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「タイの国民料理」という使命を持った人工的国民食
タイ料理の定番であるパッタイ。
歴史は古くなく、誕生したのは1940年ごろのことです。パッタイは時の権力者により、明確な政治的意図をもって作られ広められた料理です。パッタイ(Pad Thai=タイ炒め)という名前が象徴するように、その成り立ちや拡がりの過程は非常に近代的かつ人工的であります。
1. パッタイとはどんな料理か
スーパーマーケットでもガパオライスやトムヤムクン、グリーンカレーといったレトルト食品が並び、タイ料理は市民権を得て、いまや日本人の日常食の一部となっています。
パッタイもスーパーのお惣菜に並ぶほどですが、特にこだわりがないお店だと、「タイ風の味付けをした焼き麺料理」は全部パッタイと呼んでしまう傾向があるようです。ですが、タイの焼き麺料理はパッタイだけではなく、色々種類があります。
パッキーマオ
「酔っ払い炒め」という意味で、酔っ払いの酔いがさめるほど辛いという意味があり、バジル風味で唐辛子がガツンと効いた激辛麺です。
これは名古屋のきしめんのような食感の米麺を用います。
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ナムギャオ
ナムヤオともナムギョウとも言います。タイ北部チェンマイ名物の麺料理。
特徴的なのが、スープに乾燥納豆であるトナオを入れている点です。麺は通常はそうめんに似た米麺カノム・チーンを入れますが、平たい米麺のクイティオを入れる場合もあるようです。
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パッシーイウ
広東料理の影響が強い麺料理で、八宝菜の中に麺を入れたような味です。
パッタイは甘いタマリンドソースを使いますが、パッシーイウは醤油味です。
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これらの麺料理とパッタイはまるで異なります。
パッタイは
- 麺は中細麺のセンレックか、チャンタブリ地方のセンチャン
- 味付けはナンプラー、タマリンド、パームシュガー
- 干しエビ、にんにく、ピーナッツ、赤唐辛子、ライムで風味付け
- 具材に卵、もやし、ニラ、えび、豚肉、揚げ豆腐、塩漬け大根
を使う点が特徴です。甘味・辛味・塩味・酸味を混在させ、モチモチ・サクサク・パリパリ・シットリの異なる食感の材料を入れた、にぎやかな歯ごたえの麺料理です。他に好みで鶏肉やシーフードを入れる人もいますが、上記の材料がベーシックです。
さて、ここから本題です。なぜパッタイは「人工的に作られた」のか。
その前知識として、タイの近代史を知る必要があります。
2. ピブーンの「チャート・タイ」建設
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現在のタイ王国の前身となるアユッタヤー朝は、現在のチャオプラヤ川中下流域を基盤とし、山林資源や米を背景に中国やヨーロッパ、日本などとの国際貿易で栄えた国でした。王族はタイ人でしたが、宮廷や臣下には多くの外国人がいて、時代により中国、日本、フランス、イギリスなど有力な勢力が入れ替わってきました。
そのような歴史があるため、アユッタヤーには「固有の文化」というものが存在しませんでした。19世紀以降、アユッタヤー朝の後継王朝であるチャックリー朝では、何も統一したものがない国土を一つの尺度で束ね、近代的な「国民国家」を作るために、言語や歴史、文化、民族意識などを「創設」する必要がありました。
この辺り詳しくはこちらの記事をご覧ください
「タイ的価値・共同意識(チャート・タイ)」の建設を強力に推進したのが、タイの立憲革命を主導した軍人プレーク・ピブーンソンクラームです。
ピブーンは1938年12月に総理大臣に就任し、世界恐慌以降の不況で世界中で強まった全体主義・保守主義を背景にして、国営企業の創設や外国人の経済活動への排斥などを行い、「タイ人のためのタイ経済」の構築を目指しました。
また、民主主義者であったピブーンは、それまで国の象徴であった国王の影響力を削ぎ、タイという名の強力なチャート(共同価値観・共同意識)を基盤として国民をまとめあげようとしました。その対象は経済、社会、教育、軍事、文化など多様な領域に及び、北部人、東北人、中部人、南人、マレー系イスラムなど多様な人々を「タイ」という政治的枠組みに入れ込もうとしました。
