国際標準地名をめぐるナショナリズムの戦い
日本海という呼称をめぐる問題は、日本というよりは韓国・北朝鮮において盛んです。
韓国・北朝鮮は、日本海という呼称は日帝強占期に定着した名であるとして、「東海」または「朝鮮海」の併記または単独表記を求めています。韓国では官民を挙げて「誤りを正す」粘り強い取り組みがなされていますが、「Sea of Japan」が定着しているため、国際的に広く影響が及ぶような成果は上がっていません。
日本海呼称問題(東海呼称問題)は、「本来あるべき」と韓国・北朝鮮が考える理屈を国際的に認めさせようとする試みですが、このような運動や取り組みは、実は世界中に多く事例があります。
1. ペルシア湾呼称問題
伝統の呼称 vs アラブナショナリズム
イラン南西部、サウジアラビア北東部の湾を巡る呼称問題が存在します。
歴史的にはこの湾は「ペルシア湾」と呼ばれ、国連の作業部会が2006年に発表した論文によると、この呼称は紀元前5世紀にアケメネス朝のダレイオス1世によって造語されたものであるとされています。伝統的な呼称であることが認められ、国連ではペルシア湾が使われ、日本もそれに準じています。もちろんイランはペルシャ湾と呼ぶことを主張し、その名前を使わない出版物を禁止しています。
しかし、サウジアラビアを始めとするアラブ諸国はこの湾を「アラブ湾」と呼ぶことを主張し、様々な機会でアラブ湾を用いるように国際社会に求めています。
歴史家のローレンス・G・ポッターは著作「歴史の中のペルシャ湾」の中で、「アラブ湾」という呼称が登場したのは、1950年代後半に汎アラブ主義を推進したエジプトのナセル大統領の時であり、用語自体は新しいとしています。
ただし、イランと敵対するアメリカ軍は1991年の湾岸戦争以来「アラブ湾」を使用しています。
2. マケドニア呼称問題
歴史的な「マケドニア」呼称に関する論争
2018年6月12日、「マケドニア共和国」は「北マケドニア共和国」に改称されることが決まり、2019年2月12日に正式に国名変更がなされました。
この論争は、南スラブ民族であるマケドニア人が、アレクサンドロス大王がかつて率いて大帝国を形成した歴史的なマケドニアの名称を盗用している、というギリシャからのクレームに端を発しています。
古代マケドニア帝国の領土の一部は確かに現在の北マケドニア共和国の一部ではありますが、ギリシャ人のアイデンティティである栄光の歴史が、後からやってきたスラブ系の民族に奪われてしまっていることにギリシャ人は我慢がならないわけです。
長年の論争を経て、「ゴルナ・マケドニヤ(上マケドニア)」「ノバ・マケドニヤ(新マケドニア)」「イリンデン・マケドニア」など、これまで数多くの代替案がありましたが、もっとも現実的で事実に即している「北マケドニア」が採用されました。
マケドニア問題について詳しくはこちらをご覧ください。
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3. チェコスロバキア呼称問題
チョコスロバキア人という民族は存在するか否かを巡る論争
チェコスロバキアは第一次世界大戦末期の1918年にオーストリア=ハンガリー帝国支配下のチェコとスロバキアを一体化して独立させた国でした。
同じ西スラブ民族ですが言語や文化が全く異なるチェコ人とスロバキア人を「チェコスロバキア人」という人工的な民族に仕立てたのが初代大統領のトマーシュ・マサリクです。
マサリクは当代きっての知識人で、自身もチェコ人とスロバキア人のハーフであったこともあり、両民族が協調することで国の発展が開かれると固く信じていました。しかし経済的・文化的に進んだチェコがスロバキアを支配する政治・社会構造にスロバキア人は反発を強めていきます。
その結果、1968年の「プラハの春」によりチェコスロバキアはチェコ社会主義共和国とスロバキア社会主義共和国による連邦制に移管しますが、これ以降一部のスロバキア人は国は2つの民族による平等な連邦制であるという認識を持ち、国名を「チェコ=スロバキア」とするようになりました。
1989年に共産党一党独裁体制が崩壊すると、スロバキアでは国名変更の要望が高まり、チェコ人議員とスロバキア議員との間で激論が繰り広げられることになります。「チェコ=スロバキア連邦共和国」という国名を許すかどうか、という議論が繰り広げられ、議論の結果、1990年に「チェコおよびスロバキア連邦共和国(Česká a Slovenská Federativní Republika)」という国名に落ち着きました。
その延長線上に、チェコとスロバキアの分離「ビロード離婚」が生じます。
チェコとスロバキアの分離について詳しくはこちらの記事をご覧ください。
4. ブリテン諸島呼称問題
アイルランドが使用を拒否する「イギリス諸島」
ブリテン島とアイルランド島を含めた諸島群を地理用語で「イギリス諸島(British Isles)」と言いますが、アイルランドでは「アイルランドが未だにイギリスの支配下にあるように誤認させる」「大英帝国のアイルランド支配の名残」として使用を嫌う傾向があります。
この意見には「純粋に地理的な定義であるにもかかわらず、政治的な実体であるグレートブリテンやイギリスと混同されることが多い」とイギリス側から意見も上がっています。アイルランドの観点からは、「イギリス諸島」を列島の地理的名称というよりは、政治的な用語として捉えている人もいます。アイルランド政府を含む多くの政治団体は、アイルランドをイギリス諸島の一部であると表現することを避けています。
イギリス諸島の代替としては、「ブリテンおよびアイルランド」「大西洋諸島」「アングロ・ケルト諸島」「イギリス・アイルランド諸島」「北大西洋の島々」などがあります。
イギリス政府とアイルランド政府の間で共同で作成された文書では、「これらの島々(these islands)」と呼ばれているそうです。
5.オーストラリアのドイツ語地名の改名
反ドイツ感情の高まりからドイツ語由来の地名が変更される
