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インドネシア軍事史の英雄10人

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オランダや日本に抵抗してきたインドネシアの軍事の歴史

「お国柄」を知る方法は様々ですが、「英雄」と言われている人を調べてみることは一つ面白い手段だと思っています。

カナダ、インドと見てきて、今回はインドネシアです。

インドネシアの歴史はおもしろく、帝国になって支配したこともあれば、帝国に支配されたこともあるし、独立運動を弾圧したこともあれば、自分自身が植民地からの独立運動をして建国した歴史もあります。インドネシアの歴史の中には一国が経験しうるもののほとんどがあるので、非常に興味深いわけです。

 では現代のインドネシア国家が英雄とするのはどのような人物なのでしょうか。

 

1. ストモ(1920~1981)

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 スラバヤの戦いを率いた独立指導者

 ストモ(Bung Tomoとも呼ばれる)はインドネシア独立戦争期の軍事指導者。インドネシア独立戦争の初期の重要な戦いであるスラバヤの戦いを指揮した人物として有名です。

スラバヤで生まれで、父は警察官でオランダの輸出会社に働いていたこともあり、中産階級の家庭でした。教育は中断も挟みつつイスラム学校とオランダ語の学校で受けています。太平洋戦争中、彼はKBI(Indonesian National Scouting)に参加し、ここでインドネシア・ナショナリズムに目覚めたそうです。ここで頭角を現し、17歳のときに蘭領東インドで「ガルーダスカウト」の称号を得ました。1942年時点でこの称号を得たのは3人しかいなかったそうです。

1945年8月15日の日本軍の敗北の2日後、スカルノとハッタはインドネシアの独立を宣言するのですが、イギリス軍とオランダ軍は戦争前の秩序を回復すべく、ただちに軍を送りました。

しかし日本軍の占領下でインドネシアの独立ムードは醸成されており、支配者であるオランダ人(または白人)への敵視と暴行・乱暴も発生し始めていました。治安を回復すべく、イギリス軍はスラバヤ市内に軍を駐留させ、艦隊や航空機を派遣。インドネシア側は元PETA(郷土防衛義勇軍)と元KNIL(王立オランダ領東インド陸軍)、さらに民兵で構成された武装勢力が集まり、一触即発状態に陥りました。

ここでストモはラジオを介して「オランダ人や、ヨーロッパとアジアの混血のインドネシア人への報復」を呼びかけ、スラバヤでは暴徒による虐殺や乱暴が発生し始めていました。

1945年10月28日、イギリス軍とインドネシア軍との衝突が発生。混乱の中で10月30日にイギリス軍の.マラビー准将が殺害され、怒ったイギリス軍はスラバヤに本格介入し、11月10日に一斉攻撃を開始。3日でスラバヤは陥落し、インドネシア人6,300人から15,000人が死亡しました。インドネシア軍は敗れますが、この戦いでイギリス人も多数の死者が出て、これ以降のイギリスの蘭領東インドへの介入を消極的にし、オランダには戦闘の主体が誰かにアジテートされている烏合の衆ではなく、国民全般の支持を得ているものであると理解させることになりました。

かなり血なまぐさい戦いであったのですが、インドネシアが独立を勝ち取る上で重要な戦いであったと評価されています。

 

2. スディルマン(1916~1950)

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 インドネシア国軍設立ごく初期の中心人物

 スディルマンはインドネシアが独立宣言をしたのち、国軍のトップである司令官に任命され、ごく初期の国軍の中心となった人物です。

幼いころから聡明で、学校を卒業して学校の校長をしていましたが、日本軍の占領下でPETA(郷土防衛義勇軍)が設立されると参加し大隊長となりました。日本降伏後、日本軍が保有する武器の引き渡し交渉を担い、バニュマスの軍司令官となります。1945年11月12日にジョグジャカルタで国軍の司令官の選挙が行われ、スディルマンは当選して司令官に就任。ただちにイギリス軍とオランダ軍に対する戦闘を開始。その後3年に渡ってオランダ軍と戦闘を続けました。

オランダとの戦いは貧弱な武器により劣勢で、国軍は都市部から農村部へ追いやられましたが、ゲリラ戦を主体にして反撃を継続しました。

 しかしスディルマンは過酷なゲリラ戦によって結核にかかり、手術を受け入退院を何度か行います。スディルマンが病み上がりのタイミングの1948年12月19日に、オランダは共和国の首都ジョグジャカルタへの強制侵攻を含む「第二次警察行動」を開始。スディルマンは病んだ体を引きずりながらオランダ軍との戦いを指揮しました。

戦いは劣勢であったものの、アメリカをはじめとする国際社会の介入によってオランダは撤退を余儀なくされました。同時にスディルマンは病気のため引退しました。

オランダ撤退の5か月後の1950年1月に34歳で死去しました。

 

