戦争による野球興行の衰退を恐れ設立された女子プロ野球
アメリカで女性が野球をするようになったのは、1860年代にニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学がチームを結成したときにさかのぼります。
それから約80年後、世界初の女子プロ野球リーグ「全米女子プロ野球リーグ(All-American Girls Professional Baseball League)」が発足しました。
女子プロ野球の登場は、第二次世界大戦の勃発と密接な関わりがあります。男性の出征によりプレイヤーの数が減り、野球興行が衰退することを恐れたプロモーターが、女性に白羽の矢を立てたのがそのきっかけです。
1. 全米女子野球リーグの設立
1941年12月7日、アメリカが第二次世界大戦に突入したとき、メジャーリーグは中止にならずに継続されました。
しかし、 1942年の秋になると、18歳以上の若者が徴兵されるようになったため多くのマイナーリーグのチームが解散。メジャーリーグの選手も多くが兵役に就きました。
このままではアメリカの野球興行が崩壊してしまうという危機感から、チューインガム製造会社の経営者でシカゴ・カブスのオーナー、フィリップ・K・リグレーは、代替として女子ソフトボールリーグの設立を提案しました。
リグレーが資金を出し、中西部の実業家たちも協力したことで、1943年の春に「全米女子ソフトボールリーグ」が誕生しました。リーグは非営利団体として設立され、リグレーやブルックリン・ドジャースの社長ブランチ・リッキー、シカゴ・カブスの弁護士ポール・V・ハーパーらが、理事会を構成しました。
最初のシーズンの途中、理事会は既存の軟式野球リーグとの差別化を図るため、また野球のルールがメジャーリーグと同じであることから、リーグの名称を「全米女子野球リーグ(AAGBBL)」に変更。その後、「全米女子プロ野球リーグ(AAGPBL)」に変更されました。
2. 重要視された「女性らしさ」
ルールの制定と選手集め
理事会が最初に取り組んだのは、ルールをどうするかでした。
シカゴ・カブスのスカウトマンであるジャック・シーハン、シカゴ公園局のレクリエーション担当バーン・ハーンランドらが主導し、ソフトボールと野球を組み合わせた新たなルールを制定しました。当時アメリカでは、女性用に構成された球技はソフトボールだけだったのです。
次に理事会は全国でソフトボールや野球をしている女性たちを見つけスカウトする作業に乗り出しました。シカゴ・カブスのスカウトとして30年のキャリアを持つジム・ハミルトンが責任者となり、アメリカとカナダの女性たちを探し出して契約することになりました。
チームは、選手15人、コーチ1人、ビジネスマネージャー1人、女性の付き添い1人で構成されました。コーチはメジャーリーグで活躍した著名な男性選手を起用し、女子選手だけによる知名度のなさを補おうとしました。
女性らしさの強調
当時の女子プロ野球で重要なことは「女性らしさ」を強調することでした。
プロスポーツであり勝敗は大事であるものの、女性の「粗野なふるまい」は当時は社会的には認められず、見た目も所作も美しく魅力的であることが求められました。
そのため選手たちは専属の美容師によるメイクのレッスンやマナー研修を毎日受けさせられ、すべての選手には美容キットとその使い方の説明書が配られました。
ユニフォームも男性のようなパンツではなく、膝上丈のドレスが採用されました。スカートの中にはくショートパンツ、ニーハイのベースボールソックス、ベースボールハット。各チームはそれぞれの都市を象徴するパッチを胸につけました。
このユニフォームは女性の体のラインを魅力的に見せるためにデザインされていたため、野球をプレイするのはかなりつらいものがあったようです。
例えば、ふとももはむき出しで保護されていないため、ベースにスライディングしたらアザができてしまう。動きやすさを考慮していないので、腕を上げるたびにユニフォーム全体が同じ形状のまま上に動いてしまう。ウエストラインを強調するためベルトがきつく締められうまく投げられない。
