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インド軍事史の英雄十人

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 華々しく派手な活躍をしたインド軍のレジェンド

 「お国柄」を知る方法は様々ですが、「英雄」と言われている人を調べてみることは一つ面白い手段だと思っています。

例えば戦争の英雄を調べると、集団としての民族の感情や、歴史的な課題、コンプレックスが見えてきます。

 今回はインド軍事史の英雄をみることで、インドという国のお国柄を探っていこうと思います。

 

1. ソムナート・シャルマ(1923~1947)

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わずか50人でパキスタン軍500人の攻勢を防ぎ戦死

ソムナート・シャルマ少佐は、第一次印パ戦争(1947年10月〜1948年12月)にて、開戦直後の1947年11月のカシミール作戦での勇敢な行動が評価され、死後にインド軍の最高勲章であるパラム・ヴィール・チャクラ勲章を授与されました。

1947年11月3日、シャルマ少佐の中隊50名は、カシミール谷のバドガムへの戦闘パトロールを命じられ、夜明けに目的地に到着し陣地を取りました。敵のパキスタン軍は約500人で、三方から彼の中隊の陣地に位置を攻撃仕掛けました。敵軍の攻撃は猛烈で、中隊は多数の死傷者を出します。

この陣地が奪われるとインド軍の飛行場につながらる重要な拠点を失うことを意味していたため、シャルマ少佐は隊員たちに粘り強く敵と戦うように鼓舞し続け、自らも敵の砲火の前に身を晒して戦いました。彼は敵の目の前まで前進して布を敷き、航空機への目標誘導とした上で空軍に助力を要請。

その後、軽機関銃兵が負傷したためギプスした左手で弾倉を自ら充填し、敵にぶっ放しますが、迫撃砲弾が弾薬の真ん中に着弾して爆発。死亡しました。

彼が殺される数分前に旅団本部に伝えた最後のメッセージは「敵は我々からわずか50ヤードのところにいる」「我々は多勢に無勢である。我々は壊滅的な砲火を受けている。私は一歩も退くことなく 最後の一歩まで戦う」でした。

この勇気と自己犠牲に多くのインド人が涙したのでした。

 

2. カラム・シン(1915~1993)

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パキスタン軍の猛攻から要衝を守り抜いたシーク兵

 カラム・シンは苗字から分かる通りシーク教徒。(シーク教徒はすべて苗字がシン)

インド陸軍でも歴史と伝統のあるシーク連隊に所属。第二次世界大戦ではビルマで日本軍相手に活躍し、メダルを授与されていました。

彼がパラム・ヴィール・チャクラ勲章を授与されたのは、第一次印パ戦争でのカシミール・Richmar Gali地区争奪戦での活躍のためです。

 1948年10月13日、パキスタン陸軍はカシミールで強固な防御を保持していたインド軍への大攻勢を決行します。この攻撃では特に、Richmar Gali地区で大規模な戦闘が行われました。そして、カラム・シンはこの地域の前哨基地を指揮していました。

シーク連隊は数で圧倒的に不利で、何回も波状攻撃をしかけるパキスタン軍の前に圧倒されました。とうとう弾薬が尽きますが、カラム・シンは脱出せずに手りゅう弾で敵を攻撃し、それもなくなると銃剣突撃で敵を倒しました。カラム・シンの獅子奮迅の戦いぶりに部下たちも奮い立ち、とうとうパキスタン軍は撤退しました。

シーク連隊は15人を失ったが、パキスタン軍は約300人を失ったとされています。

 

3. スベダル・ジョギンダー・シン・サーナン(1921~1962)

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中印国境戦争で玉砕死した司令官

ジョギンダー・シンもシーク教徒で、1962年の中印国境紛争による活躍でパラム・ヴィール・チャクラ勲章を授与されました。

紛争開始当時、彼は北東辺境局のブム・ラ・パスを守るシーク連隊の小隊の司令官でした。1962年10月23日、中国軍はこの地域の突破を図り、約200名からなる攻撃部隊で波状攻撃を展開しました。

第一波と第二派は中国軍も多大な損害を被り、ジョギンダー隊は何とか侵撃を食い止めますが、この時にはすでに小隊は半分になっていました。ジョギンダーも太ももに銃弾を受けていました。ジョギンダーは撤退を拒否して部下を鼓舞します。