3. スプリヤディ(1923~1945)

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 日本軍に反乱したPETAの若き将校

スプリヤディはジャワ島中部マゲランの学校に進学し、卒業前に日本軍の占領期を迎えました。日本軍主導で作られたPETA(郷土防衛義勇軍)に参加し、東ジャワのブリタルに赴任。ロームシャの管理監督の任務に就きます。

しかし、低賃金で食や医療も満足に与えない、日本軍のインドネシア労働者に対する過酷な扱いに反発し、日本軍への反乱を計画するようになったと言います。

我慢の限界に来たPETAの将校たちは独立指導者のスカルノに相談。スカルノはもう少し辛抱が必要である旨を伝えますが、反乱の時は今しかないと考えたスプリヤディ含むPETAの将校は1945年2月29日、ブリタルにて駐在する日本軍への反乱を開始します。迫撃砲、機関銃、手榴弾を武器に日本軍を攻撃しますが、経験や火力の優位な日本軍に太刀打ちするのは難しく、たちまち鎮圧され、参加したPETAのメンバーらは逮捕され、厳しい罰則や尋問にあったとされます。

スプリヤディ自身は日本軍の手から逃れて逃亡したそうですが、その後の行方は不明。

1945年8月17日のスカルノによる独立宣言後、スカルノはスプリヤディを人民治安大臣に任命するも、とうとう彼は現れることはなく、現在に至るまで消息不明となっています。

 

4. グスティ・ングラ・ライ(1917~1946)

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オランダ軍相手に玉砕したバリ島の軍事指導者 

 グスティ・ングラ・ライはインドネシア独立戦争中のバリ島の軍事指導者。バリ島のデンパサールにある国際空港の名前や、2000年から2010年まで流通していた50ルピア紙幣に肖像が描かれていたことで有名です。

 第二次世界大戦末期にオランダがバリを再占領した際、バリ人はオランダの降伏要求を拒否し、29歳の貴族出身のグスティ・ングラ・ライが率いるゲリラ部隊が抵抗を開始しました。

ライの計画は、タバナンで小競り合いをした後部隊をグヌン・アグン山に撤退させ、本格的なゲリラ活動に入りオランダ軍と長期戦を戦うことでした。しかし撤退中にオランダ軍に発見され、1946年11月20日にマルガでオランダ軍に追撃されました。オランダ軍はB-25爆撃機からの空爆と地上戦を駆使して、ライを含む97人のバリ人ゲリラを全滅させました。

降伏を迫るオランダ軍に対し、ライが送りつけた文書に書かれた一文「ムルデカ・アタウ・マティ(自由か死か)」は彼の伝説的物語を際立たせています。

マルガの戦いの壊滅的な敗北はバリ人にとっては非常に痛いものでしたが、ライを始めカースト上位の人物が多く戦死したことで、カースト下位の民衆も触発され抵抗運動に加わるようになったことが、この戦いの大きな意義であるとされています。

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5. チュ・ニャ・ディン(1848~1908)

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アチェの女性ゲリラ指導者

アチェはスマトラ島北西部にある地域で、アラブともっとも近いためイスラム教を早くから受け入れました。現在でもアチェ州はイスラム法(シャリーア)に基づいた統治が行われる信心深い人々が多い地域です。

オランダは1873年にアチェ王国に侵攻し、首都バンダアチェも占領されますが、アチェ軍はゲリラ戦を展開して頑強に抵抗。イギリス軍やイタリア軍の支援も得て、戦いは長期化しました。1878年に、オランダ軍は大規模な軍隊を再度投入します。第2次アチェ遠征です。オランダ軍は再びバンダアチェを占領し、スルターンの宮殿を占領。オランダ軍は勝利とアチェの蘭領東インドへの併合を宣言しました。

このオランダの暴挙に対して激しく抵抗したのが、アチェのゲリラの指導者トゥク・ウマルと、彼の妻チュ・ニャ・ディンです。トゥク・ウマルとその部下250人はわざとオランダ軍に降伏して武器や弾薬を受け取り、その物資で戦いを継続しました。オランダ史では「トゥク・ウマルの裏切り」として知られ、インドネシアでは英雄的行為と見なされますが、オランダでは裏切り行為と見なされています。

トゥク・ウマルはオランダ軍の奇襲攻撃で死亡しますが、妻のチュ・ニャ・ディンは夫の部隊を引き継いで抵抗を続け、最終的に1901年に降伏しました。しかし娘のトゥク・ガンバンは脱出して抵抗を続けました。チュ・ニャ・ディンは1964年、インドネシア政府から「インドネシアの国民的英雄」の称号を与えられました。

 

6. ディポヌゴロ(1785~1855)

