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現在の雲南省にあった独立王国・南詔国
現在の雲南省には7世紀から10世紀ごろまで南詔国という国が、10世紀から13世紀までは大理国という国がありました。
高校世界史では、南詔国と大理国が存在し、モンゴル帝国が大理国に侵攻して崩壊させた、という記述がある程度で、あまり詳しくは学びません。
現在は雲南は中国の一部なのであくまで「中国の地方政権」という位置づけにされますが、中国を中心とする東アジアの国際秩序の影響を受け、朝鮮やベトナムと同じように地場勢力が周辺国とのバランスをとりながら独自の政権を作り上げたものでした。
1. 南詔国は何族の国なのか
そもそも南詔国は何族の国なのかは、20世紀の間さまざまな歴史学者によって議論がなされてきました。
20世紀初頭には、イギリスやドイツの学者が「南詔はタイ人の国」と主張しました。
その根拠として、南詔の「詔(Chao)」はタイ語で「王」を意味すること、スコータイの伝説でタイ人が雲南地方から南下してきたという言い伝えがあることが挙げられました。このことを踏まえ、タイ人の国だった大理国(南詔国の後継)がモンゴル帝国のフビライによって滅ぼされ、生き残った人々が南下してチャオプラヤ川中流域に達し、スコータイ王国を作ったという説が唱えられました。
1920年代に、フランスの歴史学者ジョルジュ・マスペロやルネ・グルッセらがこれに反論し、「南詔はロロ族の国」と主張しました。ロロ族はビルマ・チベット語族の少数民族、彝(イ)族の蔑称。彝族は現在も雲南省やベトナム、ミャンマーに居住します。
特に南詔がタイ人の国ではないことを熱心に主張したのは中国の歴史学者です。
中国の歴史学者は、戦前から南詔がビルマ・チベット語族が建てた国であると主張していました。しかし、ビルマ・チベット語族の中でも、彝族なのか、白(ペー)族なのかで議論が分かれました。
現在は基本的には、南詔国は彝族が建てた国で、後継の大理国は多数派の白族が建てた国であるという理解がなされています。
2. 南詔国の成立
南詔国・大理国の中心地があったのは、現在の雲南省大理の付近である洱海(じかい)地区です。雲南では古くから中小の政治勢力が割拠していましたが、長い間有力な政治勢力が現れませんでした。
7世紀前半ごろ、隋唐の羈縻政策が雲南地方にも適応されるようになり、州県が置かれ中央から派遣されてきた都護府による支配を受けました。
しかし7世紀後半、チベットの吐蕃が四川の西部から雲南南西部に進出してきたことで、唐の羈縻支配は後退します。このタイミングで雲南の政治勢力の統合が急速に進み、「六詔」と呼ばれる6つの政治勢力が並び立つ時代に突入しました。北方にある浪穹詔、邆賧詔、施浪詔。南方にある蒙舎詔、蒙雟詔、越析詔の6つがそれ。
その中で、もっとも南部にある蒙舎詔が720年代から急速に勢力を伸ばしていきます。多くの詔は吐蕃の勢力下にありましたが、蒙舎詔は唐の支援を受けていました。蒙舎詔は唐と吐蕃の対立の中でうまく立ち回り、738年の国王・皮羅閣の時代に洱海の西岸に進出し、翌年には周辺一帯を勢力下に納めました。
この時に皮羅閣は唐によって雲南王に任ぜられており、この時をもって南詔国の成立とみなされています。
王族の蒙氏は「烏蛮」という部族ですが、その配下には「西洱河蛮」と言う、後に「白蛮」と呼ばれるようになる人々が多数いたそうです。烏蛮の一部が後に彝(イ)族、白蛮の一部が後に白(ペー)族となるため、南詔国は彝(イ)族が建てたと言われることがありますが、そう単純ではないようです。
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3. 蒙氏による雲南の統一
同時期に、唐の剣南節度使(四川・成都の節度使)である章仇兼琼という人物が、四川西部に大攻勢をかけて吐蕃の軍事拠点を奪還。彼は玄宗皇帝の信を得ました。ところが当時中央で大きな権力を持っていた李林甫に睨まれるようになり、章仇兼琼は四川の大商人で金銭的なパトロンでもある鮮于仲通を通じ、楊釗(楊国忠)を中央政府に送り込みました。楊釗は楊貴妃の従祖父であったそうで、彼のバックアップのおかげで章仇兼琼は中央政府で出世していくことになります。
745年、章仇兼琼は大規模な交易路の開発に乗り出します。これは現在の昆明から出てベトナムのハノイに達するルートで、パトロンである鮮于仲通の要求があったと考えられます。ところが昆明周辺の交易を支配していた爨(さん)氏の抵抗を受けて開発は停滞。しかし争いの中で爨(さん)氏も内部分裂をしていきます。