このように、女子選手には「美しく優雅であること」が求められ、野球のプレイには非常に困難があったわけですが、選手たちのモチベーションは非常に高いものがあったそうです。1950年代に活躍したロイス・ヨンゲンはこのように述べました。
女性たちに聞けば、食事をするよりもあのユニフォームを着て野球をする方がまだましだと言うだろう
1944年から複数のチームで活躍したラボンヌ・"ペッパー"・ペアという選手もこう述べています。
私たちはリーグに心と魂を捧げました。全米女子なのだから、ベストを尽くすのが私たちの仕事だと思っていました。国の士気を高めているような気がしました
当時の社会の雰囲気というものがおぼろげながら分かる気がします。
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3. リーグ戦の開幕
1943年5月30日からリーグ戦が正式にスタート。レギュラーシーズンで最も多くの試合に勝利したチームがペナント優勝となり、その後上位チームがプレーオフを行い、リーグチャンピオンを決定しました。
初年度は、ケノーシャ、ロックフォード、サウスベンド、ラシーンの4チームのみの参加で、5月から9月までのレギュラーシーズンでは、合計108試合が行われました。
1943年はケノーシャとラシーンがゲームシリーズを戦い、勝利したラシーン初代全米女子野球リーグのチャンピオンとなりました。
リグレーはリーグの初年度から積極的に広告宣伝を行いました。特に多用したのが新聞・雑誌広告で、「タイム」「ライフ」「セブンティーン」「ニューズウィーク」「アメリカン・マガジン」などの全国的な雑誌や、地方都市の新聞にも積極的に広告を掲載。人気のある定期刊行物に全国的に露出することで注目を集めました。
広告では「戦争労働者のためのレクリエーション」、「女性らしさ」、「地域福祉」、「家族向けの娯楽」といった文脈が強調されました。
大都市での失敗
初年度のリーグの成功を受けて、大都市のミネアポリスとミルウォーキーのチームが参戦。ミルウォーキーの監督には、メジャーリーグ殿堂入りのマックス・キャリー、ミネアポリスの監督には、ババ・ジョナードが選ばれました。
しかしこの2チームは興行的に成功せず、わずか1年で撤退することになります。
理由の1つが、大都市ミネアポリスとミルウォーキーは、戦時中とは言え、市民が楽しめるさまざまなレクリエーションや余暇があったことが挙げられます。
ケノーシャ、ロックフォード、サウスベンド、ラシーンのような小さな町は、レクリエーションが多く存在せず、戦時下の重要な余暇として女子野球が受け入れられました。町のメディアも試合内容はもちろん、時には写真付きで大々的に報道され、市民の注目を集めることに貢献しました。スタジアムも小さいので、選手と観客の距離が近く、個人的に選手と親しくなれるのも小さな町ならではの利点でした。
ミネアポリスとミルウォーキーでは、他のスポーツチームもあり試合のことは話題にすらならず、スタジアムが大きく選手と観客の距離も遠いのもファンが付くのを困難にしました。スタジアムが大きいため女性の腕力ではホームランがなかなかでず、アメリカ人が好む派手なプレーが生まれにくかったということもあります。
ミネアポリスとミルウォーキーは観客を集めるために試合前に音楽演奏をしたり、さまざまなエンタメ要素を加えますが、観客動員数は伸び悩みました。
4. 人気となる女子野球
1944年のシーズン初め、戦争でメジャーリーグが解散しないことが明らかになり、リグレーは女子リーグへの関心を次第に失っていきました。シーズン終了後、リグレーはシカゴの広告会社の経営者、アーサー・マイヤーホフにリーグを売却しました。
1944年11月15日、マイヤーホフは4都市の代表者と会い、各フランチャイズの代表者で構成されるリーグ理事会を通じて管理するようにリーグを再編成しました。新たな理事会が編成され、ケン・セルズがリーグ会長を辞任し、マックス・キャリーが新会長に就任しました。
1945年のリーグ戦から、新オーナーであるマイヤーホフの広告会社により宣伝活動・PR活動がさらに積極的に行われました。
