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トルコ軍事史の英雄十人

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 トルコ共和国の強烈な愛国者たち

 一般的なトルコ人は非常に愛国心が強いです。

共和国の独立記念日には独立の父アタチュルクの肖像をSNSにアップしたり、国旗を車や家に飾ったりします。強い愛国心を持つのは普通のことで、日本だと右派的に感じられる言説をリベラルな知識人が普通に言うので結構びっくりします。

第二次世界大戦に参加した国々はファシズム含む右派に対する警戒が強くなりましたが、中立を保ったトルコは戦前からの民族主義的な文脈がまだ生きていると考えられます。

 このようなトルコの「軍事史の英雄」とはどのような人々なのでしょうか。

 

1. シャヒン・ベイ(1877-1920)

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ガズィアンテプ防衛のシンボル的英雄

第一次世界大戦後、敗戦国オスマン帝国と戦勝国フランスとの間には、ムドラス休戦協定が結ばれ、フランスはシリアと南部アナトリアを入手しました。

しかし希土戦争の勃発でトルコ人の国が存続の危機に陥ると、1918年11月、フランスはフランス勢力圏とされたキリキア地方の完全領有を目指しアルメニア人を主体とする軍を侵攻させました。12月までにキリキア地方を占領し、1919年末までにマラシュ、ウルファなどの町を占領し、次いでアンテプの町を包囲しようとしました。

このフランス軍の攻勢に激しく抵抗したことで有名なのがアンテプの町です。アンテプの軍事蜂起を指揮した人物がシャヒン・ベイ(Şahin Bey)という名の軍人。

アンカラのトルコ共和国から派遣されたシャヒン・ベイはアンテプに入って抵抗軍を組織し、1920年2月に一斉蜂起を行ってフランス軍に大きな打撃を与えました。戦闘後、彼はフランス軍の司令官にこのような手紙を送りつけています。

「お前たちの汚い足が踏む我らの土地が欺瞞に満ちている。宗教・名誉・自由のために戦うことは、我々にとっては甘美なことなのだ。…明日我々の土地から出ていくがいい。さもないとお前たちはひどいことになるだろう」

しかし8,000人の歩兵と200人の騎兵からなるフランス軍は、1920年3月25日に再びアンテプを包囲。アンテプの抵抗軍は打撃を受け、シャヒン・ベイもわずかな兵でフランス軍に抵抗し、4日間抵抗した後、エルマル橋で殉教しました。

その後アンテプの防衛戦は約10か月間続き、アンテプ住民の6,317人が死亡しました。絶望的な状況にも関わらず抵抗を続ける住民を讃え、アンカラ政府はアンテプの住民に「ガズィ(戦士)」という名前を授けました。

結局アンテプは1921年2月9日にフランス軍に占領されてしまいます。しかしマラシュの町の抵抗を始め、トルコ民兵の激しい抵抗によってフランスはトルコからの撤退を決定。1921年12月25日にフランス軍が撤兵しました。

現在、アンテプの町は「ガズィアンテプ」という名前で知られ、わずかな時間で鬼の民兵を作り上げたシャヒン・ベイは、ガズィアンテプのみならずトルコ人に愛国者として敬愛されています。

 

2. スチュ・イマーム(1871-1922)

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image from: "SÜTÇÜ İMAM KİMDİR?" Kahramanmaraş Sütçü İmam Üniversitesi

 アンテプ抵抗のシンボル的英雄

第一次世界大戦でマラシュの町はイギリス軍に制圧されましたが、ムドラス休戦協定によりフランス軍が進駐しました。

このマラシュの町の住民が一斉蜂起してフランス軍に頑強な抵抗をすることで、フランス軍は多大な犠牲を出し、トルコからの撤退を余儀なくされるのですが、マラシュの町のレジスタンスの精神的支柱になったのが、ウズルノ・モスクのイマームであったスチュ・イマーム(SÜTÇÜ İMAM)です。

スチュ・イマームとはあだ名で、若い頃にモスクの前で牛乳(SÜT)を売って生計の足しにしていたエピソードから来ています。

1919年10月31日、スチュ・イマームは「マラシュの町を占領して支配者として振る舞いトルコ人を侮辱したアルメニア人」に対して、挑戦的な「神の言葉」を投げかけた、そうです。ちなみに当時フランス軍の主力はアルメニア兵で、かつてトルコ南部キリキア地方に存在したアルメニア人国家を再構築させフランスの傀儡国とすることを目論んでいました。