第三波の攻撃は激しく、ジョギンダー自信が軽機関銃を放ち中国兵を何人も倒しますが、中国兵も勇敢で銃剣突撃を仕掛けてきました。ジョギンダーと部下も銃剣突撃をし白兵戦となり、何人かの中国兵を倒しますがとうとう全滅しました。

遺体は中国軍によって回収されインド側に引き渡されて葬儀が行われ、勇気と忠誠が讃えられパラム・ヴィール・チャクラ勲章が送られました。

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4. アブドゥル・ハミド(1933~1963)

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アサル・ウッタルの戦いでパキスタン戦車を大量破壊

第二次印パ戦争のアサル・ウッタルの戦いでは、インド軍が待ち伏せ作戦によりパキスタン軍のアメリカ製M47・M48のパットン戦車、97台を破壊し大勝しました。

アブドゥル・ハミドはこの戦いの前哨戦で敵戦車を6両破壊する活躍をみせ、かつ殉職し、その活躍と死によってアサル・ウッタルの戦いでのインド軍の勝利を勢いづかせたことでパラム・ヴィール・チャクラ勲章を授与されました。

1965年8月に第二次印パ戦争が始まった時、彼は第4榴弾兵隊に所属し、アサル・ウッタル村付近の敵を抑える役割を担っていました。9月8日、パキスタン軍は第4榴弾兵隊の陣地に何度も攻撃を加えましたが、その度にハミド率いる隊の無反動砲による攻撃によって撃退されました。この日にハミドの隊は敵戦車4台を撃破。翌日にも2台を撃破しました。9月9日、パキスタン軍のパットン戦車の大隊が第 4 榴弾兵隊陣を攻撃しました。ハミドは無反動砲を抱えてジープに乗り、戦車の側面に向かって突撃。背の高い綿花に隠れて戦車に攻撃を加え、2台を炎上させました。しかしパキスタン戦車の榴弾を受けて重傷を負い、その傷で死亡しました。ハミドは一人で計8台の敵戦車を撃破し、その記録は比類なきものだと称賛されました。

ハミドの勇気によって勇気づけられたインド兵は計97台の戦車を破壊してこの戦いに勝利。パキスタン軍は撤退しました。

 

5. アーデシール・バーゾルジ・タラポア(1923~1965)

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第二次印パ戦争でパキスタン戦車60両を破壊

 アーデシール・バーゾルジ・タラポア中佐は、インド独立前にハイデラバード藩王国軍に入り、第二次世界大戦はイギリス軍の一員として西アジアを歴戦した経験ある軍人。ハイデラバード藩王国のインド連邦加入後はインド軍所属となり、1965年に印パ戦争に従軍しました。

1965 年9月11 日、パキスタンのシアルコット地区でフィローラを奪取するため任務が、タラポア中佐率いるプーナホース装甲連隊に課せられました。後方からフィローラに奇襲攻撃を仕掛ける陽動作戦の一環として、連隊はフィローラとチャウィンダの間を突進するというものです。

ところが作戦中に敵の重装甲の逆奇襲を受け、タラポア中佐は撤退せずにその場に留まり敵の攻撃に抵抗し続けました。中隊は9月14日にはワジルワリを、9月16日にはジャッソランとブトゥール・ドグランディを攻略しました。彼のリーダーシップに触発されて、連隊は敵の装甲戦車を猛烈に攻撃し、約60台のパキスタン軍の戦車を破壊。味方の戦車の死傷者は9人でした。しかし、タラポア中佐の戦車は被弾して炎に包まれ、彼は英雄的な死を遂げたのでした。

 

6. アルバート・エッカ(1941~1972)

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重傷を負っても戦い続けたインドのランボー

アルバート・エッカは1971年12月に、東パキスタン(バングラデシュ)の独立をめぐって勃発した第三次印パ戦争において、英雄的な活躍をしたことで死後にパラム・ヴィール・チャクラ勲章を授与されました。

開戦時、エッカは東パキスタンのブラフマンバルヒア地区のアガルタラの西約6キロにあるガンガサガルという地区に14人の衛兵と共に派遣されました。この地は東パキスタンの中心都市ダッカへと続く鉄道を守る要衝でした。

エッカ含む14人の衛兵は、12月3日の夜に敵陣地への攻撃を開始しました。すぐにパキスタン軍の激しい銃撃にあいますが、エッカは敵の軽機関銃が地下壕から発射されているのを発見し、地下に突入し2人の兵士を殺害。さらに次々と地下壕に突入し占拠していきました。