ピブーンは1939年にはそれまでの「シャム」という国名を改め、「タイ(自由の国)」に変更しています。シャム(サイアーム)は、厳密にはチャオプラヤ川下流域周辺を指す言葉であるため、北部の山岳世界から南部のイスラム世界までを含む人工的な名前に変更したわけです。
ピブーンは「タイ文化」創設のために、中国人を始めとしたマイノリティを弾圧し、北タイやイーサーン、南タイの文化を積極的に取り入れ、国民文化を作り上げていきました。パッタイという料理の創作も、この流れの一部であります。
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3. パッタイの創作
Photo by Terence Ong
東南アジア文化を専門とする文化人類学者ペニー・ヴァン・エステリックは、著書『Materializing Thailand』の中で次のように述べています。
ピブーンの国家建設戦略は、「タイらしさ」を発展させ、タイ国家の強さと統一性を示すために「タイの偉大な伝統」を作ることでした。1939年から1942年までの一連の政策は、タイ経済を強化し、国家イメージと誇りを植え付け、国民の食生活を改善するための取り組みの一環です。麺料理を普及させることは、そのための一つの手段でした。それは、当時流行していた乾麺や乾麺の中華料理とは違っていたからです。
さらにペニー・ヴァン・エステリックは、パッタイがピブーンの家庭で作られていた料理であるとしています。ピブーンの家の誰かか、専属の料理人か定かではないが、家で食べられていた麺料理をピブーンが「理想的な料理」であるとして、国民全体に広げようとしたと言うのです。
私の両親は、実際に太平洋戦争中にパッタイを流行らせました。この料理が家族の中で食べられていたことを覚えていますが、実際に誰が考案したのかは覚えていません。おそらく家族の料理人?それともおばさん?私の両親は、タイ人に良いと思って、この料理を自分たちの家庭で広めました...政府は、この料理がとても栄養価が高いので、普及させるのに役立つと考えたのです
現在でもタイ人の定番の家庭の食事と言えば、米飯を主食にして、おかずに揚げた魚や焼き鶏や焼き豚、川魚のスープ、付け合わせに生の野菜、それらの味付けにナムプリック(唐辛子ベースの辛味ソース)をかけて食うものです。
ピブーンは、このような塩分が多く栄養バランスに偏りがある食事をやめさせ、パッタイを普及させ炭水化物、肉類、野菜、卵、ナッツなどバランスのよい食事をとらせることでタイ人の健康を促進することができると考えたわけです。
4. パッタイの普及
ピブーンは事あるごとに、新たな「国民料理」パッタイを普及させようと試みました。
1940年代に多発した水害の被害者にパッタイを提供したりなどして、メディアを通じてレシピを広く宣伝し家庭のメニューに組み込むように人々に訴えました。農家にはパッタイの材料となる野菜の栽培を奨励しました。また、バンコクの路上でパッタイを販売させるために移動式の調理台車の利用も奨励しました。タイ名物の移動屋台はこの頃始まり、その当初の目的はパッタイの普及にあったのです。
パッタイは手軽なランチとして大都市バンコクで普及すると、出稼ぎに来ていた人々によって農村部へとレシピが広がり、徐々に食べられるようになりました。当初、田舎の人からするとパッタイは「都会で流行ってるおしゃれなランチ」で、田舎の食堂で食べるメシよりもはるかに高いおご馳走だったそうです。その後、タイの経済成長や屋台の普及に伴って、パッタイは庶民メシの定番になりました。
ぼくのタイ人の配偶者が言うには、パッタイは「何も食べたいものが思い浮かばないときに妥協で食べるもの」。特に何か個性があるものじゃないけど、まずくなりようがないので、ハズレを引くことはない、という存在のようです。ちなみに、もう一つの妥協メシは「ガパオライス」と言っていました。
パッタイはタイ料理で初めての「成文化されたレシピを持つ料理」でした。
タイの人々には、正しい材料や調味料の量といった概念はなく、料理とはその日手に入った食材で、家にある調味料を使い、目分量で「適当に」作るものでした。おいしい料理は土地と食材と作り手に依存していました。そのため、どの土地でも誰が作っても均等な味が出せる料理の登場は、タイ料理の世界では革命に近いものでした。ただし、その革命性に人々が気づくのはもう少し後のことだったかもしれません。