第一次世界大戦中、オーストラリアの南オーストラリア州では反ドイツ感情が高まっていました。
ドイツ系オーストラリア人は英国王室への支援を誓い、積極的に国家への支援を行ったにも関わらず、ドイツ系の人々は迫害を受けました。ドイツ系の新聞や学校、クラブは閉鎖され、地域の指導者は危険視され収容所に拘留されました。差別は二世や三世にも広がり、ドイツ系というだけで会社をクビになったりしました。
1917年には反ドイツの熱狂はドイツ風の地名にまで広がりました。命名委員会が設置され、「敵国由来」の地名からイギリスや南オーストラリアの土着の地名への変更を勧告しました。1917年末に命名法(Nomenclature Act)が可決され、1918年1月に南オーストラリア州の69の地名変更の最終リストが公布されました。
スタインフェルド(Steinfeld)はストーンフィールド(Stonefield)、ベサニアン(Bethanien)はベサニー(Bethany)などのように英語に変えられた地名。他には、ばフリードリッヒスワルド(Friedrichswalde)からタルンマ(Tarnma)、マウントフェルディナンド(Mount Ferdinand)からマウントワラビリンナ(Mount Warrabillinna)などのようにアボリジニ風に変更されたものもあります。
6. 南アフリカ首都名変更問題
プレトリアかツワネか
南アフリカ共和国の首都はプレトリアですが、長年この名称を原住民由来の言葉「ツワネ」に変更しようという動きがあります。
プレトリアという名は、この地を開いたボーア人(アフリカーナー)のアンドリース・プレトリウスに由来しています。ボーア人はイギリス系により迫害されて、苦難のグレート・トレックの後にこの地を開いたという歴史を有するため、プレトリアという地に非常に愛着を持っています。
しかしもともとこの地に住んでいた原住民の言語に戻すべきであるという意見は根強くありました。2005年5月26日、芸術文化省の遺産局に連なる南アフリカ地理的名称審議会(SAGNC)は、周辺のいくつかの都市を含む広域首都圏自治体として先住民ンデベレ族の首長の名前「ツワネ(Tshwane)」に変更することを承認しました。
これにより「ツワネ市都市圏」が成立し、プレトリアはツワネ市都市圏の一部となったため、現在はプレトリア市は存在しないのですが、行政の中心であるプレトリアの地名をもツワネに変更することは芸術文化大臣によって承認されませんでした。
2010年初頭、南アフリカ政府が名称を正式に変更するだろうと噂されましたが、アフリカーナの市民団体・政治団体からの猛烈な抗議もあって取り下げられました。2021年現在未だに保留の状態が続いています。
国連も日本の外務省も、未だに南アフリカの首都は「プレトリア」と表記しています。
7. ペルシアかイランか
国際的に使われてきたペルシャという呼び名をどう扱うか
イランという名前は、古代にアヴェスターで「airyānąm」と書かれたのがもっとも古い記述です。エーラーン、アーリヤンという単語は当初はイランの人々を指した言葉でしたが、ササン朝時代になると帝国を指すようになったようです。イラン国内のイラン人は「アーリヤ人の国」という意味で、エーラーンまたはエーラーンシャフル、後の時代にはイーラーンやイーラーン・ザミーンなどと呼称されていました。
一方で、ギリシア人は、紀元前5世紀にキュロス大王の帝国を指しペレシェス(Πέρσης)、ペルシクルス(Περσική)、ペルシス(Περσίς)といった言葉を使うようになりました。これはキュロス大王の出身地で最初に支配下イラン南西部の町パールサ(Pārsa)に由来するものです。これが国際的に広まり、伝統的に現在のイランを中心とする国や集団のことはペルシャと呼ばれてきました。
ところが、1935年に当時のシャー、レザー・パフラヴィーは外国の代表団に対し、正式な文通で「イラン」と呼ぶように通達しました。
今でも伝統的にイランのことを指すのはペルシャが使われることが多いです。「ペルシャの文化」「ペルシャ芸術」「ペルシャ絨毯」などと言われ、イランというと20世以降の現在の国を形容する時に使うことが多いです。
特に欧米に住むイラン人や反体制的な人々は、自分たちのことをペルシャと呼ぶことを好みます。ペルシャという名前は長い歴史と伝統を持つ輝かしい国というニュアンスを含む一方、イランという名前はイスラム体制を想起させるものでポジティブな印象を持たない、と彼らは言います。
言うことも分からなくはありませんが、その栄光の時代にもイランの人たちも自分たちのことを「エーラーン」と言っていたわけなので、イランでいいじゃないかと思いますが、それは外野の勝手な野次というものでしょう。
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まとめ
当事国以外からすると「どっちでもいいじゃないか」と思ってしまいますが、特に不当に感じている人々からすると地名の変更は自分たちのアイデンティティに関わる大問題です。
ただし「そうですか、じゃあ変えましょう」と簡単に変えてしまうと、それはそれで問題というか、じゃあウチもとなってキリがなくなります。地名変更を政治的武器に使おうとする奴らが絶対出てきます。
国家間ですので、事の重大さを十分に分かった上で検討や決定をすべきでしょう。
参考文献・サイト
"Persian (or Arabian) Gulf Is Caught in the Middle of Regional Rivalries" The New York Times
"آشنایی با نامهای سرزمین ایران - همشهری آنلاین"
British Isles naming dispute - Wikipedia
"South Africans Find a New Name for Dispute" Los Angels Times