アルメニア兵とスチュ・イマームと彼を取り囲むトルコ人らは険悪化し、トルコ側の記録によると「アルメニア兵がトルコ人群衆に向かって発砲した」そうです。本当のところはよく分かりません。

こうしてアルメニア兵とトルコ市民との間で銃撃戦となり、スチュ・イマームは銃で1人のアルメニア兵を殺害しました。気勢を上げた市民たちはマラシュからのフランス軍の追放を目指し一斉に軍事蜂起。22日間のレジスタンスの末にとうとうマラシュからフランス軍を追放しました。

この偉業を讃え、アンカラ政府はマラシュの住民に「英雄(カフラマン)」の称号を送りました。

スチュ・イマームは英雄となり、町の広場には彼を記念する噴水が作られ、彼が眠るモスクの墓は「霊廟」に格上げされました。さらに、1973年からマラシュの町は「カフラマンマラシュ」という名前に改名し、アルメニア人への抵抗を象徴する町となったのでした。

 

3. ギョルデスリ・マクブレ(1902-1922)

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 ギリシャとの戦いで殉国した若い女性ゲリラ

1918年10月にムドロス休戦協定で戦勝国となったギリシャは、1919年1月のパリ講和会議で「イスタンブールを含むトラキアと、小アジア沿岸部大部分の割譲」を要求しました。

これは国際社会に広く認められなかったのですが、「大ギリシャ建設」を目指すギリシャは休戦協定を破り、イズミルのギリシャ人を保護するというのが名目として1919年5月に南西部の港町イズミルに軍を上陸させました。

オスマン軍はスルタンの命令で抵抗を禁止され、怒ったトルコ人はゲリラとなってギリシャ軍に抵抗しました。イズミル近郊のマニサに住む当時17歳の女性ギョルデスリ・マクブレもゲリラに身を投じた一人です。

彼女と夫のハリル・エフェは志願してトルコ国民軍に加わりゲリラ戦に参加。獅子奮迅の活躍でギリシャ軍に大きな被害を与えたと言われています。

黒いズボン、ジャケット、長いコートを身に着け、ブーツを履き、頭に黒い帽子をかぶっていました。敵から分捕った馬にまたがって分遣隊の指揮を執っていました。

彼女は1922年3月17日、アクヒサルとスングルルの国境にあるコカヤイラで頭を撃たれ死亡しました。21歳でした。

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4. エミール・アイシェ(1894~1967)

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ギリシャ兵に抵抗した農民女ゲリラ

エミール・アイシェはカヤック村のムスタファという男と結婚しますが、彼が第一次世界大戦に召集されてチャナッカレ(ガリポリ)で戦死してしまいます。

 夫の戦死後、アイドゥンに定住しますがギリシャ軍によって占領されたため、友人と共に村を脱出。友人は逃亡中に川に落ちて溺死してしまいます。彼女は夫の形見のダイヤモンドの耳飾りを売って、その金でライフルを買い、アイドゥン解放のためにギリシャ人と戦い始めました。

彼女はまずSancaktar Ali Efeの部隊に加わり、ギリシャ軍を襲撃してアイドゥン解放に成功しました。しかし再びギリシャ軍に取り返されたため、再び山に逃げ、 1919年9月7日の再解放まで戦い続けました。戦後、アンカラ政府からメダルを授与されました。

このように私財を投げうって自発的に敵と戦った人々のことをトルコでは「チェテ(Çete)」と呼びます。エミール・アイシェもこのような人々はチェテの1人で、英雄視されています。

 

5. ヨルク・アリ(1895-1951)

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 ゲリラ民兵からアイドゥン司令官にまでなった人物

 ヨルク・アリはエミール・アイシェと同じくアイドゥン解放のために戦ったゲリラ民兵です。 

彼は19歳の時に民兵に身を投じる決意をし、モラ・アフメット・エフェのグループに参加。すぐに信頼を得て、モラ・アフメット・エフェの死後に彼はヨルク・アリ・エフェとして民兵団のリーダーになりました。

ヨルク・アリ一派は4年以上山を歩き回り、人々の信頼を勝ち得ていったそうです。1919年にヨルク・アリ一派は山から降りてきて、ギリシャ軍が占領していたアイディンの警察署を襲撃。弾薬や物資を捕獲しました。