エッカは重傷を負いますが、機関銃の攻撃をかわして敵に近寄り射殺したり、近寄って手榴弾を地下壕に投げ込んだりなどして、最終的に14人で敵のガンガサガルを陥落させました。しかし無茶な攻撃で瀕死の重傷を負ったエッカは死亡しました。

 

7. ニマルジット・シン・セコン(1943~1971)

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空軍で唯一パラム・ヴィール・チャクラ勲章を受章した人物

 ニマルジット・シン・セコン空尉は、第三次印パ戦争で活躍した空軍将校で、インド軍の史上唯一の空軍でパラム・ヴィール・チャクラ勲章を受章した人物です。

セコン空尉はスリナガラル飛行場に勤務していましたが、1948年に結ばれた国際協定により戦闘機の配備が行われておらず、1971年12月の開戦直前までこの地域の地形や空の状況などの情報はまったくない状態でした。

12月14日、パキスタン空軍F-86ジェット機6機がスリナガル飛行場への空爆を試みました。セコン空尉は、敵機の爆弾が落ちてくる中で飛行機に搭乗し離陸。反撃により、敵機1機を撃墜し、もう1機にもダメージを与え逃走させました。

ところがセコン空尉の乗る飛行機は制御システムの障害のために飛行機の高度を上げられず機体が降下し、基地からの帰還命令も間に合わず、墜落して死亡しました。セコン空尉の反撃により敵機は撤退しました。

セコン空尉の英雄主義、勇気、飛行技術の高さは、インド空軍の歴史でも最高の活躍だと賞賛されています。

 

8.アルン・ケタルパル(1950~1971)

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バサンタルの戦いで壮絶な戦死をした若い兵士

 アルン・ケタルパルはインド国立防衛大学に入学し、卒業後にはプーナホース装甲連隊に配属されたエリートで、将来の幹部候補生でした。第三次印パ戦争が勃発した時は将校になるための訓練を受けていましたが、中断して現場に配属になりました。

連隊の17名は第 47 歩兵旅団の司令部に割り当てられ、シャカルガル区間のバサンタルの戦いに参加しました。旅団はバサンタル川を渡る橋頭堡を確保しなくてはなりませんでしたが、辺りはパキスタン軍の地雷で埋め尽くされていました。戦車は地雷によりこれ以上進めず、航空支援もパキスタン軍の対空砲によって妨げられていました。
12月16日、パキスタン軍が攻撃を開始。ケタルパルは、彼の連隊と共にパキスタン装甲車の追撃に駆け付けました。敵戦車の進撃は防げたものの、指揮官のアフラワット中尉が負傷。ケタルパルは一人で敵を攻撃し続けました。パキスタン軍も勇敢で、多くの死傷者を出したにもかかわらず退却しませんでした。そしてパキスタン軍は戦車隊を再編成して反撃を行います。これに対しケタルパル残り2台の戦車でパキスタン戦車10台を破壊しました。

しかし激しい戦闘で彼の戦車は炎上し、上官は無線で退却するように命令しますが、「いいえ、私は戦車を放棄するつもりはありません。私の主砲はまだ機能していますし、私は彼らを捕らえます」と答えて最後の攻撃に乗り出します。そのすぐ後に二度目の砲撃を受けて戦車は爆発。ケタルパルは戦死しました。結局パキスタン軍戦車は目標地点の通過ができずにインド軍の勝利に終わりました。

この21歳の未来ある若者は、その壮絶な死にによりパラム・ヴィール・チャクラ勲章を受章しました。

 

9. バナ・シン(1949~)

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Photo by Shiv Aroor

シアチェン氷河最高峰を征服したチームを率いた隊長

バナ・シンは1987年にシアチェン氷河最高峰にある地点を征服したことでパラム・ヴィール・チャクラ勲章を受章しました。

シアチェン地域は印パの国境が入り組むカラコルム山脈の雪深い山岳地帯で、シアチェン氷河最高峰の地点はパキスタン軍に「クエイド・ポスト」という呼ばれ拠点となっており、将来的にパキスタンと中国を結ぶ回廊として機能しインドにとって大きな脅威となる可能性を秘めていました。パキスタンはクエイド・ポストへの外国人登山客への開放も始めており、この地域の支配の既成事実化を図ろうとしました。