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ジョグジャカルタの王子でジャワ戦争の指導者

ディポヌゴロは中部ジャワの古都ジョグジャカルタの王子で、ジャワ戦争を率いた指導者です。オランダに抵抗した「正義王」として評価されており、ジャワ戦争は別名ディポヌゴロ戦争という名でも知られます。

1824年にオランダはジャワ島の支配権を確立しますが、各地のプランテーションの経営者は地元の地主や華僑、非オランダ人が占め、彼らがジョグジャカルタやスラカルタなどの王家と結んで強い影響力を持っていました。オランダは支配強化のために、オランダ人以外の農地の賃貸料することを禁止しました。さらには、オランダの統治政策により教育や文化が広がり反イスラム的な考えが広まったことも、反オランダ感情の広がりの要因です。

ディポヌゴロはジョグジャカルタの王子ですが、オランダとつるんで享楽にふけり、世の人々の苦しみや嘆きに耳を貸さない現状を打破すべく、聖霊から神秘的な啓示を受け「正義王エル・チョクロ」となり聖戦を開始したと言われます。

ディポネゴロと彼に同調したマンクブミは、馬に乗ってオランダの包囲から脱出し、セラロンの町に逃亡しました。ディポヌゴロが蜂起したと聞き多くの人々が馳せ参じ、ここで彼は反乱軍を組織し、セラロンの町の防衛を強化しました。

ディポネゴロはゲリラ戦でオランダ軍に対抗しつつ、セラロン以外にもダクサやプレレドなど中部ジャワの町を解放して対オランダ戦の防衛拠点としました。

1826年6月のプレレド攻撃や7月のダクサ攻撃は失敗に終わったため、オランダ軍は抵抗する町を有刺鉄線で囲って兵糧攻めにする戦略に転換しました。

兵糧攻めは悲惨で、この戦いで20万人以上の死者を出し、中部ジャワの産業は壊滅しました。さらに4年間抵抗を続けるも、とうとうディポヌゴロは降伏しました。

 

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7. ニー・アグン・セラン(1752~1838)

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 ジャワ戦争の重要な軍事指導者の一人

ニー・アグン・セランはディポヌゴロの右腕であったマンクブミの同志であるパンゲラン・ナタプラジャの娘で、再婚でカリジャガ家の親戚セラン1世(ムティア・クスモウィジョヨ王子)と再婚し、中部ジャワのデマック近郊の町セランに定住しました。

ディポヌゴロが蜂起しジャワ戦争が始まると、息子パンゲラン・クスモウィジョヨ(セラン2世)は、デマック地域の司令官になりました。ニー・アグン・セランは洞窟で瞑想したことで並外れたカセクテン(超自然的な力)を得たと信じられ、人々から非常に尊敬されていました。

戦争中、ニー・アゲン・セランは精神指導者でありつつ軍事指導者でもあり、サトイモの葉またはルンブの葉でカモフラージュし敵に近づく戦術を徹底させました。葉を頭にかぶせ、遠くから見ると里芋畑のように誤認させて近づき、敵を奇襲すると言うものです。これは非常に効果的で、ジャワ戦争で多用された戦術でした。

戦争敗北後も、由緒あるカリジャガ家の一員・精神指導者・軍事指導者としてその名は誉れ高く、反乱軍のトップに祭り上げられる危険性があったため、オランダ人は彼女を厳しい監視下に置きました。

彼女は息子や孫よりも長く生き、1855年8月10日に93歳で亡くなりました。

 

8. マーサ・クリスティーナ・ティアハフ(1800~1818)

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 マルク諸島でオランダに抵抗した女性リーダー

マーサ・クリスティーナ・ティアハフは、1800年1月4日アンボン島の近くのヌサラウト島で生まれ。父は地元の有力者パウルス・ティアハフ。オランダ人に抵抗して死んだアンボン島の英雄パティムラ(旧1,000ルピア紙幣に描かれていた人物)の親友でした。

幼い頃から父と一緒に行動していましたが、17歳でオランダ人との戦いに参加し、女性兵を率いて竹やりだけで戦いました。オランダ人はティアハフ親子が率いる抵抗運動にかなり手を焼き、オランダ側の指導者リシュモンも殺害されました。

オランダ人はさらに厳しく鎮圧にあたり、父パウルス・ティアハフを含む数人の指導層は逮捕され死刑となりました。

マーサ・クリスティーナは父親が逮捕されたと聞き解放しようと行動しますが、その過程で捕らえられ、ジャワ島のコーヒー農園で強制労働させられることになります。しかし彼女はハンガーストライキとメディカルストライキをしてあくまでオランダ人に抵抗。ジャワ島に向かう途中で死亡しました。

彼女の遺体はバンダ海に投棄され、1969年に彼女の名前は国民的英雄に指定されました。

 