ヨルク・アリはトルコ大国民議会政府軍第7師団司令官シェフィク・アケルの指示に従い、アイドゥン解放のための戦いに加わりました。ギリシャ軍に一度再占領されるも、二度目の侵攻を行ってギリシャ軍を追い出し、アイドゥンからアナトリアへの侵攻を決定的に防ぐ働きをしました。

手腕が認められ、トルコ大国民議会政府軍に加わりアイディンの司令官に任命され、戦後にはトルコ大国民議会から独立勲章を授与されました。

 

6. フェヴズィ・チャクマク(1870-1950)

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 オスマン帝国末期から共和国初期までを献身的に支えた軍人

フェヴズィ・チャクマクは、陸軍大学校卒業後、第1次バルカン戦争などオスマン帝国が没落する中で数々の戦いに参加。第一次世界大戦のガリポリ防衛戦では、第五軍団の司令官として従事し、戦後に参謀総長となりました。しかしムスタファ・ケマルがアンカラにトルコ共和国を設立した後、トルコ大国民議会に参加するためにイスタンブールを離脱。1920年にはムスタファ・ケマルによって国防大臣兼副首相に任命され、トルコ独立戦争では、サカリヤの戦いをはじめとする数々の軍事的成功を収めました。

1921年に首相に就任するも、1922年にギリシャを追い出すための大攻勢(ドゥムルプナールの戦い)に参加するために辞任。1922年、ムスタファ・ケマルの推薦により、野戦元帥に任命されました。

1921年8月にイスメット・イノーニュの後任として参謀総長に就任し、1923年にトルコ共和国が建国された後もその任に当たりました。1938年にアタチュルクが死去した後、大統領候補に挙がっていましたが、右腕だったイノーニュを支持して辞退しました。

 

7. ネザハット・ベイセル(1908-1994)

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 12歳で伍長に任命された「トルコのジャンヌダルク」

 ネザハット・ベイセル(ネザハット伍長)は子どもながらにして独立戦争に加わり、ムスタファ・ケマルにその活躍が認められ12歳で伍長に任命されたことで有名です。

 ネザハットは軍人だった父について9歳で戦場に赴き、チャナッカレ(ガリポリ)では馬上で火器を扱うことを覚えたそうです。12歳で初めて軍服を着て戦いに参加し、チェルケス・エセム指揮下の第70連隊、兵数600人の一員となりました。大人に混じって戦う12歳の少女の存在は、ムスタファ・ケマルとイスメト・パシャにも知られることになり、ケマルとも3度直接会っているそうです。

もっとも有名なネザハットのエピソードは、ギリシャ軍と激しく戦ったゲディスの戦いのもの。ギリシャ軍の攻勢により撤退を始めた兵の前に立ちはだかり「お前たちどこへ行くんだ!私とお父さんはこれから死ににいくのに!」と声を上げて兵士たちを鼓舞した、というもの。12歳の少女が、です。この鼓舞で息を吹き返したトルコ軍は、ギリシャ軍を押し返してゲディスの戦いに勝利し反転攻勢に成功しました。

このエピソードがアンカラにも伝わり、1921年1月30日のトルコ大国民議会でネザハットに伍長の位が送られました。

 

8. カラ・ファトマ(1888-1955)

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 イズミル解放を成し遂げた女性少尉

カラ・ファトマの夫は第一次世界大戦のコーカサス攻略戦で戦死。1919年、彼女はトルコ大国民議会に参加し、ムスタファ・ケマルの承認を得て民兵組織を作りました。

彼女の指揮下には、700人の男性に加えて43人の女性がいました。彼女の部隊はブルサとイズミルの戦線で戦い、彼女自身も2度ギリシャ軍の捕虜となっています。2回目の投獄ではニコラオス・トリコウピス将軍の司令部に連れて行かれ、将軍が彼女に話しかけたという逸話もあります。1922年9月9日のギリシャ人からのイズミル解放の際、彼女の部隊はイズミルに最初に入った部隊のひとつでした。

最初は伍長として軍務を開始しましたが最後は少尉になり、トルコ共和国の独立後に引退。年金をトルコの赤新月社に寄付し、イスタンブールの修道院で貧しい生活を送りました。1933年に「再発見」され、国慶節の軍事パレードで勲章を飾るなどの栄誉が与えられました。