1987年インド軍はこの地点の奪取を目論み、2回決死隊を送りましたがどちらもパキスタン軍の警備兵によって全滅させられました。6月23日に、3度目の決死隊としてバナ・シン小隊とサンサール・チャンド小隊がクエイド・ポスト奪取を目指しました。

クエイド・ポストの駐屯兵からの攻撃は激しく、サンサール・チャンド小隊はすぐに全滅。バナ・シンは1日待って5人の援軍を加え、正面からではなく、クエイド・ポストの側面の崖を登って攻撃することにしました。氷の壁をピッケルを使って登り、こっそりと頂上にあるパキスタン軍の地下壕に侵入。そうして奇襲攻撃をしかけました。

パキスタン軍はすべて殺され、インド軍がこの地点を占領しました。彼の功績を讃え、クエイダ・ポストは「バナ・トップ」という名称に変更されました。 

 

10. ヨゲンドラ・シン・ヤダブ(1980~)

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Photo by  Shiv Aroor

19歳でパラム・ヴィール・チャクラ勲章を受章した人物

ヨゲンドラ・シン・ヤダブは、1999年にカシミールのカルギル地区をめぐって起こったインドとパキスタンとの紛争であるカルギル紛争において、要衝「タイガーヒル」の争奪戦で活躍した人物です。

タイガーヒルはカルギル地区でもっとも標高が高い地点の一つで戦略的に非常な重要でしたが、開戦後にパキスタン軍によって占領され、インド軍も奪回を目指しますが断崖絶壁の奪還戦は困難を極め、精強で知られるシーク連隊でも奪還ができませんでした。

インド軍は準備を進め、7月3日から第18連隊、第2大隊ナガ連隊、第18大隊榴弾兵隊など総勢1,000人がタイガーヒル奪還を目指して攻撃を開始しました。第18大隊榴弾兵隊ガタック小隊に所属していたのが、擲弾兵のヨゲンドラ・シン・ヤダブです。彼は3日夜からタイガーヒルの頂上を目指して雪に覆われた岩山を進みました。ヤダブは危険を承知の上で自ら先頭に立ち進みますが、パキスタン兵に発見され手榴弾、ロケット団、砲撃の激しい攻撃を受けました。この攻撃で小隊長と仲間の二人が死亡。ヤダブは撤退せずに反撃をして、重傷を負いながらも敵兵を黙らせました。さらに重症の体で山頂を目指し、道中にある敵陣地に突撃攻撃をし近い距離から手榴弾や自動小銃で4名を殺害。とうとうタイガーヒルを占領しました。

タイガーヒルが占領されたことで不利となったパキスタン軍は、翌日に首相ナワーズ・シャリーフがカルギルからの撤退を宣言し、紛争はインドの勝利に終わりました。 

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まとめ

インド人が軍人のどういう点を評価するかが見えてくると思います。

勇気、リーダーシップ、自己犠牲の精神、忠誠心。

加えて、超人的な活躍、壮絶な討ち死に、前人未到の偉業、といった点です。

日本でも昔は、ラッパを加えたまま死んだ木口小平や、自爆して突破口を開いた肉弾三勇士のような人たちが讃えられ修身の教科書に載ったりしましたが、それに近いものがありそうです。 

伝統的に、こういう英雄伝が国民が好き、というのもありそうですが、国家への忠誠心といったものの上からの強い需要がある側面もあるのではないかと思われます。

 

参考サイト

"A Hero For Generations Of Soldiers : Major Somnath Sharma" ADU News

"Hon Capt Karam Singh PVC" Honourpoint

"War memorial of 1962 braveheart, Sub Joginder Singh inaugurated at Bum La" Oct 23, 2020 9:09PM, All India Radio

Joginder Singh (soldier) - Wikipedia

"Why Havildar Abdul Hamid Is One of Indian Army’s Most Celebrated & Revered Soldiers of All Time" the better india

"Lieutenant Colonel Ardeshir Burzarji Tarapore" ADU News

"Lance Naik Albert Ekka PVC" Honourpoint

"Fg Offr Nirmaljit Singh Sekhon PVC" Honourpoint

"2nd Lt Arun Khetarpal PVC"  Honourpoint

"The Story of Bana Singh, The Hero Who Helped India Win The 1987 Siachen Standoff" the better india

"Param Vir Chakra (PVC) Awardee: Grenadier Yogendra Singh Yadav, PVC" The War Decorated India & Trust