当時は第二次世界大戦で連合国が順調に枢軸国を追い詰め、戦争の終わりも見え始めていた時代。マイヤーホフは、陸軍キャンプや退役軍人病院でのエキシビションゲームを企画。選手たちは試合の前後に病院に入り、負傷した兵士たちに語りかけました。この慰問活動がマスコミで好意的に報道されると、愛国的なファンたちの大絶賛を受け、観客がスタジアムに押し寄せるようになりました。
1945年のシーズン終了時には、観客動員数が450,313人に達しました。
5. 人気の衰えとチームの解散
マイヤーホフは1951年にオーナーの地位から退き、それまで理事会が持っていた経営権をそれぞれのチームに分散するリーグの再編成を行いました。
それまではマイヤーホフの広告会社が行っていたチームの宣伝・広報は、それぞれのチームごとに行わなくてはならなくなりました。しかし各チームのマネージャーは宣伝・広報の知識がほとんどなかったのです。
1951年のシーズンには、リーグ会長のフレッド・レオが、すべてのチームのマネージャーに試合やイベントに関する宣伝・広報を行うように求めましたが、これに応じたのは1チームだけ。ほとんどのチームは宣伝・広報活動を一切行わなかったのです。
積極的な宣伝・広報活動によって情報を拡散し観客を集めていたリーグは、メジャーリーグなどの男子プロスポーツの本格的な再開も伴って、人気をどんどん失っていきました。そうして全米女子野球リーグは1954年にその活動を終了しました。
その記憶はしばらく忘れられていましたが、1988年には全米野球殿堂博物館が女子リーグの常設展示を行い、1992年には映画「A League of Their Own(邦題プリティ・リーグ)」が公開され、リバイバルされました。
6. 閉ざされた黒人選手への門戸
当時の女子プロ野球リーグは有色人種の選手を認めなかったという点も、現代から見ると発展を阻害した理由の1つのように思えます。
19世紀後半から、黒人の野球選手は数人メジャーリーグに在籍しましたが、有色人種排斥の流れから人種によってリーグが明確に分離されるようになり、1911年から黒人選手は「ニグロリーグ」というリーグでプレイしました。
1943年に女子リーグが創設された時も、メジャーリーグはまだ黒人選手を認めていませんでした。しかし、1947年にジャッキー・ロビンソンが初の黒人選手として入団した後も、女子リーグは黒人女性を認めませんでした。
▽ジャッキー・ロビンソン
ニグロリーグは公民権運動が盛んになる前の1960年に消滅しますが、それまでに黒人女性の選手が3人活躍しています。
そのうちの1人、メイミー・"ピーナッツ"・ジョンソンは、1950年代初頭に女子リーグのトライアウトを受けようとしましたが、黒人であることを理由に拒否されたという経験を持っています。その後ジョンソンは、ニグロリーグのインディアナポリス・クラウンズに入団。1953年から1955年まで投手としてプレーし、33勝8敗の成績を残しました。
▽メイミー・"ピーナッツ"・ジョンソン
2021年現在、アメリカでは女子プロ野球のリーグは存在しませんが、かつて全米女子プロ野球リーグで活躍したスー・パーソンズ・ジペイが設立に向けて活動しているそうです。
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まとめ
戦時中の特殊な環境の中で、野球興行を維持するという目的から始まった女子プロ野球。
当時は男性らしさ・女性らしさが強調され、女性らしいエンタメの提供が求められていました。現代ではこのような興行は社会的にまったく受け入れられないでしょうが、現代はまったく別の文脈で復活は可能ではないかと個人的には思います。
ただ、1951年に広報・宣伝不足で停滞したように、いかに世間の注目を集める話題を提供して広くPRするかというのは、今後新たなリーグが発足するとしてもついて回る課題だろうなと思います。
参考サイト
"How World War II Spurred a Decade of Women’s Pro Baseball" HISTORY
"LEAGUE OF WOMEN BALLPLAYERS" NATIONAL BASEBALL FALL OF FAME
"The official history of the All-American Girls Professional Baseball" AAGPBL League