 

9. ハリム・チャブ(1897-1976)

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 ムスタファ・ケマルに感銘を与えた男装の女性兵士

ハリム・チャブ(ハリム軍曹)は髪を剃って男装しトルコ軍に加わり、独立戦争に参加したことで知られます。

トルコ北部のカスタモヌの生まれで、両親が止めるのを聞かずに軍に参加し、男性のように髪を切って、軍服を着て、イネボルからアンカラとサカリヤに弾薬を運ぶ輸送任務に携わりました。

ある寒い冬の日に、ムスタファ・ケマルがイネボルを視察した時の出来事が知られます。

ムスタファ・ケマルは、ハリム・チャブが自分のコートを脱いで弾薬の上にかけているのを見て「おい、君、寒くないのかい?」と声をかけました。ハリム・チャブは「私が寒いのは問題ではありません。この弾薬は、数千とは言わないまでも数百人の兵士を護るでしょうから」と答えました。

この時ムスタファ・ケマルはこの兵士が女性であることに気づいて心を打たれたそうです。ムスタファ・ケマルは戦後、ハリム・チャブをアンカラに呼び出し「軍曹」の位を与え、生涯暮らせる恩給を与えることを約束しました。

ハリム・チャブは戦後も男装を辞めず、結婚もせず、一人の愛国者として暮らし75歳で死去しました。

 

10. ネネ・ハトゥン(1867-1955)

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Image by Eğitmen Mahmut

「トルコ女性の英雄と勇気の象徴」と称えられる人物

1877年~1888年の露土戦争(トルコではヒジュラ歴1293年にちなんで『93戦争』)では、オスマン帝国はロシア&セルビア&モンテネグロ&ルーマニア&ブルガリア連合軍に大敗し、ロシア軍にイスタンブール近郊のサン・ステファノまで攻め込まれました。

トルコ北東部の町エルズルムもロシア軍に占領され、市中心部外れにあるアジジエ要塞も占拠されたのですが、エルズルムの住民が民兵となりロシア軍に抵抗してエルズルムとアジジエ要塞を奪還しました。民兵の中には女性も含まれており、もっとも有名な人物がネネ・ハトゥンです。

彼女は当時22歳で幼い子を持つ母親でしたが、「神がこの子を育ててくれるでしょう」と言ってゆりかごに子を残し、銃と手斧を持って戦いに向かったそうです。

主に斧と農機具で武装した年配の男性と女性たちがアジジエ要塞に殺到。ロシア兵の銃撃によって何百人もの人々がなぎ倒されますが、人々は要塞の鉄の扉をぶち壊して中に侵入。血みどろの接近戦で「約2,000人のロシア兵が殺された」とトルコ側の記録にあります。

戦いの終了後、ネネ・ハトゥンは意識不明で負傷しており、血まみれの手はまだ手斧をしっかりと握っていたそうです。

かなり凄惨な戦いですが、このような民衆の自発的な蜂起がトルコ独立戦争の勝利へとつながっていきます。

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まとめ

 大部分がトルコ独立戦争中のエピソードですが、なかなか苛烈です。

女性が非常に多く、中には子ども兵も含まれ、しかも皆自発的に戦いに加わった民兵で、我々の価値観では議論が分かれると思います。

 しかし現在のトルコでは「国のために命を顧みず自発的に戦いに参加した」というが高く評価されているようです。実際、独立戦争では人々の自発的な戦争協力がなかったらギリシャ軍やフランス軍におそらく敗れていたはずで、いまのトルコ共和国も存在しなかったかもしれないので、ナショナル・メモリーとしては重要に違いはありません。

 

参考サイト

"Antep savunmasının simgesi: Şahin Bey" ANADOLU AJANSI

"SÜTÇÜ İMAM KİMDİR?" Kahramanmaraş Sütçü İmam Üniversitesi

"Gördesli Makbule kimdir?" akit

"Çete Emir Ayşe"  Biyografya

Fevzi Çakmak - Wikipedia

Yörük Ali Efe - Vikipedi

Kara Fatma - Wikipedia

Nezahat Onbaşı - Vikipedi

"Halime Çavuş" T.C. KASTAMONU VALIGI

"Türk kadınının cesaret ve kahramanlığının simgesi: Nene Hatun" ANADOLU AJANSI