自分の線も分野である航空機で貢献を果たしたいと考え、1941年10月~11月に戦闘機の訓練を行った後、翌年1月に第316戦闘飛行隊「ワルシャワ」に配属されました。

それなりにキャリアがあるベテラン兵だったため、現場仕事よりもポーランド空軍監察局の参謀長としてスタッフの仕事が多かったのですが、それでも大戦中に28回の戦闘飛行と4回の作戦飛行を行っています。

戦後はイギリスに定住し、Samopomocy Lotnicza(後のポーランド飛行士協会)で社会活動を行い、1958年5月17日から1964年5月30日まで会長を務めました。

PR

 

 

4. マレク・エデルマン(1921~2009)

f:id:titioya:20210320143135j:plain

反ナチス武装闘争を戦ったユダヤ人レジスタンス

 マレク・エデルマンは1921年、ワルシャワのユダヤ人家庭に生まれ、子どもの頃からユダヤ労働組合の少年団SKIF(Sotsyalistishe Kinder Farband)に所属していました。大恐慌以降、ユダヤ人を取り巻く環境が悪化する中、メンバーは「各少数民族の文化的自治との権利が保証された公正な社会主義ポーランドのために戦う」ことを決意したそうです。

1939年彼は青年組織「Zukunft(未来)」に参加しリーダーとなりました。その年、ドイツがポーランドに侵攻すると、エデルマンはワルシャワの他のユダヤ人と一緒にゲットーに閉じ込められました。1942年、エデルマンはバンドの青年リーダーとして、地下のユダヤ人戦闘組織(Żydowska Organizacja Bojowa, ŻOB)を共同で設立。1943年4月から5月にかけて、モルデカイ・アニエレウィッチが率いたワルシャワ・ゲットー蜂起では、3人の副司令官の1人として反乱を指揮しました。

5月8日、アニエレウィッチはドイツ軍に囲まれて自殺し、エデルマンが代わりに指揮官となります。ドイツ軍はゲットーを焼き払いわずかに残った戦闘員を排除。エデルマンは、下水道を通ってワルシャワから逃れました。

この時のことを彼は「我々は炎にやられたのであって、ドイツ軍にやられたのではない」と主張していたそうです。

1944年半ば、エデルマンは「ルードゥワ軍」の一員として、ワルシャワの蜂起に参加したましたがこれも鎮圧され、ソ連軍によってポーランドが解放されるまで身を隠していました。

 

戦後エデルマンはシオニズム運動への反発から、イスラエルには行かずにポーランドに残り、著名な心臓医となりました。1976年には、労働者防衛委員会(Komitet Obrony Robotników)の活動家となり、その後、ワレサの連帯運動にも参加しています。

彼は抑圧的なポーランド共産党の支配に反発し、1983年に開かれた政府主催のワルシャワ・ゲットー蜂起40周年記念式典への参加を拒否。「社会生活が屈辱と強制に支配されている国」での「皮肉と侮辱の行為」だと考えていました。1989年の平和的変革の後、中道・自由主義政党に所属し、ナチスに占領されていたポーランドに対する戦時中の抵抗の歴史を記録した本を執筆しました。

またエデルマンはイスラエル国家の存在に疑問を呈しており、パレスチナ側を支持したため、共にナチスと戦った後にイスラエルに移住した仲間たちと反目するようになりました。ユダヤ人解放のために戦った英雄であるとして彼を評価しようという声はありつつも、イスラエル国内の保守派の反対は根強く、現在も微妙な評価を受けている人物です。

 

5. イレーナ・センドラー(1910~2008)

f:id:titioya:20210320143709j:plain

 ゲットーのユダヤ人を助ける活動をした女性

第二次世界大戦が勃発したとき、イレーナ・センドラーは29歳のソーシャルワーカーで、ワルシャワ市の福祉局に勤務していました。

1940年11月にゲットーが封鎖されると、狭い地域に40万人近くの人々が追いやられ、劣悪な衛生環境、食料や医療品の不足により、伝染病が発生。イレーナ・センドラーは、身の危険を冒してゲットーに入り、瀕死のユダヤ人を助けようとしました。