パッタイは実際のところ、ピブーンが狙ったかどうか定かではありませんが、甘味・酸味・辛味・塩味と様々な食感の食材が混在となった味わいを楽しむという点で、典型的なタイ料理です。あまり辛くないので辛いものが苦手な人や子どもでも食べられます。
インド料理で使われるタマリンド、中国料理で使われる醤油に似た風味のナンプラー、マレー半島のパームシュガー、アジア圏のみならず世界中で好まれる麺が使われ、普遍的な味に仕上がっているのです。
タイ料理のグローバル化に伴い、パッタイは「タイ料理代表」として世界中に普及していきます。
5. タイ料理のグローバル化とパッタイ
タイ料理は現在、世界で最も人気のある料理の一つです。
タイ料理が人気になった一つのきっかけがベトナム戦争でした。1960年代から1970年代にかけて、タイにはアメリカ軍の基地が多くできて、アメリカ兵を始めとした外国人の休息と療養の拠点となりました。外国人兵の休息のためのエンターテインメントの提供が一大産業と化していき、これが現在の観光立国と美食の国という地位の始まりです。
この時タイに滞在したアメリカ人らによってタイ料理の美味さが世界中に伝わり、タイ料理が世界各地に広がるきっかけとなります。アユッタヤー朝時代、外国人がたくさんいたが故に自国文化が生じなかった状況とは真逆なのが皮肉なところです。
2002年、タクシン元首相の下で「グローバル・タイ・プログラム」が立ち上がり、レストラン設立のための融資、レストランの品質管理、タイ料理店とタイ食品産業とのビジネス関係の構築、タイ料理学校の設立など、多様なプログラムを実施しました。このプログラムにより、タイ料理店は2002年の約5千店から2008年には約2万店以上に急増したのです。
イタリア料理店でパスタが、日本料理店で寿司が、メキシコ料理店でタコスが提供されるように、ほとんどのタイ料理店でパッタイが提供されています。しかし、タイ料理の普及に伴い、「本物でない」レシピのパッタイが問題化しました。ローカライズの一環ではあるのですが、オイスターソースや照り焼きソース、メープルシロップ、ピーナッツバター、カレー粉、トマトケチャップなどが入れられてしまい、「まがいもの」がパッタイとして定着してしまいました。
タイ料理のグローバル化プロジェクトの目的は、タイ料理を通じたタイ王国のブランディングとタイ食材の需要の拡充を通じた国内産業の振興にあるため、「正しい」タイ料理の普及活動が必要になってきました。
そのため、タイ政府は2011年からタイ料理レストランの「認定制度」をとっています。タイ政府が認めたレストランは「タイ・セレクト」という称号を名乗ることができます。2013年9月30日時点で、タイ・セレクト認定レストランは、全世界で1,447店舗、日本国内では100店舗あります。
ある程度料理はローカライズされるのが当然で、人々の発想に任せる方が様々なアイデアが生まれ拡がっていくものだと思うのですが、タイ政府はその逆をいき、然るべき組織によってコントロールすることを重視しています。伝統的なタイ料理がルール皆無で自由である一方、タイ政府がタイ料理を制限しているのは面白い対極現象であるのですが、国際的にタイ料理の「チャート(共同価値観・共同意識)」を作るには、いまの方針が正しいのかもしれません。
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まとめ
新たに考案された料理が「国民料理」として時の独裁者により押し付けられるも、それが次第に国民の間にも浸透し、その食べやすさから国際的にも認められ代表的地位になってしまい、文字通りの国民料理になるというのは面白い歴史です。
ピブーンは日本軍に協力して戦争に突入し国民を苦しめたり、少数民族の文化や習俗を破壊したり、後世から見ると問題の多い人物ではあったのですが、ことタイ料理に関して言うと、タイ人に大きな文化的・経済的利益をもたらした人物と言えるのかもしれません。
参考文献・サイト
『《世界歴史大系》タイ史』 飯島明子, 小泉順子 編 山川出版社 2020年9月初版
"Food & Nationalism: From Foie Gras to Hummus" Ronald Ranta September 2015World Policy Journal 32
"Finding Pad Thai | Alexandra Greeley" GASTROMICA