この混乱に乗じて、蒙氏が雲南東部に進出して併合。こうして現在の雲南は漁夫の利的に蒙氏の支配下に入りました。
チベットの属国へ
雲南東部併合で蒙氏の勢力が強大化し、唐の利益を脅かすようになると両国関係は悪化に転じ、軍事衝突を起こすようになります。
国王の閣羅鳳は吐蕃の軍勢を雲南に引き入れ、剣南節度使の命を帯びた鮮于仲通が率いる唐の討伐軍を撃破。宰相の楊国忠は、さらに大勢の軍を率いて754年に雲南に侵攻しますが、20万前後の死者を出す文字通りの大敗に終わります。
この直後に本土では安史の乱が発生。南詔国は吐蕃の庇護のもとで国を発展させていくことになります。
4. 唐への再帰順
安史の乱が収束ししばらくたった8世紀後半になると、唐も体制が安定し、対吐蕃政策に本腰を入れ始めます。
唐がこの時に描いた政策は、ウイグル・雲南・大食(アラブ)・天竺の4方面から吐蕃を包囲しチベット高原に封じ込めるという壮大なもの。
南詔国は吐蕃の圧政に苦しんでおり、国王の異牟尋は794年に唐と交渉し、再度冊封に入ることに同意。唐・ウイグル・南詔国の同盟は成立し、吐蕃軍を雲南から追い出すことに成功しました。
唐にとって南詔国との同盟は非常に重要でした。そのため、南詔国には朝貢貿易を毎年行う許可を与えたり、官費留学生を大勢成都に派遣して学習させたりなど、非常によい待遇を与えました。
唐による吐蕃封じ込め策は非常に有効に働いたらしく、吐蕃は843年に南北に分裂。吐蕃はその後9世紀後半まで存続するも、唐にとっては脅威ではなくなっていきました。
同時に唐にとって南詔国との同盟も重要ではなくなり、朝貢貿易の回数の削減や官費留学生の削減などが行われました。
5. 南詔国の崩壊と大理国の成立
このような唐の露骨な対応に対して、南詔国は「軍事遠征」で応えます。
860年代〜870年代、南詔国は唐の支配領域である成都や安南都護府に繰り返し軍を送り、略奪や住民の拉致を繰り返しました。一時はハノイの一角も南詔軍に占領されているし、現在のラオス、タイ、ミャンマーの領域にも侵攻しました。
859年、南詔国王は国号を「大礼」とし、自ら「世隆」と名乗って皇帝の座につき、唐と台頭関係であることを内外に宣言しました。さらには唐の皇帝との間で兄弟や叔父の関係を結び血縁関係を持つように要求。唐の公主の降嫁をも求めました。
当時は本土では黄巣の乱が発生していたため、唐がこの要求を受ける可能性もありましたが、884年に内乱が終結したため実現しませんでした。
孤立した南詔国では王族の権力が形骸化して臣下の権力争いが過激化。902年、舜化貞が死去すると、漢人の臣下である鄭買嗣が国王の息子を殺害してクーデターを起こし蒙家の王族が絶え、ここにおいて南詔国は滅びました。
南詔国の崩壊後、大長和国、大天興国、大義寧国という非常に短命な王朝が続いた後に、白蛮の段思平によって938年に大理国が成立することになります。
南詔国の王族である蒙氏は烏蛮でしたが、臣下の多くは白蛮であり、最後は漢人の臣下によって滅ぼされたように、漢人もかなりの数がいたようです。
ただし、漢文化や仏教を受け入れる中で南詔末期から烏蛮や白蛮という区別があまり意味をなさなくなってきており、王族が白蛮なため白蛮の文化を基調にしたものの、南詔国と大理国との間に断絶はなく、むしろ大理国は蒙氏政権との連続性を強調したようです。大理という名前も、南詔の国号であった「大礼」の同音異書であります。
そのため、「南詔国は烏蛮が建て、白蛮が南詔国を倒して大理国を建てた」という歴史教科書の記述はあまり正確ではないようです。
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まとめ
大理国は後期になると、王族の段氏が実権を失い、高氏が権力を得ます。しかしモンゴル帝国のフビライによって高氏政権は滅ぼされ、段氏がモンゴルに取り立てられて再び政権を得ます。
しかし元が崩壊し明王朝の時代になると、明は段氏政権を認めず、次第に雲南は独自性を奪われ明に取り込まれていくことになります。
今や雲南は中国の一部という感覚が強いですが、14世紀ごろまでは、中国やチベットの強い影響を受けていたとはいえ、独自の勢力を持った独立国でした。中国史の一部として見られがちですが、こうして切り出して見ていくとまた違った側面が見えてきます。
参考文献
『中国西南民族史』5.南詔国による雲南統一③