ワルシャワからトレブリンカに28万人のユダヤ人が強制送還された後の1942年秋、ユダヤ人支援協議会が設立されると、センドラーはその主要な活動家の1人となりました。大規模な強制送還を生き延びた多数のユダヤ人の救出にこの組織は重要な役割を果たし、隠れて生き延びた何千人ものユダヤ人の隠れ家を探し、維持費や医療費を負担していました。

ワルシャワのゲットーが完全に破壊されてから4ヵ月後の1943年9月、センドラーはゼゴタのユダヤ人子供の世話をする部門の責任者に任命され、修道院や孤児院に数多くのユダヤ人の子どもを預けて命を救う活動に従事しました。

1943年10月20日、センドラーはゲシュタポに逮捕され、パウィヤック刑務所に送られ死刑宣告を受けるも、地下組織の活動家たちが監視人を買収して彼女を釈放させました。その後も彼女は当局の監視や脅しを受けつつも、戦後までユダヤ人保護のための活動を続けました。

 

6. ゾフィア・ラップ=コハインスカ

f:id:titioya:20210320144941j:plain

ドイツ語が堪能なポーランドの女性スパイ

ゾフィア・ラップはポーランド人でしたがベルリン生まれで、この地で幼少期を過ごしたためドイツ語をネイティブレベルで話すことができました。

そのドイツ語能力と美貌を買われ、1942年9月から内務省情報部のエージェントとして、ワルシャワ、ポズナン、ベルリンを行き来し機密情報を輸送する任務に就きました。

彼女はフォルクスドイッチェ・マリー・スプリンガーというドイツ人の偽名を使い、1942年9月から1943年5月まで毎月のように活動を行いました。彼女は美しく聡明で、人を惹きつける魅力があり、完璧なドイツ語を話すため、ドイツ軍にも人脈ができ、そこから重要な情報を獲得することにも貢献しました。

彼女があげたもっとも大きな成果が、ドイツ海軍の戦艦「ティルピッツ」の情報でした。

ドイツ海軍最大の艦艇であるティルピッツはノルウェーのアルタフィヨルドに停泊しており、北極圏のムルマンスクへの補給物資の輸送の最大の障害となっていました。1944年前半に連合国側は何度も攻撃を敢行しましたが失敗に終わっていました。

ゾフィア・ラップのいとこはティルピッツの中尉をしており、ゾフィア・ラップは1944年にベルリンの叔母の家を訪問した際に、彼から詳しくティルピッツの情報について聞くことができたのです。

乗組員の数、飛行機の数、艦砲の口径、現在の停泊状況。

これらの情報をゾフィア・ラップは上司に報告し、この情報を元に9月15日にイギリス軍が空襲を敢行。この時に撃沈はできなかったものの、外洋航海が不可能なほどのダメージをティルピッツに与え、ほぼ無力化することに成功したのでした。

PR

 

 

まとめ

 時代をもっと下れば、コシチーシュコやピウスツキなど、ポーランド国家再興のために尽力した軍人は数多くいますが、きりがないのでこのあたりで終わりにしようと思います。

 自らの命が危険にさらされても、それでもなお国家や人命のために尽くそうとしたその生きざまは非常に尊敬します。

ポーランドの国家の英雄は、大義や人命のために身を投げうって大きな成果を残した人、ということになるでしょうか。

 

バックナンバー

インドネシア軍事史の英雄10人

トルコ軍事史の英雄十人

インド軍事史の英雄十人

カナダ軍事史の英雄10人

 

 参考サイト

"Jan Bytnar „Rudy” życiorys" Życiorysy.pl

"Wielka ucieczka Stanisława Marusarza" Muzeum Historii Polski

"Jerzy Bajan"Polskie Siły Powietrzne w II wojnie światowej

"Marek Edelman (1921 - 2009)" Jewish Virtural Library

"Irena Sendler" Women of Valor-  Stories of Women Who Rescued Jews During the Holocaust

 "''Była śliczna i odważna''. Niesamowita historia Zofii Rapp, wywiadowczyni AK, dzięki której zatopiono niemiecki pancernik" Polub Weekend Gazeta.pl