9. シェイク・ユスフ(1623~1699)

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オランダ東インド会社に抵抗し南アフリカに追放された指導者

シェイク・ユスフはスラウェシ島のマカッサルの有力者で、1644年にメッカ巡礼に赴きアラビアで学んだ後、1664年に帰国しようとしますがマカッサルがオランダ人に征服されていたため帰国ができなくなりました。

ユスフはジャワ島最西部のバンテン(バンタン)に向かい、スルタン・アゲン・ティルタヤサに迎えられました。アゲンはユスフに娘の一人を嫁がせ、彼を宗教裁判長と個人的な助言者にしました。

1680年、アゲンの息子であるパンゲラン・ハジがオランダ東インド会社と結んで父に反旗を翻した時、ユスフは軍を集めオランダ人の要塞を包囲しました。しかし1683年末に軍は敗れ逃亡。その後1694年までオランダ人への抵抗を続けました。

オランダ人は彼に恩赦の約束をしますがこれを守らず、ユスフと家族、従者はバタヴィアの城に追放され、さらにセイロン島、そして南アフリカの喜望峰にまで追放されました。オランダ人はケープのイールステ川河口近くのザンドフリートに移しましたが、彼の元にはインドネシアの政治亡命者が集まるメッカとなりました。

彼がマカッサル出身ということもあり、現在でもザンドフリート周辺はマカッサルという名で知られています。

 

10. スルタン・アグン(1631~1692)

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 オランダ東インド会社に抵抗したバンテンのスルタン

 スルタン・アグンは17世紀のジャワ島最西部バンテン(バンタン)のスルタン。

ヨーロッパをモデルにした艦隊を建造し、インドネシア群島内の貿易を拡充し、ペルシャ、インド、シャム、ベトナム、中国、フィリピン、日本との貿易を行いバンテンに大きな富をもたらしました。1661年にはバンテンの支配はボルネオ島西部のランダクにまで拡大し、1670年代にはマタラムでの内戦の後、チレボン地域も獲得しました。

拡大するバンテンは東にあるバタヴィアに拠点を構えるオランダ東インド会社と対立しました。しかしアグンの息子である皇太子ハジは、オランダ東インド会社と妥協し支援を得ることを求めており、父の対抗路線に反対していました。バンテンの宮廷内は対オランダ強硬派と妥協派に分裂。伝統的なイスラムのエリートは父アグンを支持しました。

1656年、オランダとバンテンの間に結ばれた条約が破棄され戦争が勃発。バンテン人はバタヴィアやオランダ船を襲撃し、オランダはバンテンの港を封鎖。1659年には和平が成立しますが、火種は残ったままでした。

その間、ジョグジャカルタのマタラム王国は弱体化し続けていました。トゥルーノジョヨが起こした反乱を鎮圧できず、アマンクラット2世は王権をオランダに譲渡。1678年にマタラム王国は実質的に崩壊しました。
マタラムが崩壊すると、アグンはバタヴィアを包囲し、オランダに宣戦布告しました。ところが息子のハジによって宮廷クーデターが起こり、アグンは幽閉されてしまいます。ハジの妥協案を支持するオランダ東インド会社軍が来ると、ハジはアグンを城から山地に追いやり、1683年3月にアゲンは降伏しました。

こうしてバンテンはオランダ東インド会社の支配下となりました。

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まとめ

 インドネシアの歴史はあまり知られていませんが、ジャワ、スマトラ、バリ、マルク諸島などそれぞれに歴史があり、英雄物語と英雄がいます。

 オランダ人や日本人、イギリス人など自分たちを支配しようとする外国人との戦いの中で、インドネシアという国の形が作られ、抵抗の物語が神話となって「我々は何者か」というアイデンティティを形成するに至っていることがよく分かると思います。

 

国別軍事史の英雄

カナダ軍事史の英雄十人 

インド軍事史の英雄十人

 

参考サイト

 "Bung Tomo" KOMPAS PEDIA

"JENDERAL BESAR SOEDIRMAN" Pusat Sejarah TNI

"Pemberontakan PETA di Blitar" kompas.com

"BALI AT WAR: THE STRUGGLE FOR INDEPENDENCE BY BILL DALTON" Bali Advertiser

Cut Nyak Dhien, National Hero of Indonesia

"Penyebab Perang Diponegoro, Salah Satu Pertempuran Besar dalam Sejarah Indonesia" merdeka.com

"Nyi Ageng Serang, Panglima Sakti Perang Jawa" LIPUTAN 6

"Martha Christina Tijahahu" merdeka.com

"Sheikh Yusuf, regarded as the founder of the Islamic faith in the Cape, dies at Zandvliet (Macassar)" South Africa History Online

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